紫龍と星矢の姿が消えたラウンジで氷河が最初にしたことは、真顔で瞬に、
「で、俺はどうすればいいんだ? どうすれば脱童貞できる?」
と尋ねることだった。
本気でアンドロメダ座の聖闘士の協力をあおいで脱童貞行為を成し遂げようとしている(ように見える)氷河に、瞬はかなり本気で 自分の人生を投げ出したくなってしまったのである。
そんなことで協力を要請されるくらいなら、どこぞの邪神を一人二人 独力で倒せと言われる方が はるかにましだと、瞬は思った。

「昼間っから、そういう言葉を繰り返さないでください!」
「そういう言葉とは?」
「だから、ど……ど……ど……」
問われたことに律儀に答えようとして どもっている自分に気付き、瞬は、自戒のために軽く舌を噛んだ。
己れの滑稽な振舞いを顧みて、もしかしたら自分は氷河にからかわれているのではないかとさえ、瞬は思ったのである。

からかわれているのだったら どんなによかったか――と瞬が思うことになったのは、瞬が投じた視線の先にある氷河の顔が至極真面目なものだったから、だった。
仲間をからかう意図など かけらほどにも抱いていないように、氷河の顔は正しく“真顔”だった。
真顔のままで、氷河が、
「ぜひ、おまえの体験談を聞かせてくれ」
と、瞬に求めてくる。

「ええっ !? 」
氷河のとんでもない要求を聞いて、瞬は、地球が月面宙返りをしたような激しい目眩いに襲われてしまったのである。
氷河は何ということを聞いてくるのかと、くらくらする頭で、瞬は思った。
瞬が立っている地球の自転運動と公転運動が狂い始めていることに気付いていないらしい氷河が、“とんでもない”要求を、重ねて瞬に突きつけてくる。

「途上国を差別するつもりは全くないが、やはりアフリカでは、その手のことは、アジアや欧米より ずっと早い時期に行なわれるんだろう? おまえは、性的なことでは最も開放的な地域で修行してきた聖闘士なわけだし、当然おまえも――」
「そ……そんなの、アフリカに対する偏見だよ!」
「そうか? 紫龍なら、俺の見解を裏打ちできるようなデータを持っていそうだが」
「た……たとえ、氷河のその考えを裏打ちできるデータがあったとしても、物事には何だって、こ……個人差ってものがあるでしょう」
「まあ、その意見は否定しないが。で、おまえの初体験はどんなふうだったんだ?」
「……」

アフリカで聖闘士になるための修行を積んできたアンドロメダ座の聖闘士は既に童貞ではない――と、氷河は決めつけているようだった。
氷河が そう思い込んでいるというのなら、アンドロメダ座の聖闘士より年上である氷河が脱童貞を急ぐ気持ちもわからないではない――と思ったのである。瞬も。
だが、氷河のその思い込みは、誤解と偏見に基づく、誤った推察だった。
なにしろ、事実はそうではないのだ。
そして、瞬の不幸は、そういう誤解を受けてもなお、『僕はまだ童貞です!』と明言してしまえないところにあった。
氷河に事実を知らせないまま、何とか この場を収めてしまいたいと願ってしまう性向が、瞬を不幸で哀れな人間にする重大な要因の一つだったのである。

「そういうことは人に吹聴してまわることじゃないでしょう」
「命をかけた戦いを共にしてきた仲間にも言えないのか」
「それとこれとは全く別の問題だよ。仲間同士でも、プライベートは守り守られるべきでしょう。それとも氷河は、何でも仲間に打ち明けることが真の友情だと思っているの?」
「……」
いかなる隠し事もしないことが正しい友情のあり方だとは、氷河も考えてはいないようだった。
とはいえ、尋ねたことに答えてくれない仲間に対して、氷河はかなり不満そうな顔をしていたが。
瞬が、氷河の不満顔を見やり、細く小さな溜め息をつく。

