「民会の首尾は どうでした?」 翌日 ヒョウガが兵舎に戻ると、まだ完全に日も落ちていないというのに、シュンがヒョウガの部屋にいた。 ヒョウガが室内に入っていくと、椅子の代わりにしていたらしい寝台から勢いよく立ち上がり、ヒョウガの側に駆け寄ってくる。 この兵舎の見張りの兵は、本当に完全に役立たずだと、ヒョウガは改めて思うことになったのである。 とはいえ、彼は、役立たずの見張りに罰を与える気にはなれなかったが。 むしろ、その無能振りを褒めてやりたいくらいだったのだが。 それよりも、ヒョウガは、シュンに楽しい報告をしてやれない自分にこそ、懲罰を与えたい気分だった。 「皆の前で、例の もう一人の五百人隊長が、俺を、戦を恐れる腰抜けと評してくれた」 ヒョウガの楽しくない報告を聞いたシュンが、腰抜けと言われた当のヒョウガを差し置いて むっとした顔になる。 まるで自分が侮辱されでもしたように、シュンは その細い眉をつりあげた。 「その人、ヒョウガより強いんですか。ヒョウガに偉そうに そんなことを言えるほど?」 「戦ったことはないが、戦ったら、どちらも無傷では済むまい」 「ヒョウガがそんな無礼な人と戦う必要はありません。ヒョウガの代わりに、僕がその無礼者をなじってやります。ヒョウガ、僕をその人と会わせて」 シュンが自分のために立腹してくれることは嬉しかったのである。 だが、ヒョウガは、シュンの願いを叶えてやる気にはなれなかった。 「二人きりでか? それは駄目だ」 「なぜ。僕は そんな人には負けません」 「おまえの技の有効性と強力さは よく知っているが――俺は 恋敵を増やす気にはならん」 「は……?」 「奴は、この世に 強さ以上に価値あるものはないと信じ込んでいるような男だが、絶対に面食いだ」 「ヒョウガ……何を言っているの……」 自分が、シュンには理解できない、シュンにとっては脈絡を見い出せないことを口にしている自覚はあった。 だが、ヒョウガは、今は、澄ました顔で脈絡のあることを言っていられるだけの余裕がなかったのである。 昨夜から、ヒョウガの頭の中は別のことでいっぱいだったのだ。 不思議そうな目をして敵国の将の顔を見上げているシュンの肩に 右の手を置く――否、ヒョウガはシュンの肩を掴んだ。 「戦いより素敵なことを俺に教えろと、アテナに言われて来たんだろう? つまり、恋を」 「ええっ !? 」 めげてしまいそうになるほど はっきりとあからさまに、シュンがヒョウガの言葉に驚いてみせてくれる。 十中八九 そんなことだろうと思っていたヒョウガは、だが、そこで めげたりはしなかった。 「夕べ、おまえが帰ってから、俺がどれほど苦しんだか わかるか? あの頑固な男に公衆の面前で腰抜け呼ばわりされても、目の前に おまえの顔がちらつくおかげで、腹を立てる気力さえ湧いてこなかった。こんなありさまでは――おまえを俺のものにして安心してしまわないと、俺は普通の生活もできなくなる」 シュンの肩を、左の手でも掴む。 そうしてからヒョウガは、その両手の位置を移動させ、シュンの頬を挟みこんだ。 「俺は、いったん この人と決めたら、一途な男だ。その点は保証する」 「あ……あの……僕……」 今 自分がどういう立場にあるのかが理解できているのか いないのか、シュンはその瞳を きょときょとと落ち着きなく動かし始めた。 なぜ 自分の頬に敵国の将の手が添えられているのか、彼の瞳に苦渋がにじんでいる訳、ここがどこで、敵国の将が自分に何を望んでいるのか。 シュンは、それらすべてのことを自分の目で確かめようとしているようだった。 それは視覚で確かめられるようなことではないというのに。 「おまえは、俺に気があるから、アテナの命令に従ったんじゃないのか。おまえは、俺が嫌いなのに、それがアテナの命令だから仕方なく 俺の寝所に忍び込んでいたのか」 ヒョウガは、シュンの冷酷に傷付いた振りをして シュンの心を動かそうと考えたのだが、彼は その考えを実行に移す必要はなかった。 意識して そんなことをしなくても、自分自身が口にした その仮定文に、ヒョウガは本当に(自分で)傷付いてしまったのだ。 そういうことにだけは聡くできているらしいシュンが、ヒョウガの傷心を癒すべく、自分が傷付けた(とシュンが思い込んでいる)男に懸命に訴えてくる。 「僕がヒョウガを、き……嫌いなわけないでしょう。僕はただ……」 「おまえは俺を嫌っているわけではないのか」 「そんなこと! 