「まったく、スパルタの者たちは命を何だと思っているのかしら!」 アテナイの宮殿では、アテナが、握りしめた拳を振りおろす場所を見付けられずに苛立っていた。 悲しいことに、それは見慣れた光景だったので、シュンは、怒れる女神の姿を目の当たりにしても、力無く首を左右に振ることしかできなかったのであるが。 シュンは、捨てられた子供の哀れさに、もはや いちいち涙を流して悲しむこともできなくなってしまっていた。 「また僕の仲間が拾われたんですか」 「シュン……」 執務室の入口に パピルスの束を持ったシュンの姿を認めたアテナが、少し困ったような顔になる。 誰よりも この事態を悲しみ憤っているシュンに、感情的になっている様を見られてしまったことに、彼女は少し ばつの悪さを覚えたようだった。 シュンはアテナに拾われた最初のスパルタの赤ん坊だった。 16年前、生まれたばかりの赤ん坊だったシュンがアテナに拾われた時、アテナはまだ10歳の少女だった。 サロニカ湾でシュンが入れられた箱を見付けたのは、船遊びに出ていた幼いアテナ。 波に漂っていた 木箱がどういうものなのか――スパルタでは育てる価値がないと裁定を受けた子供は このように海に捨てられるのだという事実を知らされて、幼い彼女は憤り、捨てられた命を救うための仕組みと組織を作ることをアテナイの官吏たちに命じた。 それ以降、スパルタで子が流されたという情報が入るたび、アテナイの役人はその箱を探すよう、付近の漁師たちに命じるようになったのである。 見付からぬこともたまにはあったが、地中海の海流は必ずスパルタから流された木箱をサロニカ湾に運ぶ。 それを見付けてアテナの許に届ければ、定められた報奨金が支払われることになっているので、海に慣れた漁師たちは目を皿のようにしてスパルタからの漂流物を探しまわる。 そのため、スパルタから流された子供のほとんどは、アテナイ人に拾われていた。 その数は1年に50人余り。 アテナイ人に救われた赤ん坊たちは、アテナの宮殿でアテナイの子として育てられる。 シュンは、スパルタ生まれのアテナイ人の中では最年長。 アテナを姉とも母とも慕って育った彼は、彼女とアテナイの国に忠誠を誓っていた。 「スパルタの者たちは頭がどうかしているわ。いいえ、心がどうかしている。私に拾われたスパルタの子供たちは、ほとんど全員が無事に生き延び 成長しているわよ。健康で、体格も優れている者が多い。この国の文化芸術を理解することもできて、知能だって生粋のアテナイ市民に劣るものではない。なのに、生まれた時に少しばかり ひ弱だったくらいのことで――」 スパルタで子供が捨てられた話を聞くたびにアテナは我がことのように憤る。 その憤りは、彼女が女性であるがゆえに強く大きなものだったのかもしれない。 あるいは、彼女自身が、アテナイの国を導く女神になるべく、人間の父母から引き離された赤ん坊であったことも無関係ではなかったかもしれない。 肉親を知らないという同じ悲しみを持ったシュンを見詰める彼女の眼差しは、いつも優しく温かかった。 「あなたも聡明だし、美しいし――確かに体格が優れているとは言い難いけど、その分 敏捷で、さすがはスパルタの血を引く者というべきか、その若さで 剣術や格闘技はアテナイ屈指の腕前。私の文官としても申し分のない働きをしてくれている。これほどの才能を、生まれた時に未熟だったからと言って、簡単に捨ててしまえるなんて、スパルタの者は頭が悪いし、情がないわ」 「僕の母は、海に流された僕を救おうとして海に飛び込み、そのまま波に呑まれたと聞いています」 最初にシュンを拾いあげた時、アテナはその赤ん坊を母の手に返してやるべく、部下に赤ん坊の出自を調べさせた。 アテナは、いざとなったらシュンの母親をアテナイの国に迎え入れることさえ考えていたのだが、アテナの許にもたらされたのは、子を奪われた母の悲しい最期。 シュンは、そんな母――顔も知らぬ母――を、我が子を捨てたスパルタの女として憎むことはできなかった。 「そうね……。スパルタの者たちが皆、狂っているわけではないわ。スパルタの母親たちは皆 苦しんでいる。悪いのは、強い者にのみ生きる価値があるとするスパルタの国是よ。それを良しとするスパルタの 「アテナとアテナイに命を救われた者たちは皆、アテナに感謝し、アテナイへの忠誠を誓っています。喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか、その数は年々 増え続ける一方で……いずれ、スパルタの子供たちだけでアテナイのために戦う有力な一個師団が作れそうな勢いです。スパルタは、子を捨てることで自国の敵を増やしていることに気付いていないのでしょうか……」 シュンがスパルタを『敵』と言ったのは、スパルタがアテナイを(一方的に)敵視しているからだった。 