なんか、人間ってたくましい。私って最強――って思ったのは、その翌日。 そんなことがあったっていうのに、私ったら、ちゃんと9時には自分のオフィスのデスクに着いてメールチェックなんかしちゃってるんだもの。 たった一日の間に、二人もの男に振られたっていうのに、私ったら、いつも通りに てきぱきと仕事を片付けていたんだもの。 お昼にはトンカツ定食をぺろっと平らげたし、午後にはミーティングも2つこなした。 ゼネラルマネージャーには、 「君の仕事は迅速で手際がよくてミスがない。そのあたりのコツを今年の新入社員たちに伝授してやってくれないか」 なんて、お褒めの言葉(?)までいただいた。 いっそ見事といっていいくらい派手に男(たち)に振られたのに、私、気分はものすごくよかった。 私ってば、なんでこんなにたくましいのって、自分で自分に呆れたわ。 私が次に氷河と瞬に会ったのは――ううん、会いにいったのは、次の週末。 グラード財団総帥のお屋敷に乗り込んでいくのは さすがに気がひけたから、私は、1週間前に二人と出会った公園で氷河と瞬ちゃんを待ち伏せた。 まだ空が青いうちに瞬ちゃんが公園に姿を現わした時には、私、怖気づくどころか、無事に瞬ちゃんに再会できたことに安堵していた。 我ながら、すごい強心臓だと思ったわね。 もっとも、私がすぐに瞬ちゃんの側に近付いていけたのは、瞬ちゃんの側に氷河の姿が見えなかったからだったけど。 鬼のいぬ間に さっさと用事を済ませてしまいたかった私は、いつもより少し早口になっていたかもしれない。 「こないだはありがとう」 『こんにちは』も言わず、1週間前の親切への礼を言った私に、瞬ちゃんが微笑んで尋ねてくる。 「靴の負傷は無事に完治したんですか」 瞬ちゃんが『こんにちは』を言わなかったのは、多分、私の欠礼を“お互いさま”のことにするため。 とろそうに見えるけど、この子、本当はかなり機転の利く子だわね。 「ええ。あなたとあなたの金髪の彼氏のおかげよ。あなたと彼は恋人同士なの?」 「え……? いいえ」 突然そんなことを訊かれて、瞬ちゃんはびっくりしたみたいだった。 でも、私は、とにかく鬼が来る前に話を終わらせたかったから、さっさと用件に入ってしまいたかったの。 「彼はあなたのことが好きよ。あなたは」 「それは……す……好きですけど……」 「なのに恋人同士じゃないの?」 「あの……僕は……」 「彼に自分を追いかけさせて、彼を焦らして、悦に入ってるの?」 たたみかけるように問い質され、困惑しているようだった瞬ちゃんが、私の意地悪な質問に、ふいに真顔になる。 「……そんなつもりはないです」 “瞬チャン”らしくなく、落ち着いて大人びた声で、瞬ちゃんは私の意地悪を否定してきた。 「僕はただ、氷河に幸せになってほしいから――」 「あなたを手に入れれば、彼は幸せになるわ」 「そういうんじゃなく……。僕は、僕が氷河に何をしてあげられるのかがわからないんです。僕が氷河の幸せに寄与できるのかどうかが」 つまり、瞬ちゃんは、自分が氷河を幸せにして 幸せにして そうできる自信がなくて、そういう関係になるのを躊躇してるってこと? だとしたら、それは無意味なためらいだわ。 そのためらいが、氷河を今 幸せでなくしてるんじゃない。 「彼が欲しいと思っているものをあげればいいのよ」 なんでそんなこと考える必要があるの。 あっちが勝手に好きになったんでしょ。 なんで、その代償を、こっちが支払う必要があるの。 何かしてもらうだけじゃ気が済まないっていうのなら、他人に恩を着せられたくないっていうのなら、その綺麗なカラダを提供してあげればいいだけのこと。 それは卑怯でも卑劣でもない。 氷河の望みに合致した、十分すぎるほどの代償でしょう。 私はそう思ったんだけど――かなり本気で そう思ったんだけど――瞬ちゃんの考える代償(なのかしら?)は、そんなこととは次元が違っていたみたいだった。 「僕は氷河に命をあげることはできる。でも、そんなものを貰っても、氷河は喜ばない。僕は、氷河には いつも笑っていてほしいんですけど……。そのためにどうすればいいのかが わからなくて、僕はいつも自分の無力を悲しく思ってるんです――」 本当に悲しげに瞼を伏せた瞬ちゃんを見て、私は、欠陥品としか思えない自分の記憶力に舌打ちをした。 私って馬鹿。 あっちが勝手にこっちを好きになったのは事実かもしれないけど、こっちもあっちを好きなんだってことを、私はすっかり忘れていた。 