日が変わったら 氷河も少しは昔の仲間と言葉を交わす気になってくれるのではないかという瞬の期待は、翌朝 瞬の『おはよう』に沈黙の答えが返ってきた時点で 空しく霧散することになった。
氷河は、今日も、はるばる日本からシベリアの地にまでやってきた仲間と 口をきくつもりがないらしい。
それでも、瞬がめげずに氷河に話しかけていったのは、身も蓋もない話だが――空腹のせいだった。
昨夜は、氷河に口をきいてもらえないのがショックで空腹も気にならなかったのだが、生きている人間は、生きているので、心の渇望が肉体の渇望を凌駕することもある。
というより、人間は、心の渇望を感じ続けるために、肉体の渇望を満たすことが必要なのかもしれなかった。

「氷河は毎日どうしてるの? あの……食事とか」
氷河は空腹を感じていないのだろうかと疑いながら、ほとんど無表情の氷河の顔を 瞬が見上げた時だった。
「それは僕が運んでくるんだよ。放っておくと、氷河は何も食べないから」
と言って、小さな男の子が鍵のかかっていない氷河の家に入ってきたのは。
7、8歳――10歳にはなっていないだろう少年は、その手にパンやチーズの入った大きな籠を持っていた。

「君は……」
「おはよう。昨日、おじいちゃんとこ寄ってったんでしょ。食事、二人分持ってきたから安心して。橇にボルシチの鍋と牛乳もあるよ」
「あ……ありがとう」
決して食べ物を持ってきてくれた少年だからというのではなく――それもあったかもしれないが――瞬は、一目で その少年に好意を抱いた。
彼は、大きく明るく素直そうな瞳の持ち主で、何より氷河とは対照的に 見るからに人懐こく親しみやすい印象の強い少年だったのだ。
つまり――古い友人に素っ気なくされて気落ちしている異邦人と 喜んで言葉を交わしてくれそうな。

実際、彼は瞬の期待通りの少年だった。
氷河と瞬がテーブルに着いて食事を始めても、彼は村に帰る素振りを見せず、異国からの客人に興味津々といった様子で、二人の食事の様子を見詰めていた――見詰めてくれていた。
おかげで、瞬は、会話の全くないテーブルで パンを千切る音にも神経を遣うような朝食をとらずに済んだのである。
その上、その少年は、氷河が黙して語らないことを、氷河の代わりに瞬に教えてくれたのだ。

「氷河はここで一人でどんなふうに毎日過ごしてるの」
「いろいろだよ。用心棒とか、ブルドーザーの代わりとか、フリーザーの代わりとか。最近はやっぱり用心棒の仕事がメインかな」
「用心棒?」
「クマ退治だよ。最近、地球温暖化のせいで、海の氷が沖まで張らなくなったんだ。それで、氷伝いに沖に出てアザラシとか狩って食べてたクマが餌を取れなくなって、村の近くに出没するようになったんだよ。以前は保存食を入れてある食料庫のドアを壊して入り込むくらいだったんだけど、最近は 時々 人を襲ったりもするようにもなったんだ。氷河は、そんなクマたちを捕まえたり、追い払ったりしてくれてるの」
「へえ」
「あとは、力仕事とか、凍ってなきゃまずいところを凍らせたり、他にもいろんなことをしてくれてるよ。村のみんなは 氷河にすごく助けられてる」
「そうなんだ……」

少年の語る氷河の日常は、瞬には少々思いがけないものだった。
戦いにしか役立たないと思っていた聖闘士の力を、氷河は全く別の方向に用いている。
そして、多くの村人に感謝されている。
そんな氷河が、瞬は、仲間として誇らしく、同時に、仲間として寂しさを感じもした。
「氷河……立派に働いてるんだね。みんなの役に立って、みんなに必要とされて……。毎日が充実してて、生きてる甲斐も感じられて――氷河は、だから、僕たちのところに帰りたくなくなったのかな……」