スパルタは、他国を侵略し略奪することによって、国を富ませ拡大している国。 スパルタほど強い軍隊や戦士を有しているわけではないのに、日々 国力を増し、国の繁栄を極めているアテナイを、スパルタは苦々しく思っているようだった。 もちろん、アテナは自国の繁栄が平和によってもたらされたものであることを承知していて、スパルタと事を構える気はない。 「スパルタと戦をするつもりしないわ。スパルタの者が皆 狂っているというわけでもないし……。スパルタにも 心ある者はいるのよ。子供が流されることを、こっそりアテナイに知らせてくれる者もスパルタにはいるの」 「ああ、セイヤが言っていました。スパルタのシリュウとか」 セイヤは、シュンの次にアテナに拾われたスパルタの子だった。 シュン同様 生まれた時に身体が小さすぎたため育てる価値なしと断じられたのだろう。 シュンとは兄弟のように育った彼は、素晴らしい健脚の持ち主に成長し、今は主に他国との伝令の仕事に就いていた。 「ええ。彼は二代目。私がスパルタの子供を救う仕組みの構築を計画した時、その計画には どうしてもスパルタ国内に協力者が必要で――もともとスパルタの体制に批判的だったドウコという長老が、私の協力者になってくれた。セイヤがスパルタとの連絡係になったのを機に、あちらも代替わりしたの。そう……心ある者はスパルタにもいるのよ。アテナイを敵視する者たちばかりではないわ」 アテナは 自分に言いきかせるように そう言い、そして、すぐにまた別の溜め息を洩らしたのである。 彼女に溜め息をつかせたものは、そのドウコやシリュウからもたらされる最近のスパルタの情勢に関する情報だった。 アテナイはスパルタに特段敵意を抱いているわけではなく、むしろ友好的な態度を貫いているのだが、スパルタはそうではなかった。 かの国は、繁栄するアテナイに対して敵愾心対抗心を抱き、最近ではアテナイの国を倒すことがスパルタの悲願であるような風潮が国内に はびこっているという。 いったいなぜスパルタはそれほどまでにアテナイを憎むのかと、以前シュンはアテナに尋ねたことがあった。 その時、アテナは、哀れみのこもった声で、その理由を、スパルタ生まれのアテナイ人に語ってくれた。 『スパルタは自分たちの滅亡を恐れているのだと思うわ。スパルタは軍備にばかり力を入れて、強さばかりを追求してきた。スパルタにはスパルタ独自の文化というものがないの。あるのは強い軍隊だけ。誇れるのも強い兵士たちだけ。たとえば、アテナイがスパルタとの戦に負けて、この地上からアテナイという国がなくなったとしても、アテナイの文化までが消え去ることはない。アテナイの文化はいつまでも この地上に残り、後世に引き継がれていくでしょう。でも、スパルタはそうじゃない。スパルタは、彼等がギリシャ最強と誇る彼等の軍隊が滅んだら、国自体が滅んでしまう。そして、そのあとには何も残らない――残せない。国というものはね、国境が作るものじゃないの。文化が作るものなの。独自の文化を持たない国は国たり得ない。逆に言えば、文化さえあれば、どんなに戦に弱くても その国が本当に消えてしまうことはない。スパルタは――自分たちの国が生き残るために戦いをしたがっている……いいえ、彼等は、自分たちが滅んでしまわないために、自ら敵を求め、その敵と戦い続けなければならないのよ』 スパルタは間違った方向に悪足掻きをしているといってもいいわね――と、アテナは苦々しげに呟いた。 ギリシャの覇権をアテナイと争うほどの強国が、そんな絶望的な理由でアテナイを憎んでいるのかと、アテナの説明を聞いたシュンは、言いようのない寂寥感に囚われたのである。 アテナとアテナイに忠誠を誓っているとはいえ、シュンにとって、スパルタはやはり故国であったから。 だが、そんなシュンも、セイヤから もたらされる昨今のスパルタの情報に触れるにつけ、スパルタを哀れんでばかりもいられなくなっていた。 滅びの予感を振り払うために 音のない断末魔の叫びをあげているようなスパルタは、だが、今は確かにギリシャ最強の軍隊を養う国ではあったのだ。 「スパルタは、アテナイに攻め入る準備を着々と進めているようです。戦うのですか」 「スパルタとアテナイの間には、多くの 「アテナ……」 アテナの言葉に、シュンの顔が曇る。 自分の発言がシュンの心を沈ませてしまったことに気付き、アテナはすぐに その顔に笑顔を浮かべた。 現実を楽観的にでもなく悲観的にでもなく冷静に語ることのできるアテナは、しかし、常に希望を語る指導者でもあった。 「もちろん、アテナイと私の全力をもって、そんな事態は回避するわよ。