瞬王子の兄君の支配する国は、そんなふうに とてもとても大きな国でした。
それは三つの大陸と周辺の無数の島々から成る巨大な国で、世界の3分の2ほどを占める大帝国。
帝国の皇帝である瞬王子の兄君の権力は絶大。
まず、世界でいちばん偉くて強い君主と言ってよかったでしょう。

一輝国王の宮殿の 広大で豪奢なことといったら、すべての部屋を一瞬ちらりと見てまわるだけでも10日はかかるほどでした。
その他に離宮や別荘が帝国の各地に何十もあるのですから、瞬王子の兄君は世界でいちばんのお金持ちでもありました。
とても力のある偉い王様(正確には皇帝)ですから、一輝国王の前には、誰もが跪きました。

瞬王子の兄君は、良いことをした者にはたくさんの恩賞を与えましたが、悪事を働いた者には 法律で定められている罰以上に過酷な処罰を科すこともある、言ってみれば専制君主といっていいような王様でした。
でも、それほどの大国ですから、瞬王子の兄君の少々の専制ぶりは仕方のないことだったかもしれません。
瞬王子の兄君の帝国は広大で、言葉や文化の異なる属国がたくさんあって、民の価値観や考え方も国それぞれ、人それぞれ。
そんな国の統治者の権力が脆弱と思われることは、王への反逆や国の分裂を招く危険性のあること。
大国の統治者というものは、家臣や国民に その力を誇示し、『とても この人に反逆することなどできない』と思わせなければならないものなのです。
それは広大な国を治める君主の宿命というものです。

瞬王子の兄君は、強くて偉くて威張っていましたが、だからといって 国民に敬遠されていたわけでもありません。
むしろ、国民の多くは、一輝国王に大層親しみを感じていました。
それは、一輝皇帝がものすごいブラコンで、傍から見たら馬鹿なのじゃないかと思えるくらい、たった一人の肉親である瞬王子を溺愛していたからです。
強くて偉い王様だけれども、情に篤く人間味のある王様。
帝国の国民の多くは、瞬王子の兄君をそんなふうに思っていました。

一輝国王は、基本的に、それなりに力を持つ者たちに対しては苛烈な専制君主として振舞い、一般の国民に対しては人間味と慈悲心のある王様というイメージを持たせようとしているようでした。
おそらく それは、わずか10歳の少年の身で一国の王になった兄君が、幼いうちから様々なことを経験し、多くの人間と接することによって身につけた、王としての処世術だったのでしょう。

さて、そんな大帝国の大帝に溺愛されている弟君ですから、瞬王子の暮らしは それはもう贅沢なものでした。
瞬王子は、兄君の宮殿の敷地内にある、瞬王子のための離宮に住んでいました。
離宮にはお部屋が50もあって、瞬王子の召使いだけで100人超。
衣装や食事が贅沢なものであることは言うまでもありませんが、瞬王子の身のまわりのことは全部、100人の召使いたちがしてくれるのです。
瞬王子は、自分の着替えすら、自分の手ですることが許されない生活を強いられていました。

というのは、他でもありません。
帝国の宮殿は、すべての国民の人気ナンバーワンの就職先。
ですから、王室は、雇用拡大のために、瞬王子でなくてもできる仕事は どんな些細なことでも瞬王子以外の誰かにさせる必要があったのです。

瞬王子は、朝も勝手に起床することはできません。
起床係が「朝ですよ」と言って起こしにくるまで、瞬王子は寝台に横になって目をつぶっていなくてはならないのです。
洗顔係の手を借りて顔を洗ったあとは、瞬王子付きのお医者様によって簡単な身体検査を受けます。
検査で異常がないことが確認できたら、朝の身支度開始。
衣装係や靴係が、その日の衣装や靴を選び、着替え係がそれを瞬王子に着せてくれます。
髪を整えるのも 整髪係がしてくれますし、お洋服のリボンだって、リボン係が結ぶんですよ。

食事の係も たくさんいます。
オードブルを運ぶ係、メイディッシュを運ぶ係、デザートを運ぶ係、毒見係、フォークやスプーンを差し出す係、おいしかったかどうかを確かめ記録する係等々。
宮殿のお庭をお散歩をする時には、お散歩の時の護衛がつきますし、宮殿の敷地内にある神殿に行く時には、神殿にお出掛けする時専用の護衛がつきます。
お勉強をする時には、教科ごとに 国内でも指折りの学者たちが、瞬王子の勉強部屋にやってきました。
午後のお茶の世話をする係は、お茶をいれる係にお茶を選ぶ係、おやつのメニューを決める係に、おやつを作る係、お茶とおやつを運ぶ係に片付ける係と、それだけで6人もいました。