氷河を必要としている人の前で恨み言のようなことを言ってしまった――と、瞬は その言葉を言い終えてから悔やむことになったのである。
少年は そんな瞬に気を悪くした様子もなく――それどころか、逆に、彼は仲間の拒絶に合って消沈している瞬を慰めてくれた。
「でも、氷河はそんなことのために聖闘士になったんじゃないと思うよ。それは氷河もわかってると思うけどな」
「……でも、ならなぜ氷河は――」
なぜ氷河は仲間の許に戻ってきてくれないのか――。
瞬は僅かに顔を伏せ、横目で氷河の考えを探るように ちらりと視線を彼の方に投げた。

その視線を鬱陶しく感じたのか、あるいは 瞬にその訳を告げるのを避けようとしてのことか、氷河が チーズを挟んだパンを手にして外に出ていく。
氷河の姿の消えた食卓で、瞬はがっくりと両の肩を落とすことになった。
「氷河は、マーマの側を離れたくないのかな……。僕たちのことが嫌いになったのかな。大人の勝手で聖闘士にされたりしたことを許せない気持ちでいるのかな。この村の人たちと平和に暮らしていることが氷河の望みなのかな……」
しょんぼりしている瞬の顔を、少年が広いテーブルに身を乗り上げて覗き込んでくる。
瞬が少年の素直な瞳に出会って瞬きをすると、彼はそんな瞬の前で嬉しそうな笑顔を作った。

「僕、ヤコフっていうんだ」
「あ、僕は――」
この親切な少年に自己紹介もせずに泣き言を聞かせていた自分に気付き、瞬は遅まきながら 自分の名を名乗ろうとしたのである。
が、瞬が名を名乗る前に、ヤコフは瞬の名を口にした。
「瞬だろ。氷河の仲間の中でいちばんの泣き虫の」
「あ……うん……」

“泣き虫”というのは あまり名誉な評価ではないが、それは瞬には堂々と否定できる枕詞でもなかった。
幼い頃の自分を顧みれば、氷河も そういう説明をすることしかできなかっただろうと、他でもない“泣き虫”の瞬自身が思わないわけにはいかない。
“泣き虫の瞬”――自分は、それ以外に どんな個性も長所もない子どもだった。
氷河も 他に言いようがなかったのだろう――と。
だが、氷河は、瞬を泣き虫の子供とだけ認識していたわけではなかったらしい。
ヤコフがその事実を瞬に知らせてくれた。
「キドテイっていうところに集められた子供たちの中で、瞬がいちばん可愛くて素直な子だったって、氷河が前に言ってた」
「氷河が?」

昨日と今日の素っ気ない氷河の態度を思えば、ヤコフの言葉は、瞬には にわかには信じ難いものだった。
それは、仲間に すげなくされて沈んでいる遠来の客の気を引き立たせるために、ヤコフが咄嗟に作った嘘だろうとさえ、瞬は思ったのである。
「僕は泣くことでしか目立てない、みそっかすだったよ……」
瞬の卑屈に――瞬自身は、それを“卑屈”ではなく、ただの“事実”だと思っていたが――ヤコフが微かに首をかしげる。

「そうなの? でも、氷河は、会いたいって言ってたよ。もう一度会えるんだろうかって、いつも気にしてたよ。一人で泣いてるんじゃないかって、ほんとにいつも心配してた」
「氷河が……? あの……ほんとに?」
瞬という人間を直接知らない人間が――しかも、まだ幼い子供が――咄嗟に作った嘘にしては、それは妙に具体性と現実味のある嘘である。
もしかしたら それは嘘ではないのかもしれないと、瞬は、その胸中に一抹の期待を抱いた。
やっとまともに顔をあげた瞬の視線を捉えたヤコフが、大きく頷き返してくる。

