城戸邸ラウンジの庭に面したブラインドは、毎朝6時に自動的に上部に巻き上げられることになっている。
そのブラインドが、今日に限って一ヶ所だけ途中で止まったままだった。
どうやらブラインドの昇降コードに捩じれが生じているらしい。
紫龍が その捩じれを正しい位置に戻そうとして、ブラインド上部に手をのばしていた時だった。
「俺が直してやろう」
という不気味なほど親切な(?)氷河の声が、紫龍の指先と全身を引きつらせたのは。

紫龍より1センチ背の高い氷河が、引きつり強張った紫龍の指に代わって、ブラインドの捩じれを戻し、手動でブラインドを上げてから、おもむろに後ろを振り返る。
夏の朝の明るい光が逆光になって 氷河の顔に影を落としていたため、紫龍は“親切な”氷河の表情を明瞭に捉えることはできなかった。
ただ、陽光に透ける金髪が いつもより白色を帯びて、黄金というより白金めいていることを知覚できただけで。

そんな状態であったにもかかわらず、氷河が氷のように冷ややかな目で彼の仲間を睥睨していることを、紫龍はひしひしと心身で感じ取ることができていたのである。
それは つまり、氷河の小宇宙が静かに、だが激しく燃え上がっているということ。
紫龍は色々な意味で寒気を感じ、我知らず1歩2歩と後ずさりを始めていた。
紫龍に逃亡を許すつもりはなかったらしく、龍座の聖闘士の後ずさりが3歩目に入ったところで、氷河は朝のラウンジに怒声を響かせ、紫龍の動きを厳しく封じてきた。

「貴様、よくも 瞬にいらぬことを吹き込んでくれたなっ! 誰が味噌汁を作れなくて自信喪失しているだとっ !? 」
「だ……誰が……って、おまえが」
彼らしくもなく、どもりながら氷河に答えを返したのは、実際に氷河に問われた紫龍ではなく星矢だった。
星矢は紫龍に比べれば氷河との間に距離があったので、なんとか声を発することができた――らしい。
それは、強大な力を持つ敵の攻撃から仲間を救おうとしてのこと――言ってみれば、美しい友情の発現だったかもしれない。
だが、それは友情の発現であると同時に、自分が紫龍の共謀共同正犯者であることを自ら自白する愚行でもあった。
紫龍に向けられていた氷河の憤怒と怒声が、紫龍と星矢の二人に向けられたそれになる。

「馬鹿の考え 休むに似たりとは、よく言ったものだ。そもそも、貴様等の考えは根本的に間違っている。味噌汁を作れなくてもいいのは、俺ではなく瞬の方だ!」
「へ……?」
「俺が味噌汁を作れなくても、瞬が俺を嫌ったりするわけがない! ゆえに、俺が味噌汁を作れないことには何の問題もない。俺の性格が悪くても、それは同様だ。俺が、心根が大切と言ったのは、瞬のためだ。瞬は心根が優れているから味噌汁が作れなくても構わないと、俺は瞬に言ったんだ。俺の根性が曲がっていようが、異次元空間にぶっ飛んでいようが、そんなことは、俺に対する瞬の好意を妨げる どんな障害にもならない。瞬はそれでも、俺を好きでいてくれる。貴様等は そこがわかっていない!」

その自信はいったいどこから湧いてくるのか――と氷河を問い質したい衝動に、星矢はかられたのである。
彼がその衝動を かろうじて抑えきることができたのは、現状――龍座の聖闘士と天馬座の聖闘士が 白鳥座の聖闘士の攻撃的小宇宙の標的になるという現状を招いた原因が、軽率に発せられた一つの質問だったという事実を、星矢が忘れていなかったからだった。
へたな質問を重ねて氷河を刺激し、今以上に彼の小宇宙を強く大きなものにすることの危険を、聖闘士の直感が星矢に訴えてきたからだった。

「貴様等の荷物を持ってやらないのも、高いところにあるものを取ってやらないのも、俺がそんなことをしたら、貴様等が気持ち悪がるだけだということを知っているからだ。言ってみれば、俺なりの優しさ、思い遣りだ。貴様等が100歳の老人だったら、俺だって、貴様等の荷物を持ってやるくらいのことはする! それを何だ? 俺には親切の美徳が備わっていないだと !? 人間の価値は心根で決まると俺が言うことは 自虐行為だと !? 貴様等がそう考えるのは貴様等の勝手だが、そんな事実に反する無責任な憶測を いかにも真実めかして瞬の心に吹き込む権利は、貴様等にはない! 言うまでもないが、義務もない! わかっているのか、この大馬鹿者共っ!」

