氷河が、母の形見のロザリオだけを持って、母と暮らした思いでのある館を出たのは、それから半月後。
ハーデスの野心(?)を挫いたことに機嫌をよくしたアテナが、近隣の領主・国王の前に姿を見せ、氷河の館と領地をアテナの領域と宣言してまわるという悪乗りをしてくれたため、主のいなくなった館が他者の侵入略奪を受ける心配はなくなった。
館に残る者たちの安全を図ってくれたアテナに、氷河は好意だけでなく感謝と忠誠心を抱くことになったらしく、彼が彼女を語る際の言葉には徐々に敬語が混じるようになっていったのである。

氷河の将来を案じていた あの親切な家令は、氷河が女神アテナのお召しを受けたと聞くと、
「これで安心して歳をとれるようになります」
と言って、氷河を聖域に送り出してくれた。
「わかってくれていたと思うが、俺はおまえと皆に いつも感謝していたんだ」
氷河のその一言で、彼のこれまでの苦労と忠義は報われたらしく、老いが迫った彼の瞳には涙がにじんでいた。
「また、会おう。それまで元気で」
そんな家令の身を思い遣る別れの言葉を、氷河が告げる。

人が戦いだけを愛して生きていられるはずもなく、これまでの氷河の『愛しているのは戦いだけ』は 実はただの空言で、氷河は本当はいつも戦い以外にも多くのものを愛していたのではなかったのかと、瞬は思ったのである。
ただ、それらのものを失うことを恐れるあまり、言葉にせずにいただけで。
そんな氷河が『愛している』という言葉を口にするには、相当の勇気が要ったに違いなかった。
(多少は)欲望の後押しがあったにしても。

「氷河、ありがとう」
瞬が氷河の勇気に感謝の言葉を告げると、彼は、それが何に対しての『ありがとう』なのかがわからないというような顔を、瞬に向けてきた。
この人に いつまでも希望と勇気を与えられる存在でいられたなら、自分はどれほど幸せな人間でいられるだろう――。
それが、その日、瞬の胸の中に新しく生まれた希望だった。






Fin.






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