愚かな人間の邪魔立てがハーデスの野望の頓挫にどんな影響を及ぼしたのかは定かではないが、瞬の身体を使って事を成す計画を断念せざるを得なくなった時点で、ハーデスの敗北と消滅は既に決していたのだろう。
瞬と氷河がエリシオンの野に足を踏み入れた時、そこにハーデスの気配は既に存在していなかった。
ただ 至福の苑の主だった神の消滅を弔うように、あるいは、アテナとアテナの聖闘士の勝利を祝するように、無数の花びらが静かに舞っているだけで。
白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士の欠場による戦力の不足は、龍座の聖闘士が補ってくれたようだった。

勝利を得たにしては暗く沈んでいたアテナの聖闘士たちは、瞬の姿を認めると、途端に その表情を明るくした。
「瞬! 生きてたのか!」
嬉しそうに瞳を輝かせ、星矢が瞬の許に駆けてくる。
エリシオンでの戦いに臨んだ3人の聖闘士たちは、どう見ても五体に支障なしという状態ではなく――氷河の胸中には 彼等に申し訳ないという思いが生まれてきた。
それは、彼の計画が破綻したことによって生じた虚無感ほど強いものではなかったが。

すべてを欺き、この仲間たちをも欺き、すべてを捨てようとした。
瞬のために、瞬との恋のために。
その計画が水泡に帰した。
最初から、それは、虚しい幻影でしかなかった――実体のない夢想という絵の具で描かれた無謀な計画でしかなかったのだ。
自分にはもう、仲間として星矢や瞬と共にあることも許されないのかもしれない――。
舞い散る花びらの中で、氷河はそう思い始めていた。

瞬は、もちろん、白鳥座の聖闘士が 仲間たちを欺いて、地上の平和と安寧を守るための戦いを放棄し、自分一人の幸福を手にいれるための策略を巡らせていたことを、星矢たちに“告げ口”するようなことはしないだろう。
だが、だから 何もかもすべてが以前と同じになるわけではない。
何も起きなかったことになるわけではない。
少なくとも氷河は、自分を裏切り者だと思わないわけにはいかなかった。
その上、そうまでして――仲間たちを裏切ってまで――手に入れようとしたものは、結局 氷河のものにはならなかったのだ。

氷河は、ハーデスの野望が潰え、人間の世界が滅亡を免れたことさえ どうでもいいことだと思えるほど虚しい気分に陥っていた。
氷河は、だから、驚いたのである。
互いの生存と アテナの聖闘士としての義務を全うできたことを星矢たちと喜び合っていた瞬が、突然 明るく溌剌とした様子で、裏切り者である白鳥座の聖闘士の首に飛びつき抱きついてきたことに。

「氷河のおかげだよ。ありがとう! 氷河のおかげで、僕は、ハーデスの企みに利用されずに済んだ。これまで僕が命がけで守ってきたものを 自分の手で壊さずに済んだ。ありがとう!」
瞬の声は、その所作同様 明るく弾んでいた。
むやみに明るい声で、訳のわからないことを言い募る瞬に、氷河は大いに戸惑うことになったのである。

瞬の突飛な行動に驚いたのは氷河だけではなかった。
突然 仲間たちの前で 氷河に抱きついていった瞬を見て、星矢たちは ぎょっとしたように目を剥いた。
瞬のその行動は、どう見ても、仲間同士で勝利を喜ぶためのものではなく――瞬の腕や声には 甘えや媚のようなものが にじんでいたのだ。
それは、どこから何をどう見ても、仲間同士の抱擁には見えなかった。

「瞬……あれは俺の姑息な策略――」
白鳥座の聖闘士が瞬をハーデスの支配から解放したのは、瞬のためではなく、地上の平和と安寧を守るためでは なおさらなく、ただ自分一人の益のためだった。
まさか瞬がその事実に気付いていないとは思えなかったのだが、氷河は一応 瞬の言を否定しようとした。
瞬が、一層 明るい声を張りあげて 氷河の声を遮ってくる。
「氷河、大好き! 大好き! ありがとう!」
「瞬……」

いったい瞬は何を考えているのか――。
瞬の意図が理解できず、氷河は自分の首にしがみついている瞬を抱きしめ返してやることもできずにいたのである。
氷河の そんな鈍さ――というより、無反応――に焦れたのか、瞬は困惑することしかできずにいる氷河に対して、更に驚くべき行動に出た。
瞬は、一度 きつく自らの唇を引き結ぶと、次の瞬間、その唇を氷河の唇に押しつけてきたのである。
氷河は、自分の身の上に何が起こっているのか、咄嗟に認識できなかった。
ただただ驚いて瞳を見開くことになった氷河の視界の端に、瞬の奇天烈な行動にあっけにとられている星矢たちの姿が映る。

