父の死から半月ほどが経った ある日、一人の少年が、今は俺のものになった父の館を訪ねてきた。
「昔、父君によくしていただいた者の息子です」
客人は、無駄に金のかかった我が家の豪奢な客間の雰囲気に圧倒され、おどおどしているようだった。
ゴシック風の建物をロココの趣味で飾るから、結果として こんな悪趣味が生じるんだ。
この悪趣味に圧倒される気持ちはわかるが 怯える必要はないぞと、俺は客人に胸中で忠告していたな。

まあ、我が家の悪趣味な ごてごてはさておき、ただれた宮廷で生きる貴族たちとは全く違う、爽やかな空気を身にまとった少年にそう言われた時、俺はてっきり、父が世間に隠していた異母弟が出てきたのだと思った。
より正確に言うなら、異母妹が現われたのだと思った。
簡素な男子の服を身につけ、『父君によくしていただいた者の“息子”』と身の上を告げられたにもかかわらず、その子供は――シュンという名だった――清純な少女のような面差しの持ち主だったから。

そうだったとしても――シュンが父の隠し子だったとしても――俺は驚かなかっただろう。
俺に異母兄弟が10人いても100人いても、ありそうなことだと受け入れていたに違いない。
だが、シュンの話を聞くと そうではなく――シュンの父親は俺の父ではなく――地方の小貴族。
シュンの話を聞いた限りでは、それは事実のようだった。
シュンの父は、今は俺のものになった父の領地の近くに小さな荘園を持つ、地方の貧乏貴族――というのは。
その父が亡くなり、相次いで母親が亡くなったので、シュンはパリに出てくることになったらしい。

シュンの母が、俺の父に“よくして”もらったのは、今から20年以上前――シュンが生まれる数年前のこと。
自分の領地の視察に赴いた父は、そこで素朴な田舎貴族の娘に出会い、早速 彼女に“宮廷風恋愛”を仕掛けていった。
父は、自分がパリで いかに高い地位にあり 有力富裕な貴族であるのかを得意げに語って彼女を口説いた――らしい。
だが、宮廷風恋愛になど縁のない素朴な田舎貴族の娘は、結婚していない相手と恋の情熱に身を任せることはできないと言って、父の誘いを退けた(あるいは、それは、結婚してくれたら身を任せてもいいという意味の拒絶だったのかもしれないが)。
いずれにしても、父は その時には既に母と結婚していたから、母を手に入れた時と同じ手は使えなかった。

女性に拒絶された時、見苦しく 怒りを露わにするのは不粋なこと、優雅に身を引きのが宮廷風恋愛のマナーだ。
そのマナーにのっとって、父はその娘から あっさり手を引いた。
その際に、父は、格好をつけて、『困ったことが起きたら、遠慮せず自分を頼ってこい』と、彼女に告げた。
単に虚勢を張っただけで実のない父の言葉を 言葉通りに受け取ったシュンの母の指示で、シュンは南フランスの田舎からパリの俺の館までやってくることになったらしい。

フランスの貴族の家は、基本的に長男が爵位や財産を継ぐ。
それ以外の男子の採る道は、家臣として兄に仕えるか、僧侶になるか、宮廷に出て地位を得るかの三択。
兄は、父亡き後、兄の元で過ごしていたのだが、シュンの家は狭い農地と少数の家令を持つだけの小貴族。
シュンの母は、シュンに、そんな家でくすぶっているよりも第三の道を採らせることを考えたらしい。
そして、昔『困った時には遠慮なく頼ってくれ』と言ってくれた親切な男がいたことを思い出した――。

病を得て死期を悟った彼女は、死の床で、その人を頼ってパリに出るよう、彼女の次男に言い残したのだそうだった。
彼女の気持ちはわからないではない。
シュンは美しい。
俺が彼女の立場にあったら――俺でも、シュンを田舎の小貴族の家に埋もれさせるのは惜しいと考えていただろう。