「その……そういうことを未経験でいるのって、そんなに悪いこと? それは、そんなに急がなきゃならないことなの?」
「神は、『産めよ増やせよ地に満てよ』と言った」
「肉体の純潔を重んじたのもキリスト教でしょう」
「それは、神ではなく人間が作った価値観だ」
「……」
脱童貞を果たしたいという氷河を、理屈で思いとどまらせることは、困難な仕事であるようだった。
瞬の説得の一つ一つに淀みない反論を返してくる氷河の前で、瞬は、疲労感を伴った溜め息を 更に重ねることになったのである。

なぜ こんなにも唐突に 氷河がそんなことを言い出したのかが、瞬にはどうしてもわからなかった。
そんなことは、好きな人ができてから ゆっくり悩めばいいことだ――というのが、瞬の考えだったから。
氷河の相談が、氷河に抱きしめたい人がいるという前提で為され、その内容が『どうすれば その人を抱きしめられるのか』というものであったなら、瞬も少しは、氷河の悩みを自分の悩みとして悩むこともできていたかもしれない。
だが、ただ漠然と『脱童貞したい』と言われても、瞬には対応のしようがなかったのである。
瞬は、氷河のその記念的事業の相手を務める女性のイメージを思い描くことさえ できずにいた。

「氷河には好きな人はいないの」
「いる」
「えっ !? 」
実に明瞭かつ簡潔かつ あっさりとした氷河の返答に、瞬は目をむくことになったのである。
氷河に好きな人がいるという事実に驚いたからではなく、激しい混乱のために。

好きな人がいるというのなら、『脱童貞したい』という氷河の希望は、まず、その人にこそ伝えられるべきことである。
だというのに、なぜ氷河は、彼の好きな人にではなく仲間に、『脱童貞したい』などという話を持ちかけてくるのか。
瞬を襲った混乱は、つまり、そういう混乱だった。

「な……なら、その人に、その……氷河の気持ちを伝えてみたら?」
「好きだから、やらせてくれと? そんなデリカシーのないことができるか」
「でも、好きな人がいるのなら、その人と、あの……そういうことをするのが いちばんいいことでしょう? それこそが、倫理道徳にも適った正しい行為だよ。それとも氷河は、氷河が好きじゃない人とそういうことをしたいと思うの」
「俺が相手を好きでなくても、相手が俺とイタしてもいいと思ってくれているのなら、それで問題はないんじゃないか?」
「……」

氷河のその発言は、瞬には非常に衝撃的なものだった。
それは、瞬の倫理観や瞬の恋愛観から乖離しすぎた考え方だったのだ。
「それは……氷河は、氷河がその人を好きじゃなくても、二人が合意しているなら、合意に達した二人はそういうことをしても問題はないって、氷河が考えているってことなの?」
「何か問題があるのか? それが強制によるものでないなら、両者に完全な情報が与えられた上で合意に至った契約を有効と考えるのは、さほどおかしなことではないだろう。ごく一般的なことだと思うが」
「……」

あっさりと、しかも冗談口調ではなく至極真面目な口調で、氷河が答えてくる。
性行為は、恋や好意の延長線上にあるものではなく、二人の人間の間に結ばれる契約である――と、氷河は言っていた。
それは、金銭貸借契約や動産不動産の売買契約とどんな違いもないものだと、氷河は言っているのだ。
そこに、心が介在する余地はない――と。

「僕は……僕は、そんなのは……」
地球どころか宇宙が捩じれ 揺れている。
ぐらつく身体を支えるために、瞬は、掛けていたソファの肘掛けに 両手ですがることになった。
「僕……なんだか気持ち悪い……目眩いがする……」
「目眩い? 大丈夫か? 横になった方がいいか?」
心配そうに仲間の顔を覗き込んでいる氷河の瞳が、普段見慣れているそれと全く違わないことが、瞬の混乱を更に激しく大きなものにした。






【next】