僕は、もちろんヒョウガが大好きです!」 「そうか!」 ヒョウガは、自分がシュンの揚げ足を取るような卑劣をしたとは思っていなかった。 シュンが嘘をついているとも、事を荒立てないために綺麗な建前を口にしたのだとも 思っていなかった。 シュンが“ヒョウガ”を好きでいることは事実なのだ。 であれば、シュンに好かれている男がシュンを抱きしめることには何の問題もないはずだと、少々論理を飛躍させ、その論理によって導き出された結論を実行に移しただけで。 「え……でも、だからって……」 ヒョウガの腕にしっかりと抱きしめられてしまったシュンが、ヒョウガの胸の中で、当惑の声を洩らす。 ヒョウガは、シュンの当惑を その胸で感じ取っていた。 感じ取れてはいたのだが、シュンを抱きしめてしまった瞬間に、ヒョウガは、どれほどシュンに懇願されても、自分がもはや この身体を離してやれないこともわかってしまっていたのである。 離さずに済むように、ヒョウガは、シュンの耳許で低く囁いた。 「おまえなら逃げられるな? 本当に嫌なら」 「嫌……って……」 「逃げていいんだぞ。俺を殴っても蹴飛ばしてもいい。俺は、おまえになら 殺されても構わない。おまえを俺のものにできないなら、俺は死んだ方がましだ」 「ヒョウガを殴るなんて、僕に そんなことできるわけが……」 切なげな声で可愛いことを言うシュンの唇に、唇で戯れる。 「できるだろう。おまえなら」 その唇を、ヒョウガは、首筋を通ってシュンの肩へと移動させた。 「そんなこと……できない」 「なぜ」 シュンの当惑は 混乱になりかけている。 涙を帯び始めたシュンの声で、ヒョウガは、シュンはもう敵国の将の腕から逃げることはないだろうと確信していた。 シュンの身体を拘束するように強く抱きしめていた腕の片方から力を抜き、ヒョウガはその腕をゆっくりと下におろしていった。 丈の短い薄物を身に着けているだけのシュンの背中をなぞりながら おろしていった手が、最後に その内腿に至る。 「な……ぜ……なの……なぜ……わからな……ああ……」 ヒョウガの手は ほんの少し シュンの脚の間に入り込んだだけだったのだが、それだけのことが、シュンには容易に耐えることができないほどの刺激だったらしい。 それだけのことで 重心を見失ってしまったシュンの身体が、少しずつ 後ろに のけぞり始め、ヒョウガはその手でシュンの身体を支えることになった。 キスをしながら、シュンの身体を抱き上げる。 シュンは、自分の足が宙に浮いてしまったことに特段の恐怖を覚えている様子は見せなかった。 シュンは、まるで 初めて母親に抱きしめられた赤ん坊のように大人しい。 「それはきっと、おまえが俺を好きだからだ。そう信じてしまえ」 「信じて……しまえばいいの……」 そして、ヒョウガの言葉をうわ言のように反復するシュンの瞼は、健やかな眠りに落ちかけている赤ん坊のそれに似ていた。 「スパルタの男が皆 野蛮なわけではない。こんな美しい身体を傷付けるようなことはしない。安心していろ」 寝台に横にされ、身体を覆っていたものを すべて取り除かれても、シュンは、小さな溜め息を洩らしただけで、その目を開けようともしなかった。 だが、シュンは眠っているわけではない。 薄く開かれた唇。 ゆっくりと、だが、大きく上下する胸――。 やがて、ヒョウガは気付いたのである。 シュンが聞き分けのいい子供のように大人しいのは、彼が彼のものではない体温と愛撫に うっとりしてしまっているせいだということに。 母に抱きしめてもらったことのないシュンには、おそらく初めて触れる自分以外の人間の肌と体温。 アテナイでのシュンが いつも孤独だったとは思えないが、かの国には、母のようにシュンを抱きしめ愛撫してくれる人間はいなかったのだろう。 ヒョウガの愛撫が熱を増していっても、その愛撫に喘ぎ 乱れながら、シュンが感じているのは母の愛撫。 ヒョウガが母ではないという事実に シュンが気付いたのは、彼がその身体の内にヒョウガを受け入れてしまった時だったかもしれない。 母親の優しい愛情ではなく 息を荒げた男の激情が、シュンの身体を内側から焼いてきた時。 だが、その時には既に、シュンの心身は、ヒョウガを“自分を愛してくれる人”“自分が愛している人”と認識し終えていたらしい。 大きく身体をのけぞらせ、悲鳴とも喘ぎともつかない声をあげながら、シュンの両手は、この人を離したくないと訴えるようにヒョウガの背にきつく しがみついていた。 |