シュンの母親は、軽薄な好色親父を 誠実な人と信じていたらしい。
父には遊戯でしかなかった二人の恋を、若き日の結ばれなかった美しい恋と信じていた。
そして、若い二人は誠実に恋し合っていたが、身分が違いすぎて――同じ貴族同士ではあったが、家格が違いすぎて――ついに結ばれることはなかったのだと信じたまま、亡くなったようだった。
俺の父と別れてから、彼女は、家の格がつり合った誠実な――少なくとも、俺の父よりは誠実な――男の妻になり、二人の子供を儲けた。
シュンの母は、幸運にも俺の父と結ばれなかったことで、俺の母よりは格段に幸福な人生を送ったのだろう。

「こちらのお館を訪ね、母の名を出せば、公爵様が僕にふさわしい身の振り方を考えてくださるだろうと、死の間際に母は僕に言い残したんです。図々しいこととは思ったのですが、母の遺言でしたので……。母は、ついに結ばれることのなかった若い日の恋の思い出を、ずっと大切に胸の中にしまっていたんです」
若い日の清らかな恋は、20年の時を経て 美しい友情になっていると、シュンの母は信じていたらしい。
父は、自分の誘惑を退けた田舎娘のことなど、彼女が自分のものにならないとわかった瞬間に忘れてしまっていたに違いないのに。

先日 父は亡くなったと告げると、シュンは途方に暮れた顔になった。
そして、心許ない声で、呟くように言った。
「そうだったんですか……。すみません。田舎の方には、パリの出来事が伝わってくるのが遅くて――。本当にごめんなさい」

俺は、その時、『力になれなくて済まない』と 申し訳なさそうに言って、シュンと別れてしまえばよかったんだろう。
だというのに、そうすることができなかったのは、決して シュンの美しさに心惹かれてのことではなかった――と思う。
そうではなく――シュンやシュンの母が、あまりに純朴に 他人の厚意と誠意を信じているから――俺は パリの宮廷人の価値観で、こんなに人を疑うことを知らない少年を 今パリの街に放り出して大丈夫だろうかと思ったんだ。

おそらくは他に頼れる知り合いもないのだろう このパリの街で、シュンの若さと美しさは、シュンにとって悪い方に作用するだろう。
こんな頼りない様子でパリの安宿にでも足を踏み入れたなら、親切顔で『悪いようにはしないから』と嘯く悪党に、いいようにされてしまうだろう。
そう思った。

「父が君にしてやったはずのことを、俺が父に代わってしてやろう」
「あの……でも――」
俺の提案に、シュンは戸惑ったように幾度か瞬きを繰り返した。
シュンを戸惑わせたものは、俺が下心を隠した悪党なのではないかという疑念ではなく、俺の厚意に甘えてしまっていいのかという遠慮だったろう。
その様子を見て、俺はますます、この純朴で人のよさそうな少年を、到底 治安がいいとはいえないパリの街に一人で放り出すわけにはいかないという思いを強くした。

「俺は、2年前に母を亡くし、父も亡くして、一人なんだ。しばらくここにいて、俺の話相手になってくれると嬉しい」
シュンは、人を疑うことを知らない純朴な少年のようだったが、決して馬鹿でも愚鈍でもなかった。
シュンは、俺の言葉を言葉通りに受け取らず、それを 頼るもののない人間への親切心から出たことと、ちゃんと理解していた。

「ありがとうございます。侯爵様」
感謝にたえないというような目をして、シュンは俺の前で深く腰を折った。
俺が、
「ヒョウガでいい」
と言うと、シュンは困ったように首をかしげ、それから俺の顔を見上げてきた。
俺はシュンをこのままパリの街に放り出すつもりはなかった――絶対に そんなことはできないと、俺は思っていたが――シュンのその様子に、正直 俺は とんでもない荷物を抱えてしまったと感じてもいたんだ。