私の場合と違って、瞬ちゃんの『好き』は、相手を手に入れることが目的じゃないんだ。 瞬ちゃんの『好き』は――どっちかっていうと、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに対する私の気持ちに似てるのかな。 私、お祖父ちゃんお祖母ちゃんには滅茶苦茶 苦労をかけたし、ものすごい我儘も言った。 反抗期はすごかったし、私はちっとも いい子じゃなかった。 でも、お祖父ちゃんお祖母ちゃんは優しくて――私は、二人に両親の分も愛してもらった。 私、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんには幸せになってほしい。 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんを喜ばせるためなら、私、大抵のことはするし、その時、私は自分の損得は考えない。と思う。 お祖父ちゃんお祖母ちゃんに愛してもらったことが、私には、どんな代償を支払っても報いきれないくらい 貴重で重要で重大なことだと思ってるから。 瞬ちゃんにとってもそうなのかな。 氷河に好きになってもらったことが、すごく貴重で重要で重大なことで、でも、そのすごいことに報いきれないことが悲しくて、そんな自分が歯痒くて、それで思い切れない……? だとしたら、それは、すごく瞬ちゃんらしいことだけど、考えすぎのような気がする。 それは、最初から、“報いきれないこと”なんだって割り切るしかないことなんじゃないだろうか。 にしても、瞬ちゃんって、そんなふうに思い詰めるくらい、いったい氷河のどこが好きなんだろう――? 瞬ちゃんには気付かれないように こっそり首をかしげた私は、そうして、自分の待ち伏せの理由を改めて思い出した。 そう、私は、その答えが知りたかったの。 私にはわからなかった答え。 瞬ちゃんなら、あの時、氷河に何て答えていたのか――を、私は知りたかった。 「あなたは、そんなふうに思い詰めるくらい、彼のどこが好きなの?」 自分にはどうしてもわからなかったクイズの答えを確かめる時みたいに、ちょっと どきどきしながら、私は瞬ちゃんに訊いてみたの。 世紀の謎が解明される緊張の一瞬。 その一瞬が過ぎたあと、瞬ちゃんから返ってきた答えは、 「氷河は優しいの」 ――だった。 へ……? 『へ?』と、声に出さずにいられたのは、私にしては上出来の部類に入る対応。 というか、幸運なことだった。 そんな素頓狂な声をあげていたら――聞きようによっては、氷河と瞬ちゃんを馬鹿にしているとしか言えないような、そんな声をあげていたら――私は瞬ちゃんを傷付けることになってしまっていたかもしれないもの。 でも、それが正解なの? 私はあの時、氷河に そう答えればよかったの? でも、彼のいったいどこが“優しい”っていうのよ。 やりたくてたまらないでいるくせに、ぐすぐず我慢してるとこが? それとも、好きな相手以外の人間には徹底して無愛想を貫いてるところが? そのいずれでも、いずれでなくても、なんて ありきたりで詰まらない答え。 馬鹿馬鹿しくて話にならない。 でも。 それはほんとに馬鹿馬鹿しくて話にならない答えだけど、それは氷河を知らなきゃ――氷河が“優しい”ことを知らなきゃ言えない答えでもある。 氷河が優しいだなんて、彼を知らない私には思いつかない答えだった。 瞬ちゃんに正解を教えてもらって、納得できないけど納得しかけていた私の視界に映る瞬ちゃんの表情が、ふいに ひどく優しいものになる。 氷河がこっちに来るから――その姿を認めたからだと、私にはすぐにわかった。 私は正直、すぐにその場から逃げ出したかった。 まさか 1週間の夜の奇妙な瞬ちゃんが この私だったって ばれることはないとは思うけど、でも、彼と顔を合わせるのは さすがに いたたまれない。 でも、ここで突然逃げ出したら、それこそ私は不審人物。 そもそも足が動かない。 振り返るのも恐い。 ほんの5秒足らずの間に、私は滅茶苦茶焦って混乱して、散々悩んで迷いまくって、そして 結局、開き直ることにした。 というより、氷河が私たちの方に近付いてきていることを無視することにした。 「彼は、あなたが好きなんだから、あなたが笑ってみせれば、それだけで嬉しくなって笑ってくれるわよ」 近付いてくる氷河の気配を懸命に無視して、私は瞬ちゃんに――瞬に――そう言った。 