「うん。だから、昨日、おじいちゃんに、すごく可愛い日本人が氷河を訪ねてきたって話を聞いた時、氷河は日本に連れていかれちゃうんだろうなあって思ったんだ」
「あ……」
「氷河の先生は聖域から召集がかかって、ここにはいないんだ。氷河は聖闘士になったし、氷河の先生は もうここには戻ってこないと思う。ここには、氷河の他に もう一人聖闘士候補がいたんだけど、1年くらい前に行方不明になって……ここにはもう誰もいないから、きっと氷河は――」
明るかったヤコフの瞳が、初めて寂しげな色を帯びる。
ヤコフにしてみれば、自分は 氷河をこの村から連れ去ろうとする無慈悲な人間なのだということに、この段になって瞬は初めて思い至った。
そんな ひどい人間に、この少年は優しい思い遣りを示してくれているのだ。

「ヤコフは氷河にここにいてほしい?」
「そりゃあ。僕は氷河が好きだし、村のみんなも氷河がいなくなったら困ると思うよ。でも、氷河は日本に帰らなきゃならないと思うんだ。そのために、つらい修行に耐えたんだし」
「ん……」
自分が氷河に会いたかったから――その一事だけで シベリアまで乗り込んできた自分を、氷河と一緒にいたいから――その一念だけで 氷河を日本に連れ帰ろうとしている自分を、小さな少年の前で 瞬は深く恥じることになった。
修行地に赴いた頃の自分と同じくらいの歳のヤコフの方が、よほど氷河のことを考えているではないかと。

「それに、氷河は、日本に行っても、ここでのこと忘れないと思うんだ。日本を離れて、仲間たちと離れて、ここで修行していた間、氷河が瞬たちのことを忘れなかったみたいに。だから、平気」
健気で強い少年の言葉を、瞬はもう疑うことはできなかった。
ヤコフがそう言うのなら、そうなのだろう。
氷河は彼の仲間たちを忘れずにいてくれたのだ。
泣き虫の仲間の身を案じてくれてもいた。
それは事実なのだろう。
だが、だとしたら、なぜ氷河は今 こんなにも仲間に対して素っ気ないのか。
瞬には、それがわからなかった。
氷河の掛けていた椅子――今は空の椅子を見詰めて、小さな吐息を洩らす。

氷河の言動を理解できず、吐息を洩らすことしかできないでいる瞬に、ヤコフは幼い子供らしからぬ洞察力を示してきた。
「僕、瞬が迎えに来たのは逆効果だったと思うんだ。瞬が迎えに来なかったら、瞬に会えないでいることに我慢できなくなって、氷河は瞬に会いにいってたと思う」
「だ……だって、僕は……氷河に会いたかったんだもの……」
思いがけないヤコフの言葉に戸惑い、瞬はつい本音を――氷河の仲間としての大義名分ではなく本音を――口にしてしまっていた。
すかさずヤコフが瞬に尋ねてくる。

「瞬は、氷河と仲がよかったの?」
「あ……ううん。そんなには……。でも、僕、氷河が僕のこと見ててくれたのは憶えてるんだ。僕が泣いてばかりいるのに呆れていただけだったのかもしれないけど、いつも見ててくれた。心配そうにだったり、怒ってるみたいにだったり――。でも、見ててくれた。だから、僕、どうしても もう一度氷河に……氷河に僕を見てもらいたかったの。『僕、ちゃんと聖闘士になれたんだよ』って氷河に言って、聖闘士になった僕を氷河に見てもらって、それで――そうしたら、きっと氷河は僕を褒めてくれるって思ってた……」

ヤコフの思い遣りに比べて、あまりにも子供じみた自分の願い。
だが、それは、どんな麗句で偽り装うこともできない事実だった。
聖闘士になった“泣き虫の瞬”を、氷河は喜び、そして褒めてくれる。
そう信じてシベリアにまでやってきたというのに、氷河の このつれない態度。

もう“泣き虫の瞬”ではないつもりでいたのに、瞬の瞳には涙がにじんできてしまった。
「僕は、氷河に会いたかったの……」
瞬が そのささやかな願いを、もう一度口にする。
ヤコフが、『泣かないで』と言わずに、
「どうするんだよ。氷河が泣かせたんだぞ」
と言ったので、瞬は、いつのまにか氷河が家の中に戻ってきていたことを知った。






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