マシンガンもかくやと言わんばかりの勢いとスピードで氷河にまくしたてられて、星矢と紫龍は 鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
氷河が手にしていたマシンガンの弾が えんどう豆だったわけではない。
そうではなく――氷河の舌鋒が高速に過ぎ、苛烈に過ぎたために、星矢たちは、その攻撃の内容を速やかに理解しきることができなかったのである。
相応の時間をかけて なんとか氷河の主張を整理した後、紫龍たちは、その理解内容が正しいかどうかを、発言者に確かめることになった。

「つまり、何か。おまえが、男の価値は料理ができるかどうかで決まるものではないと言ったのは、味噌汁を作れない瞬をフォローするためだったのか? 男の価値は心根で決まると言ったのも、瞬のため?」
「俺が、瞬以外の誰のために、わざわざ そんなことを言ったりするんだ! 常識で考えろ!」
言外に、氷河は、たとえ自分のためであっても そんなことは言わないと言っていた。
これは、我と我が身を顧みない愛他主義(ただし瞬限定の)というべきか、それとも 己れの利益も不利益も顧みない利他主義(ただし瞬限定の)というべきか、あるいは必要最低限のことしかしない究極の横着というべきなのか。
氷河が彼の人生をどういう指針をもって生きようと、そのことに関して口出しをするつもりはないし、その際 彼が必要最低限の労力しか費やしたくないというのなら、それもまた彼の勝手であって 文句を言うつもりはない。
だが、それならそれで 氷河には せめて、彼の愛他主義(もしくは利他主義、もしくは横着)の目的格だけは明瞭にしておいてほしかったと、それが愛他主義者(もしくは利他主義者、もしくは横着者)の義務なのではないかと、星矢と紫龍は疲れた気持ちで思ったのである。

「要するに、おまえは、自分が味噌汁を作れないことや性格が悪い事は、完全に棚にあげていたということか?」
「なに?」
「いや、瞬の愛を信じていたから、そんなことは気にかけてもいなかった――と」
地球温暖化問題など白鳥座の聖闘士の一瞥だけで解決するに違いないと確信できるほど冷え切った氷河の目に睨まれて、紫龍は慌てて彼の発言を訂正した。
偉そうに顎をしゃくることで、氷河が紫龍の訂正後の言葉を是認する。
「あたりまえだ。俺が味噌汁を作れないくらいのことで、瞬が俺に愛想を尽かすはずがない。俺の性格が悪かろうが優しくなかろうが、瞬は俺を好きでいてくれる。なぜ、俺がそんなことを心配しなければならないんだ。俺が心配するとしたら、それは、繊細で傷付きやすくて内罰的傾向の強い俺の瞬が 味噌汁なんかのことで落ち込むことの方に決まっているだろう!」

その自信はいったいどこから湧いてくるのかと問い質すのも馬鹿らしく思えるほど 揺るぎない氷河の自信。
ここまでくると“呆れる”を通り越して、感心するしかない。
揶揄でも皮肉でも嫌味でもなく、正真正銘の讃辞として、星矢は、
「すげー自信」
とぼやくことになったのである。
それが揶揄でも皮肉でも嫌味でもなく、心からの賞讃だということがわかったのか、氷河は、星矢のぼやきに対しては、特に何も言わなかった。

代わりに、ラウンジのドアの前に立つ瞬の方を振り返り、
「瞬。そういうことだ。俺はあの時、落ち込んでいたんじゃなくて、たとえ味噌汁が作れなくても、俺はおまえを愛していると言っていたんだ。一人で部屋に引きこもっていたのは、おまえの誕生日が近いから、プレゼントをどうするか、おまえに内緒で考えるため。おまえが心配するようなことは何ひとつなかったんだ」
と告げる。
瞬の誤解を解き 瞬の心を安んじさせることは、必要最低限のことしかしたくない男が労力を惜しむべきではないと認める重要な仕事の一つであるらしかった。
誤解を誤解と知った瞬が、氷河の前で小さく身体を縮こまらせる。