あなたやセイヤの故国と戦うわけにはいかないもの」 「あ……ありがとうございます」 「ちょうど、スパルタに親善使節を送る計画を立てているの。私がじきじきにスパルタに乗り込むつもり。今、その随員の選択に苦慮しているところよ」 「はい。その件でお願いが――」 諦めることを知らず、希望を見失わないアテナ――。 彼女は希望を語っているばかりの女神ではなく、行動する指導者でもあった。 シュンは、彼女が 自らスパルタ説得に赴く計画を立てていると聞いて、アテナにささやかな願いをきいてもらうために、ここにやってきたのだ。 アテナがそんなシュンをちらりと見て、“お願い”を口にしようとしたシュンを遮る。 「豊満系からほっそり系、可愛い系から熟女系。理知的な美女に可憐な美少女。ほとんどすべてのタイプを網羅できたと思うんだけど、何か見落としがあるような気がしてならないのよね」 「は……?」 シュンは、咄嗟にアテナが何を言っているのかを理解することができなかったのである。 何となく理解できてからも、『まさかそんな』という思いを捨てきることができなかった。 「あの……アテナ。もしかして……」 「私とスパルタの指導者たちの話し合いで事が収まれば、それがいちばんなんだけど、敵はなかなか頑固で融通が利かない者たちだと思うのよね。もちろん、私は、どんな手を使っても戦を回避するつもり。とはいえ、その説得に武器を用いたら何の意味もない。だから、万一 理屈で説き伏せられなかった時には、スパルタの屈強な頑固者たちを 美しさで説得しようと思って。文化的でしょ?」 「も……もしかして、それは、い……色仕掛けというか、その……」 「ああ、そうとも言うわね」 あっさり認めるアテナに、シュンは思わず その手で顔を覆いたくなってしまったのである。 強い男たちが牛耳る国に、女の武器で対抗しようというアテナの作戦。 事が事、相手が相手でなかったら、シュンは、それをアテナらしい皮肉な作戦だと苦笑して済ませていたかもしれない。 だが、今 アテナが説き伏せなければならないのは、強さこそが この地上で最も価値あるものと信じている頑迷で強い男たちなのだ。 アテナの作戦が、いきりたっている彼等の『アテナイ憎し』の心を逆撫でし、火に油を注ぐことにもなりかねない。 シュンの懸念をよそに、アテナはどこまでも前向きで(?)楽しそうだった。 「でも、何かが足りないような気がしていたの。あなたを見て、私が何を見落としていたのかに気がついたわ。つまり、花のような美少年! 今回のスパルタ行きの使節に、あなたもぜひ加わってちょうだい」 「……」 目的が正しくても、手段が正当もしくは道徳的なものでなかった場合、それは正しい行ないと言えるのか。 アテナがスパルタに伴おうとしている女性たちは、自らに振られた役割をどう思っているのか――。 真摯な気持ちで考え始めていたシュンに、アテナが軽快に命じてくる。 途端に、シュンは、彼が思案しかけていたことを すっかり忘れてしまったのだった。 「で、あなたのお願いというのは?」 彼女の命令を下し終えたアテナが、シュンに尋ねてくる。 シュンは、だが、アテナに問われたことに答えることができなかった。 「いえ、今、お願いしようと思っていたことが――」 叶ってしまった――のだ。 シュンがアテナに“お願い”しようとしていたのは、アテナが計画しているスパルタ行きに自分を同行させてほしい――というものだったのだ。 もちろん、“花のような美少年”としてではなく、アテナの身辺を警護する護衛の一員として、ではあったが。 アテナはシュンの“お願い”を最初から察していたものらしい。 半ば呆けたような顔をしているシュンに、彼女はにっこり微笑みかけてきた。 「スパルタには、あなたのまだ見ぬお兄様がいるのだったわね」 「……はい」 アテナは すべてを承知している。 もちろん“敵国”に乗り込んでいくアテナの身を守りたいという思いが、シュンを突き動かす最も大きな動機だったが、シュンの中には、もし故国に帰ることが叶うなら、そこで肉親の消息を確かめたいという気持ちもあったのだ。 「アテナイのため、スパルタのため、両国とギリシャ全土の平和のため。物見遊山で行くのではなく、お仕事で行くのだから、働いてもらうわよ。片っ端からスパルタの兵たちに会って、その可愛い顔を駆使して、彼等に戦いの愚を説いてちょうだい。その中に あなたのお兄様がいたらいいのだけど……」 「アテナ……ありがとうございます!」 アテナに深く この聡明かつ賢明なアテナが、彼女の民の人権を無視して、女性を道具のように使うことなどあるわけがないのだ――と。 見落としのない万全の態勢でアテナと彼女の従者たちの乗った船がスパルタに向けてアテナイの港を出たのは、それから5日後のことだった。 |