「瞬……瞬!」
星矢が、彼の仲間を呼んでいた。
兄が生きていることを感じる。
紫龍と共に、懐かしい氷河の小宇宙が この場に近付きつつあることも、瞬には感じることができた。
あの青い瞳の様子を思い起こすと、氷河の声までが聞こえるような気がする。
アテナの聖闘士たちはいつも共にあるのだと信じられる。
アテナと仲間たちの力に誘われ促されて、瞬は、それまで重く閉じられていた瞼を開けることができたのだった。
その途端、光がない世界を映しているはずの瞬の視界に、それ自体が光を放っているような星矢の明るい瞳が飛び込んでくる。

「立てるか。ハーデスを追いかけるぞ」
いつも希望だけを映し見詰めている星矢の瞳。
その瞳の中に自分がいることが嬉しくて、瞬は星矢に深く頷き返した。
「うん」
ジュデッカのハーデスの玉座は空になっている。
少し前まで そこに座していた自身の身体のことを思い出し、瞬は軽い目眩いに襲われた。
彼女の聖闘士たちに先んじてハーデスの許に向かったのか、アテナの気配も既にそこには残っていない。

必ず勝てると思った。
二度目より、一度目の今を生きている自分の方が強いことを、瞬は 確かに感じることができたから。
そして、もっと強くなれると感じていたから。
二度目の生の時は、一度目の生で身につけた力を超えることはできなかった。
だが、一度だけの生を生きている者に、限界はない。
今の瞬の身体は、死ぬためだけに生きていた二度目の生の身体ではなかった。
氷河の愛撫の感触を記憶している最初の身体。
であればこそ、愛しいと思い、生き延びたいと願うこともできる。
今こそ自分は真に生きているのだと、瞬は感じ、信じることができた。

「なあ、この戦いが終わったら、みんなで、海 行こうぜ。海」
平衡感覚を取り戻せないでいる瞬に手を差しのべながら、星矢が突然そんなことを言い出す。
瞬が その身体をハーデスに乗っ取られていたことには言及せずに。
それも彼の思い遣り。
仲間を鼓舞するための、星矢なりの優しさ。
その優しさに触れて、瞬は、自分は仲間たちの許に戻ってきたのだという実感を更に強めることになった。
残念ながら、星矢の提案に元気に首肯することは、瞬にはできなかったが。

「海はだめ。僕が海に入って泳ぐのを、氷河が許してくれないから。みんなが泳いでいるのを、僕だけビーチで眺めてるのは ほんとに詰まらないんだから」
「男が海パンいっちょで海で泳いで何が悪いんだよ! あんな焼きもち焼きは放っておけばいいんだって。おまえも、なんであんな焼きもちの言うこと、大人しく聞いてるんだ」
「それは――」
それは、氷河もまた、たった一度の生を懸命に生きている“人間”だから。
その たった一度の人生で 多くのものを失い、失うことによって傷付いても懸命に生きようとし、だからこそ強く、更に強くなる可能性を持っている“人間”だから。
瞬は そう答えようとした――真面目に そう答えようとしたのだが。

「ああ、去年は、おまえ、氷河にキスマークだらけにされたんだっけ。しかも、背中だの太腿の後ろだの、おまえが気付かないとこばっかり。おまえが海パンいっちょになっても、氷河が何も言わないから変だなーとは思ってたんだけど、おまえの背中見た時は滅茶苦茶びっくりしたぜ。どんな悪い虫に好かれちまったのかって」
「……」
氷河のいかなる美点も帳消しにしてしまうエピソードを星矢に語られて、瞬は言いかけていた言葉を口にすることができなくなってしまったのである。
「あれは ほんとに……たちの悪い虫だったよ……」

去年の夏―― 一度目の生を生きていた去年の夏に――瞬はそういう目に合ったのだ。
ビーチパーカーを脱いで海に向かって駆け出した瞬を引き止めようとしない氷河を奇異に思って 後ろを振り返った瞬は、そこに、にやにやと いやらしい笑いを浮かべている氷河の姿と、真っ青になって真夏の砂浜に突っ立っている星矢と紫龍の姿を見い出し、そして自分が昨夜 氷河に何をされたのかを初めて知ることになったのだった。

「あ……いや、その、なんだ。じゃあ、今年の夏は山に行ってキャンプしよう。な、キャンプ」
世界の命運をかけた戦いに挑もうとしているせいではなく――全く違う理由で暗い顔になった瞬を見て、自分が仲間に悪いことを思い出させてしまったことに気付いたらしい星矢が、慌てて瞬に別の提案を持ち出してくる。

「ん……それなら、あんなひどい目に合わされずに済むかも……」
あまり自信は持てなかったが、とりあえず瞬は星矢に頷いた。
星矢が、そんな仲間に苦笑して、それから その苦笑を彼らしい太陽のような笑顔に変える。
「よし、決まった! 勝つぞ。守り抜くぞ」
「うん」

これからアテナの聖闘士たちが生きる時間に、どんな戦いが待っているのかは 瞬にもわからなかった。
それは、瞬にとっても初めて生きる時間だったから。
だが、だからこそ、力の限り戦い生きていこうと瞬は思ったのである。

僕たちは勝てる。
必ず生き延びることができる。
そう信じて、瞬は立ち上がったのだった。
ただ一度だけの人生を生き続けるために。






Fin.






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