「ごめんなさい……。僕、勝手に勘違いして……」
「おまえが謝ることはない。悪いのは、おまえにいらぬ考えを吹き込んでくれた こいつらの方――」
氷河が そう言いながら、ゆっくりと再び天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士を振り返った時、彼の青い瞳はブリザード吹きすさぶ真冬のシベリアの死の大地の様相を呈していて、その瞳に出合った瞬間、星矢と紫龍は真夏の凍死を覚悟したのである。
瞬が、回り込むようにして氷河と星矢たちの間に割り込んでいかなかったなら、星矢と紫龍は その覚悟に至る前に氷河の凍結眼の力に 為す術もなく命を奪われてしまっていたかもしれない。

「氷河、ほんとにごめんね」
「謝るな。おまえのせいじゃないことはわかっている。たとえ味噌汁を作れなくても、俺はおまえを愛している。おまえは それを信じてくれればいいんだ」
「うん、信じてる。そんなの、あたりまえのことだよ。僕は氷河のこと 信じてるから、あの……星矢たちにひどいことしないで」
瞬が、氷河と仲間たちの間に割り込んできたのは、どうやら命の危機に瀕した仲間たちの命を守るためだったらしい。
“愛する瞬”の“お願い”なら氷河も聞き入れるしかないのではないかと、星矢たちは儚い希望を抱いたのだが、瞬のお願いに対する氷河の返答は超低温を保ったままのものだった。

「そうはいくまい。信賞必罰。過ちを犯した者には厳罰をもって臨まないと、馬鹿は同じ過ちを繰り返すだけだ」
『氷河に“馬鹿”と言われるようでは、生きていても仕方がない。むしろ、死んだ方がよほど まし』
もっともらしい面持ちで信賞必罰を唱える氷河の前で、星矢と紫龍はほとんど本気で そう思い、覚悟を決めたのである。
幸か不孝か、彼等の覚悟は、
「氷河がいじめてもいいのは僕だけだよ。僕以外の人にそんなことしちゃ いやだ」
という、甘えを含んだ瞬の“おねだり”のせいで、不要のものと相成ったのだが。

「む……」
人の優しさを素直に喜んでくれる相手にのみ優しくしてやりたい氷河は、実は、いじめに関しても同様の考えを持っていた。
すなわち、『どうせ誰かをいじめるのなら、いじめられることを喜んでくれる相手をいじめた方が楽しい』という考えを。
まして、『僕以外の人にそんなことしちゃ いや』などという可愛い おねだりをしてくる相手が、彼の愛する瞬なのである。
となれば、今の氷河には、瞬のおねだりに屈し 星矢と紫龍の命を永らえさせてやる以外の選択肢は存在せず、そのために瀕死の星矢と紫龍は九死に一生を得るという僥倖に恵まれることになったのだった。


ところで、氷河は、自らの人生を生きる際に必要最低限の労力しか費やさない男であると同時に、彼が興味を持っていないことはさっさと忘れるという美徳を備えた男でもあった。
そしてまた、瞬との約束事は極めて厳格に守る男でもあった。
ゆえに、氷河は瞬との約束を厳に守り、その日以降 星矢に対しても紫龍に対しても、決して“ひどいこと”をしなかった。
もちろん、彼等をいじめるようなこともしなかった。
それどころか、それからしばらくの間、氷河は、星矢が何か荷物を運んでいる時には、それがどんなに重いものでも どんなに軽いものでも 必ず代わりに持ってやり、紫龍が高いところにあるものを取ろうとしている時には、それが彼の肩より高いところにあるものでも あるいは彼の膝より高いところにあるものでも 必ず代わりに取ってやるという親切を実践し始めたのである。

『憎しみで人が殺せたら』と言ったのは、ジャン・コクトーならぬジルベール・コクトー。
『氷河なら、親切で人を殺せるに違いない』という確信に至ったのは、ペガサス星矢とドラゴン紫龍。
いじめか、いびりか、嫌がらせか。
底意の見えない氷河の親切に出合うたび、星矢と紫龍は真綿で首を絞められているような恐怖を覚え、背筋が凍るような思いに襲われ続けたのである。
おかげで、二人は残暑の厳しさに苦しめられることなく――意識することさえなく――平和に(?)、穏やかに(?)、健やかに(?)、秋という季節を迎えることができたのだった。

『心頭を滅却すれば、火もまた涼し』は、戦国時代後期、織田軍の焼き討ちにあって焼死した臨済宗の僧侶・快川紹喜の辞世の句。
人生は、何が幸いするかわからない。
一杯の味噌汁のために、星矢と紫龍は一つの人生の境地に至ることができたのである。
もちろん、その事実を 幸いと思うか不幸と思うかは、人それぞれの主観によるものではあるだろうが。






Fin.






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