人を疑うことを知らない素朴で清潔な少年――しかも、シュンは美しい。
出世の糸口を求めて、このシュンを宮廷や どこぞのサロンに連れていったなら、十中八九 シュンはパリの ただれ乱れた貴族たちの毒牙にかかるに違いない。
かといって、軍隊に居場所を求めるには、シュンはあまりに若すぎ華奢すぎて、これまた好色な士官あたりにどうにかされてしまいかねない。
シュンにふさわしい身の振り方を、俺は、少なくとも その時その場では全く思いつけなかった。
だが、とにかく、シュンをこの館から放り出すわけにはいかない。
俺にわかっているのは、それだけだった。

「遠慮は無用だ。俺たちは、若い頃の両親の思い出でつながった友人同士だろう。俺も、おまえのことはシュンと呼ばせてもらう」
俺は、シュンを俺の許に引きとめておくために、我ながら白々しい空言を真顔で口にしていた。
嬉しそうに瞳を輝かせたシュンが、
「ありがとう、ヒョウガ」
と言って、俺の厚意を信じきった目で “若い頃の両親の思い出でつながった友人”を見詰めてくる。
俺はといえば、あまりに澄んだシュンの瞳――実のない“宮廷風恋愛”に興じているパリの貴族たちには持ち得ない澄みきったシュンの瞳――を まともに見ていることができなくて、慌ててシュンの上から視線を逸らすことになった。

「僕の母は、ヒョウガのお父様を、とても颯爽としていて素晴らしい貴公子様だったと言っていました。お父様はどんな方? 優しい方でした?」
勧められた椅子に腰をおろしたシュンが、俺にそんなことを訊いてきたのは、俺が苦し紛れで咄嗟に告げた『しばらくここにいて、俺の話相手になってくれると嬉しい』という空言のせいだったろう。
あの糞親父の若き日の純愛を信じきっているシュンに、まさか本当のことを言うわけにはいかない。
父がおまえの母親に近付いたのは、パリから遠く離れた領地に滞在している間の一時の恋のアバンチュールを楽しむ相手を求めてのことだったろう――なんてことは。
俺は、シュンのために白々しい虚言を重ねてやるしかなかった。

「パリの流行の服を着ていたから、颯爽とした貴公子に見えただけだろう。父は、野暮で真面目なことだけが取りえの男で――君の母君に振られたのはショックだったろうな」
シュンは、俺が身内への謙遜から そんなことを言ったのだと思ったらしい。
小さく首を横に振って、シュンは、俺を優しく奥ゆかしい人間と信じきっている眼差しで微笑した。
「ヒョウガのお父様が野暮な方だったはずがないでしょう。ヒョウガのお父様に出会った時、僕の母はきっと、今日 僕がヒョウガを初めて見た時に思ったのと同じことを思ったに違いありません。こんなに美しい男性が この世に存在するなんて――って」
世辞や追従ではなく 本心からそう思っているらしいところが――どういえばいいのか――『シュンはたちが悪い』とでも言えばいいんだろうか。

シュンは自分の美しさに全く気付いていないようだった。
自分を野暮な田舎者と信じているようだった。
だが、事実はそうじゃない。
シュンは美しかった。
顔の造作や姿はもちろんのことだが、何より その澄みきった瞳が。
澄んだ瞳が作るシュンの印象と表情。
薄汚いパリの貴族たちは、なぜ自分がシュンに惹かれるのかを真に理解しないまま、シュンの美しさに飛びつくだろう。
そして、シュンの美しさを損なうだろう。
そんな事態を招くことだけは避けなければならないと、俺は、心中深くで 神に――いや、一途に愛を求め続けた俺の母に――誓った。

俺は その時にはもうシュンに恋してしまっていたんだと思う。
シュンは清らかで善良で、フランスの宮廷風恋愛に興じる貴族たちや俺の父や俺がいる世界とは別の世界の住人。
俺の母が生きていた世界に属する人間だったから。






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