聖域の はるか北方。
神々も“普通でない”と認める人物の館は、針葉樹が作る深い森を背後に従えて、ひっそりと建っていた。
ささやかな領地の領主には ふさわしい小さな館。
それは、無欲で廉潔な人物の住まいとしても ふさわしい館だったろう。
堅牢ではあるが、全く飾り気がない。
しかし、不思議に人を拒絶している印象がなく、瞬は、この館には、変人の領主の他に、細やかな気遣いのできる女性がいるのではないかと思ったのである。
残念ながら、瞬のその推察は外れ、館にいたのは、館の主人の他には 数名の男性の家令がいるだけだったのだが。

「使用人も少なく、女の召使もいないので、いろいろ行き届かないところがあるかもしれませんが、そこはご容赦ください」
そう言って、瞬を客間に案内してくれた初老の男性は、聖域からの使者の前で始終 恐縮していた。
館の主は戦いしか愛していない人物でも、その部下までが好戦的というわけではないらしい。
彼の孫といっていい年齢の子供に対する彼の腰の低さに、瞬こそが申し訳ない気持ちになったのである。

が、客間で瞬を出迎えた この館の主は、腰の低さどころか、常識的な礼儀すら心得ていないような人物だった。
仮にも女神アテナの命を受けてやってきた使いの者に対して 彼が最初に発した“挨拶”は、
「これが、戦いの女神アテナの使いの者だと !? 相当の剛の者が来るに違いないと期待していたのに、ただの子供じゃないか。しかも、こんな ひょろひょろした!」
彼の大層礼儀正しい歓迎の辞に、瞬は、『剛の者を期待していたのは僕の方です!』と言い返したくなってしまったのである。
瞬は、自らに課せられた難業の相手を、あまり理性的ではないにしても 何かに挑むような目をした力自慢の巨漢だろうと想像していたのに、氷河という名の その領主に対して瞬が抱いた第一印象は、“尋常でなく綺麗な、ただの優男”だったのだ。

体躯は鍛えてあるし、所作に無駄がなく、隙が全くないのもわかる。
眼差しも、優しさではなく鋭さを帯びていて、それは好戦的な眼差しと言っていいものだったかもしれない。
身に着けているものも、装飾の全くない機動性重視の軽装。
それでも、彼は、まず第一に 美しさが 意識と目に残る青年だった。

北の国の陽光をって作った糸のような金色の髪、雲のない真夏の空の色を写しとったような青い瞳。
しかも、その顔の造作が、澄んだ空気にしか触れたことがない人間のそれのように、端正を極めている。
どんな武器による衝撃も知らず、誰の拳も受けたことがない彫像のように――彼は無駄に美しかった。
しかも若い。
瞬の難業の相手は、普通なら 恋にうつつを抜かしている歳頃の若い男だったのだ。
もっとも、その美しさにもかかわらず、彼の態度はぶっきらぼうで、無愛想で、優雅のかけらも伴っていないものだったが。

「あなたのご期待に添えないことは、申し訳なく思います」
瞬の慇懃な皮肉を、彼はあっさり無視した。
そして、苛立った様子で、せっかちに彼の用件に入ってくる。
つまり、アテナの使者の用件を確認するという作業に。

「おまえが 聖域から この北の果てまでやってきた用はなんだ。アテナに何か捧げろというのか? なら、この館にあるものは何を持っていってもいいぞ。神殿でも建てて神を祀れというのなら、どこぞの財のある王を倒して、その国の者に建てさせる」
強い軍隊を養っているとも思えない小国の領主が、それを難業とは思っていないような口調で 軽く言ってのける。
瞬は、彼の前で ゆっくりと左右に首を振った。

「僕が欲しいのは、あなたの心です」
「……おまえは何を言っているんだ?」
「僕が欲しいのは、あなたの心です。つまり、あなたの愛」
「……」
アテナの使者が要求しているものが、この館から持っていけるものでも、他国の者に建てさせることのできるものでもないことは、彼にも理解できたようだった。
とはいえ、理解と得心は全く別のもの。
彼は、アテナの使者が求めているものが何であるのかを知って、しばし あっけにとられたようだった。
が、すぐに、気を取り直し、瞬に胡散臭そうな目を向けてくる。

「どうやって持っていくんだ、そんなもの。持っていけるのなら、持っていって構わんが。俺は、心を失った身体で戦いを続けるだけだ」
「あなたの心を持っていく方法は おいおい考えます。その方法を思いつくまで――しばらく、こちらの館に滞在するお許しをいただきたいのですが」
「好きにしろ。馬鹿らしい」
館への滞在を許可する言葉に 吐き出すような一言を付け加えて、彼は、客間の扉の脇に控えていた家令の方に その視線を巡らせた。

「客人に適当に部屋を用意しろ。アテナの使者は、俺の心の運搬方法を思いつくまで、この館に滞在するそうだ。いずれ素晴らしい運搬方法を思いつくに違いない」
「ありがとうございます」
心の持ち運び方など思いつくはずがないと確信しているらしい氷河に、瞬は丁寧に礼を告げたのだが、彼の意識では、その時 既に彼とアテナの使者との会談は終わってしまっていたらしく、氷河は瞬に どんな反応も示してこなかった。

主人の分まで腰の低い家令が、瞬を客人のための部屋に案内する素振りを見せる。
彼に促されて客間を出ようとした瞬は、開かれた客間の扉の前で、もう一度 この館の主人の方を振り返った。
「あなたは戦いしか愛していない人だと聞いてきました。あなたは本当に戦いしか愛していないの?」
アテナの使者の“馬鹿げた用件”に憤りさえ覚えているらしい氷河が、投げやりな口調で瞬に答えを返してくる。
「他に愛する価値のあるものはない」
「いつからそう思うようになったんです」
「……10年ほど前だ」
「10年?」

どう見ても、相当の無理をして どれだけ多く見積もっても、氷河の年齢は24、5だった。
では、彼は10代半ばの頃から、戦いだけを愛してきたということになる。
10年前、彼の上に何が起きたのか――。
尋ねて答えが得られるのだったら、瞬は彼に尋ねていただろう。
だが、その時には既に、氷河は完全に瞬に背を向けてしまっていたので、瞬はそうすることを(その場では)断念したのである――というより、断念せざるを得なかった。






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