夜は夜で大変です。
たとえば お風呂に入るのにも、瞬王子は自分で服を脱ぐことはできません。
ちゃんと脱衣係がいるからです。
髪も身体も自分で洗うことはできません。
髪を洗う係と身体を洗う係がちゃんといましたから。
身体を拭くのも担当の係がいましたし、夜着に着替えるのも、朝の着替え係とは別の係がいました。
他にも、寝台を整える係、灯りを消す係。
もちろん不寝番の兵が何人もついていて、眠っている瞬王子の身辺を寝ずに警護するのです。

瞬王子が物心ついた頃には、瞬王子の生活は既にそんなふうでした。
そして、そんな生活は、瞬王子が10代半ばになった今でも続いていました。
もちろん 瞬王子は怠け者でも愚鈍でもありませんでしたから、そうしようと思えば、自分の着替えくらい 自分一人でできましたよ。
でも、瞬王子は、自分の服を自分の手で着るわけにはいかなかったのです。

瞬王子が3歳になったばかりの頃、リボン係の仕事を見ていて、リボンの結び方を覚えた瞬王子が、自分で お洋服のリボンを結んでみせたことがありました。
瞬王子は、きっとリボン係の女官は自分を褒めてくれるだろうと思って、ちょっと胸を張って、綺麗に結べたリボンを彼女に見せてあげたのです。
ところが、なんということでしょう。
リボン係の女官は、綺麗に結ばれた瞬王子の胸元のリボンを見るなり、声をあげて泣き出してしまったのです。
どうして泣くのかと尋ねた瞬王子に、リボン係の女官は答えました。

「私は、イストロス川に橋を架ける事故で夫を亡くして、残された二人の子供をどうやって養っていけばいいのかと途方に暮れていたところを、王子様のリボン係に雇ってもらったんです。王子様がご自分でリボンを結ぶようになってしまったら、私はこの職を辞さなければなりません。私は貧しい家の出で、ちゃんとした教育も受けていないので、あんまり難しいことはできません。私は、心を込めて王子様のリボンを結ぶこと以外、何にもできないのに……」

リボン係の女官の瞳から あふれ出る涙を見たその時、瞬王子は、自分は勝手にリボンを結んではいけないのだということを知ったのです。
朝 勝手に一人で目覚めることも、自分の手でお洋服を身に着けることもしてはいけないのだということを、その時 瞬王子は初めて知りました。
浅はかに得意がって そんなことをしてしまったら、起床係や着替え係、たくさんの召使いたちが失職してしまうのだということを、瞬王子は その時初めて知ったのです。

ですから、瞬王子は、自分の身のまわりのあらゆることを召使いたちにしてもらう不自由な生活を、それからずっと我慢してきたのです。
そんな毎日をちょっと息苦しく感じながら、それでも。
国政に携わるには若すぎる王子様の仕事なんて、『お勉強して知識を増やすこと』と『我慢すること』くらいのもの。
瞬王子は、一国の王子として、その二つの義務を果たし続けました。
果たし続けてきた――果たし続けてこれたのです。これまでは。なんとか。

けれど、瞬王子には、たった一つだけ、どうしても我慢できないことがありました。
それは以前は我慢できていたことだったのですが、最近になってどうしても我慢できなくなってきたことでした。
瞬王子は、本当に懸命に我慢したのですが、それを我慢だと思うほどに我慢することは つらくなるもの。
ですから、瞬王子は、ある日 思いきって兄君にお願いしてみたのです。
「お風呂だけは一人で入ってもいいようにしてください」
と。

これまで一度も お願いやおねだりをしたことのない瞬王子に思い詰めた様子で訴えられた兄君は、瞬王子の言葉に大層驚いたようでした。
そして、そのお顔をすぐに険しいものにして、瞬王子に尋ねてきたのです。
「入浴係に何か不手際をした者がいたのか」
瞬王子は、兄君の険しいお顔に驚いて、すぐに大きく何度も首を横に振りました。
瞬王子は、自分の世話をしてくれる召使いたちが兄君に叱られることを望んではいませんでしたから。

