「夢にしては――」 まだ夢幻の夢の中にいるような目をして、氷河が低く呟く。 瞬自身もまだ、まるで今 二人の目の前にある薔薇の花の方が夢幻の世界で咲いているような錯覚に囚われていた。 「……氷河、シロツメクサの花輪の作り方を知ってたよね。子供の頃、僕に作ってくれた」 「あ? ああ。好きな子に作ってやれば喜んでもらえると言って、マーマが教えてくれたんだ」 つまり、そういうことだったのだ。 両親に教えてもらった歌と、そしてシロツメクサの編み方を、あの少女が氷河に伝えた。 それを、瞬は、氷河が あの少女に教えたのだと逆に考えてしまい、その結果、瞬の中に とんでもない誤解が生まれてしまったのだ。 その誤解を氷河には告げずにいた方がいいのだろうと、もちろん瞬は思ったのである。 知ったら、氷河は烈火のごとく怒るだろう。 たとえ立腹しなくても、自分が恋人に信じられていなかったことを、彼は不快に思うかもしれない。 だが、事の次第の説明を求めて、彼の恋人を無言で見おろしている氷河の視線の先で、瞬は黙秘権を行使することができなくなってしまったのである。 瞬は、項垂れるように、氷河の前で顔を伏せた。 「ご……ごめんなさい。僕、あの女の子を、氷河がいつか僕以外の誰かとの間に儲ける氷河の子供だと思っていたの」 「なんだとぉ !? 」 瞬の告解に、氷河は、怒っているというより、むしろ面食らったような声をあげた。 項垂れ、小さく両の肩を丸めている瞬を、氷河がまじまじと見詰めてくる。 「俺は、死ぬまで おまえだけだと言わなかったか」 「言ったけど……」 「俺が、一つの目標物しか見ない男で、それを失うまでは他のものを見ない、面倒臭がりでズボラな男だということを、おまえは知っているはずだろう」 「氷河が一途なのは知ってるけど――」 それでも瞬は、何か――氷河が その心を変えざるを得ない何かが、二人の未来のどこかで起こってしまうのだと思ってしまったのだ。 氷河と同じ色の髪と瞳を持った、非の打ちどころのない あの美少女の姿を見せられた時に。 この世界に存在する何かが氷河に似ていることはあっても、氷河が彼以外の何かに似ていることはない――というのが、瞬の認識だったから。 瞬には、氷河こそが すべての比較対象の基点だったから。 「僕は――僕が氷河を好きでいる気持ちが あの子を不幸にしてしまうんじゃないかと、それがすごくすごく恐かったの」 「それで『氷河なんか嫌い』か」 「ごめんなさい……」 「本当に俺が嫌いなのか」 どうしてそんな意地悪なことを訊くことができるのかという気持ちより、氷河の言葉を信じ切れなかった罪悪感の方が強い。 瞬が 恐る恐る首を横に振ると、氷河は、 「ならいい」 と言って、瞬が気抜けするほど あっさりと、彼の恋人のとんでもない誤解を許してくれた。 「夕べのおまえの大胆な情熱と、今のおまえの魅惑的な格好に免じて、おまえが俺を嫌いと言ったことは忘れてやる」 という余計な一言がなかったら、瞬は氷河の寛大に感激し感謝していたかもしれない。 その余計な一言を言ってしまったせいで、彼は、瞬の感謝を手に入れ損ねただけでなく、拗ねてしまった瞬の機嫌を取り結ぶ作業に従事しなければならなくなった。 それが 瞬の誤解を責めないために、氷河が あえて言った軽口だということがわかっていたので、瞬も拗ねた振りを長く続けることはしなかった。 すぐに氷河の胸の中で大人しくなる。 氷河の鼓動が快くて、瞬は氷河の胸に 頬を押しつけ、ゆっくりとその目を閉じた。 氷河の鼓動が、歌のように、瞬の身体に直接響いてくる。 「あの歌……ほんとは悲しい歌じゃないのかもしれない。切ないけど、悲しい歌じゃないのかも」 「ん?」 「別れても いつまでも忘れない、いつまでも一緒にいることを歌ってる歌なのかもしれない。氷河のマーマが今でも氷河を思っているみたいに」 「ああ」 母に言及する氷河の言葉の短さ少なさが、亡き母への氷河の信頼の強さを物語っているようで、瞬の胸は微かな痛みを覚えたのである。 その痛みは、永遠に勝てない人への憧憬と、そして嫉妬の感情を含んだものだったかもしれない。 瞬は彼女とは違うやり方で、氷河を愛さなければならなかった。 「僕は氷河を一人にしない。氷河のマーマとの約束は破れないもの」 「なら、俺も、おまえを一人にしないために、石にかじりついても生き続けることにしよう」 「氷河は時々 諦めがよすぎるから……」 「おまえが生きていてくれさえしたら、俺も根性で生きようとするさ」 「うん」 『おまえが生きていてくれさえしたら、俺も生きようとする』と氷河が言ったら、彼は必ず その言葉通りにするのだ。 嘘をつくなどという面倒なことを、氷河はしない。 ならば、瞬は――瞬こそが、石にかじりついても――生きていなければならなかった。 もちろん、瞬はそうするつもりだった。 それが氷河の母の切ない願いなのだから。 この橋の上で あの子と見たのは 澄んだ水にいつも映る笑顔ふたつ 澄んだ水にいつも映る笑顔ふたつ あの歌のように、氷河は 母と二人で春の温かな小川の水に笑顔を映し見詰め合ったことがあったのだろうか。 たった二人きりの幸福な母子は、その時 その幸福が永遠に続くのだと信じていたのかもしれない。 だが、遅かれ早かれ、不死ならぬ人間の上には必ず別れの時がやってくる。 それは聖闘士でも同じこと。 人の生に永遠はない。 だから人は『死が二人を分かつまで』という誓いを立てるのだ。 それでも、愛する者の幸福を願う気持ちは永遠なのだろうと、氷河の胸の中で 瞬は切なく思ったのである。 Fin.
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