本人は自覚していないでしょうけど、いっそ気持ちいいくらい あっさり見事に私を退けてくれた氷河。 その理由が『瞬を好きだから』だっていうのなら、その二人には意地でもうまくいってもらわなくちゃ、振られた私の立場がない。 瞬のせいで私は氷河に振られたのに、その氷河が瞬を諦めるなんてことは、私には受け入れ難い事態だった。 「え……」 もちろん私は、どこぞの偉い先生でもないし、その手のことに長じたカウンセラーでも、人生の達人でもない。 そんな私に有益で画期的な助言なんてできるわけもないんだけど――きっと、私の言ったことは ものすごく詰まらないことだったんだろうけど――私に突然そんなことを言われて、瞬は少し驚いたみたいだった。 瞳を見開き、私を見上げてくる瞬に、私は勝手にべらべらと言いたいことを言ってやった。 「私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが そう言ってた。私、両親がないも同然で、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに育てられたの。お祖父ちゃんお祖母ちゃんが、私のパパとママみたいなものだった。それで、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに『いつかきっと うんと親孝行するね』って言ったら、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは『おまえが幸せで笑っていてくれたら、それでいい』って――『そんなおまえを見ていることが私たちの幸せだよ』って言ってくれたの」 私はお祖父ちゃんお祖母ちゃんの孫っていうより、娘だった。 お祖父ちゃんお祖母ちゃんは、無責任に孫を甘やかしていられる気楽な祖父と祖母ではいられなかった。 親としての責任みたいなものに動かされて、両親の代わりに、いつも私を叱ったり諭したりしてくれた。 反抗的な私に悪態をつかれても、根気よく厳しく。 その厳しさが私への愛情だったことに 私が気付いたのは、社会人になってから。 いろんな場面で、お祖父ちゃんお祖母ちゃんが教えてくれたことが私を支えて、助けてくれた。 落ち込んだ時、腹が立った時、もうやめてやるって何もかも諦めて投げ出しそうになった時、お祖父ちゃんお祖母ちゃんがいたから、私は完全に崩れてしまうことはなかった。 大人になってからやっと、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが私にとってどんなに大切な人たちなのかが わかって――だから、私、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに、思い切り甘やかせられる孫をあげたいって思ったのよ。 お祖父ちゃんお祖母ちゃんが安心できるような ちゃんとした家の男を掴まえて、結婚に持ち込んで可愛い孫を見せてやりたいって。 まあ、それは見事に失敗したわけだけど。 その失敗、実はもう3回もやらかしてて、そんな私が偉そうに瞬にアドバイスできた立場じゃないんだけど――。 そう思って、私が自嘲気味に笑った時だった。 私の顔を覗き込むようにしていた瞬が、 「素敵」 って、甘い溜め息みたいな声で呟いたのは。 私、びっくりしたわよ。 まさか この私が――振られてばかりきた この私が――本気で望んだら手に入らないものはないんじゃないかっていう瞬チャンから、憧憬の眼差しで見詰められ、『素敵』なんて お言葉をたまわることがあるなんて。 想定外の事態に 私は心底驚いて、その驚きを表情に出そうとしたんだけど――私がそうする前に、氷河の声が私と瞬ちゃんの間に割り込んできた。 「誰だ」 氷河は、今日も無愛想の極み。 その言葉と声音に慌てた瞬が、小さな声で、私が何者なのかを彼に思い出させようとする。 「ハイヒールの――」 それだけで、氷河は私を思い出してくれたようだった。光栄にも。 思い出したからって、彼が私に愛想よくなってくれるはずもなかったけど。 「ああ。おまえを侮辱したことを謝りにきたのか」 「あの時のお礼と――素敵なことを教えてもらった」 「素敵なこと?」 怪訝そうに眉をひそめた氷河の瞳を、瞬が覗き込むように見上げる。 「氷河……氷河は僕が笑ってたら嬉しくなるの」 氷河は、『瞬は突然何を言い出したのか』っていうような顔になって――でも、彼はすぐに瞬に頷いた。 