「違うの! 違うんです。あの……ただ……女官たちが僕を見て、くすくす笑うの」
「くすくす笑う?」
瞬王子の言葉を聞いた一輝国王の顔が奇妙に歪みます。
瞬王子はちょっと困ったように、小さく頷きました。
「僕、どこか変なところがあるんじゃないかと、お医者様に聞いてみたんだけど、特に変なところはないって、お医者様は言うの。でも……笑われるたびに なんだかとっても恥ずかしくなるの……」
「それは、まあ――なるほど」
瞬王子には、なぜそれを恥ずかしいと感じるのか、その理由は自分でもわかっていなかったのですけれど、瞬王子の兄君には、その理由がわかったようでした。
わかったような顔になって、兄君は、もじもじしている瞬王子の姿をまじまじと見詰めてきたのです。

「おまえもそろそろ13……14か。いろいろとデリケートな問題が出てくる年頃だな……」
瞬王子の兄君は独り言のようにそう言って、それから、お父様のように、あるいは お母様のように しみじみした表情を浮かべました。
「つい、いつまでも小さな子供のような気がして、おまえの身のまわりのことは女たちに任せておけばいいと思っていたが、おまえが女たちに甘やかされて軟弱な王子になってしまったら、それは国のためにもよくないことだ」

瞬王子の兄君は、国の内外に豪胆果敢で名を馳せた王様で、その姿や印象も 大層男らしく、猛々しいといってもいいようなものでした。
ですが、そんな兄君とは対照的に、瞬王子は花にたとえられることの多い風情の持ち主だったのです。
兄君に愛される弟として存在していればいいだけなら、それで何の問題もなかったでしょうが、瞬王子は、兄君の弟であると同時に一国の王子。
いつまでも愛されるだけの綺麗な花でいることの許されない立場にありました。
瞬王子が 今ではもう小さな子供ではなくなっていることに 遅ればせながら気付いた一輝国王は、少し考え込む素振りを見せてから、瞬王子に言ったのです。

「おまえに、代わりの者を――女官ではなく男の侍従をつけてやろう。これから、おまえの身のまわりの世話は、すべて その侍従にやらせることにする」
「え」
「ちょうどいい奴がいる。奴も、無位無官の身から王弟付きの侍従長に抜擢されたら、自分の出世に小躍りして喜ぶことだろう」

とても素敵なことを思いついたというように にやりと笑う兄君を見て、瞬王子は少し不安になってしまったのです。
瞬王子の兄君は、なにしろ、それまでの慣例や伝統にこだわることをせず、自分が良いと思った改革は、非常な大胆さをもって決断し敢行する王様でしたから。
瞬王子が不安になったのは、つまり、
「でも、それでは、今まで僕の世話をしてくれていた人たちが、お仕事をなくしてしまうのでは?」
ということ。

もし、そんなことになったら、息苦しいほど不自由な生活に耐え続けてきた瞬王子のこれまでの長い時間が無駄になってしまいます。
入浴係の女官数名だけなら、代わりのお仕事を割り振ることは比較的容易でしょうが、瞬王子の身のまわりの世話を全部、誰か一人の手に任せることにしてしまったなら、それは、これまで王子の世話をしてくれていた召使いたちが何十人も一度に職を失うこと。
瞬王子は、そんな事態だけは絶対に避けたかったのです。
ですが、瞬王子の兄君は、そのあたりのことは既に考慮済みだったようでした。

「その点は大丈夫だ。我が国は 今ちょうど、国民の識字率をあげるためのプロジェクトを始動させようとしているところなんだ。新しい法律を公布しても、それを読めない者が多いせいで周知に支障をきたしている。辺境では、民が読み書きのできないのをいいことに、公布された法律の内容を偽って不正を働く役人も少なからずいるらしい。俺は、そういう事態を打破するために、手始めにこの王宮内に学校を作って、宮殿内にいる者すべてに読み書きができるようにするつもりでいる。おまえの世話をしている者たちの多くは 生活困窮者救済の一環として宮殿に雇い入れた者たちで、ほとんどが読み書きのできない者たちだからな。当面、読み書きの勉強の方に専念させたいと思っていたんだ。成績の良い者の中から希望者を募り、各地の学校に教師として派遣することも考えている」
「あ……では、みんなは お仕事をなくして、この城から追い出されることにはならないんですね」
「これまで おまえのために熱心に務めてくれていた者たちに、そんな心ないことはしない。安心していろ」

兄君のその言葉を聞いて、瞬王子はほっと心を安んじました。
それなら、瞬王子の召使いたちも、職を失って生活に困ることはありません。
読み書きができるようになるということは、その者の世界が広がり 可能性が広がるということですから、兄君の計らいは、召使たちにとっても嬉しいことであるに違いありません。
そう考えて、瞬王子は、笑顔で 兄君に『ありがとうございます』とお礼を言ったのでした。






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