「ああ」 「そんなことでいいの」 「そんなことがいい」 迷いのない口調で氷河にそう言われた瞬が 嬉しそうに顔をほころばせる。 きっと事情は全然わかってなかったんでしょうけど、瞬が小さな花みたいに笑うのを見て嬉しくなったらしい氷河は――氷河も、その険しい表情を あっさり和らげた。 ほら、デンプンにヨウ素液を滴下すると紫色になるでしょ。 あの実験を見てるみたいだった。 迅速かつ明確な化学反応。 『勝手にしてれば』って、私、やっかみ半分で思ったわよ。 「あ、じゃあ、私は――」 この二人に、化学反応の反応速度を速める触媒は必要ない。 邪魔者はとっとと消えた方が氷河の恨みを買うこともないだろうって思って、私は二人の前から退散することにしたの。 「おい」 踵を返しかけた私を引きとめたのは、優しく礼儀正しい瞬チャンじゃなく、愛想がなくて他人への礼儀なんて知らないんじゃないかっていう氷河の方だった。 ほとんど二人に背を向けかけていた私が振り返ると、そこには、どういうわけか氷河の神妙そうな顔があって、そして、彼は私に言った。 「瞬に何を言ってくれたのかは知らないが……ありがとう」 『ありがとう』って言ったの。 氷河が。 瞬ちゃん以外の人間は路傍の石かペンペン草程度にしか認識していないんじゃないかって思ってた氷河が、ペンペン草も同然のはずの私に そんな殊勝なことを言って、そして、あの優しそうな目を私に――瞬ちゃんじゃない私に! ――向けてきた。 それだけじゃなく――少し笑った。 瞬ちゃんじゃなく、私に向かって! 私、心臓が止まるかと思ったわよ。 氷河って、笑うと印象が全然違っちゃうんだもの。 照れくさがってる子供みたいに――もしかしたら、氷河ってまだ10代なんじゃないかって、私、一瞬そんな馬鹿なことを考えた。 氷河が私に見せてくれた笑顔は、それくらい素直な笑顔だったから。 私が欲しかったもの――私には絶対 手に入れられないだろうと思っていたもの。 1週間前、瞬になり代わってでも、束の間でも、偽物でも手に入れたいって思ったものを、私は、その時 手に入れることができた。 瞬じゃなく、私が。 偽物じゃなく、本物を。 それは、瞬の振りをした私じゃなく私本人に――もちろん、恋の感情なんて全く伴っていなかったでしょうけど――向けられていた。 だからなのかな。 1週間前には むかむかして仕方がなかった 綺麗で幸せそうな恋人たちが目の前にいるのに、私はちっとも むかつかなかった。 それどころか、私まで幸せな気分になって――なんだろう――なんだろう、これ。この気持ち。 私、氷河と瞬が幸せなのが嬉しい。 いつまでも幸せでいてほしいって思う。 なんか胸が変にどきどき高鳴って、私、まるで、この二人に恋してるみたいだ。 そんな馬鹿なことあるわけないって思って、でもそうなんだろうなって思った。 この二人に笑っていてほしい。 そしたら、私も嬉しい。 二人には幸せでいてほしい。 そしたら、私も幸せな気持ちになれる。 これが、恋の基本で、『好き』の基本なんだ、きっと。 私には そんなふうに思える相手がいなかった。 それ以前に、誰かに笑っていてほしいとか、幸せでいてほしいとか、そんなこと 考えたことがなかった。 私はいつも、相手の そんな私が振られるのは仕方がない――っていうか、きっとそれは正しい結果、当然の結果なんだわ。 今頃になって、私は、ほの苦い後悔を味わうことになった。 そりゃ、氷河みたいにカッコよくはなかったけど、私は、私を振ってくれた彼氏と、嫌いなのに付き合っていたわけじゃなかったから。 私がちゃんと彼を好きだったら、私はきっと彼に振られずに済んだのに――って、私は1週間遅れの後悔に襲われた。 でも、まあ、人間、生きていたら失敗と後悔はつきもの。 せっかく手痛い経験ができたんだから、それで学習しなくちゃね。 「うまくやってね。私も頑張る」 綺麗で幸せそうな二人に、私は正面からそう言った。 今度誰かを好きになる時には、その人をもっとちゃんと好きになろうって思いながら。 「じゃあ、さよなら」 そして、彼等にさよならを言って、私は、自分でも馬鹿なんじゃないかって思うくらい元気な足取りで歩き出したの。 その日 私が履いていたのは、歩きにくい細いかかとのハイヒールじゃなく、散歩用で、走るのもOKな軽量タイプのスニーカー。 梅雨前の空は、気持ちいいほど晴れ渡っていた。 Fin.
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