不意打ちのように 瞬に唇を奪われてしまった男より 幾分早く、その異常事態の中で我にかえることができたらしい星矢が、眉をひそめながら、アテナの聖闘士の中では比較的 常識と良識を備えていると言われていた仲間に事情を尋ねるという難作業を実践してくれた。
「おい、瞬。おまえ、何やってんの」
「大好きな人に、大好きって言ったの」

やっと(?)氷河の首にまわしていた腕を解いた瞬は、仲間たちの方を振り返り、全く邪気の感じられない声と笑顔で そう答えた。
そうしてから、少しだけ その表情を引きしめる。
「こういうの、よくないことだと思う? 僕は氷河が好きなの」
「いや、おまえが氷河を好きだっていうのなら、そりゃ いいことだろ。嫌いだっていうのなら、あんまり よくないことだけど」
「僕は、地上の平和と安寧を守るための戦いを第一義とするアテナの聖闘士で、星矢たちの仲間で、氷河と同じ性の持ち主だよ」
「でも、おまえ、別に アテナの聖闘士として戦うのをやめるとか、俺たちの仲間じゃなくなるとかっていうんじゃないんだろ? なら、いいじゃん。おまえと氷河が並んでても、あんまり違和感ないし」
「むしろ、出来すぎなほど綺麗な一対だ。まあ、なかなか いいんじゃないか」

何事にも大雑把・無造作・大様な星矢ならともかく、紫龍にまでが――と、本音を言えば、その時 氷河は思ったのである。
地上の平和と安寧を守るために命をかけて戦うべきアテナの聖闘士が、同性同士の恋に落ちることが こんなにも簡単に許されていいのだろうか――と。
だが、事実はその通りだったし、星矢たちのその反応には、瞬もあまり驚いてはいないようだった。
それでも 小さく ほっと安堵の息を洩らし、瞬が口許に笑みを浮かべる。

「ありがとう。星矢たちに、それはよくないことだって言われたら、氷河と二人で駆け落ちするしかないって思ってたんだ。氷河なんか、その計画まで立ててたんだから。ロマンチックでしょ」
「ろまんちっくぅー !? 」
仲間の同性愛には 特段思うところもないようだったのに、星矢は、瞬のその感性には明確な異議を抱いたらしい。
「それって、ただの時代錯誤って言わねーか?」
星矢は 嫌そうに顔を歪めて、瞬の言う“ロマンチック”を、“時代錯誤”の一言で あっさりと切って捨ててくれた。

「瞬……」
この展開は、氷河には、あまりにも――何もかもが想定外のことだった。
ひたすら あっけにとられていることしかできずにいた氷河の方を、瞬がゆっくりと振り返る。
そして、瞬は、やわらかいのに ひどく意思的な瞳で氷河を見詰め、同じ風情をした声で告げた。
「氷河。僕たちは、すべてを欺くより、すべてを さらけだして、欲しいものを手に入れよう。それで誰に非難されたって いいじゃない。それで誰に嫌われても、誰に憎まれても、誰に嘲られても、世界中の人に そっぽを向かれたって、僕は平気だよ」
「瞬、俺は――」
「僕は、氷河が好きだよ。この気持ちを 誰に知られても、僕は恐くない。氷河に知られるのだけは……ちょっと恐かったけど」

瞬が、まるで自分の勇気に恥じ入るように、伏せた瞼の睫毛を震わせる。
鈍く頓馬で、その上 肝心の時に何もしてくれない男に代わって、仲間たちの前で 口にしにくい恋を告白するために、瞬は どれほどの勇気を振り絞ったのか――。
そう思うと――そう思うほどに、氷河の中には自らの不甲斐なさへの憤りが湧いてきた。
同時に、氷河は、自分の認識違いに、目眩いに似た感覚を覚えていたのである。
そして、彼は後悔した。
自分は、仲間や世界を欺くより先に、まず事実を仲間たちに打ち明け、認めてくれない者がいたら、彼を説得する努力をすべきだったのだ――と。
最初から、そうしていればよかったのだ。
正直に、真摯に、すべてをさらけだして訴えれば、アテナの聖闘士たちは必ず仲間の心を認め受け入れてくれる仲間たちだった。

それはアテナも同様で、彼女は、つい先程まで戦場だった空間で繰り広げられた恋の告白劇に驚いたように 大きく瞳を見開いていたが、それは単に、瞬のTPOをわきまえているとは言い難い恋の告白に呆れていたからだったらしい。
彼女は、彼女の聖闘士たちの恋に憤るどころか、少々遅ればせながらの助言(?)を瞬に垂れてくれさえしたのである。
「恋の告白というものは、もう少しムードのあるところで、二人きりでした方がいいんじゃないかと思うのだけれど……」

「一応、ここはムードのあるお花畑じゃん」
星矢が脇から仲間の不始末を弁護する。
星矢の その麗しい友情にも、しかし、アテナは嘆かわしげに左右に首を振っただけだった。
「でも、せめて……」
そう言って、アテナが ちらりと視線を投げた先にいたのは、言わずと知れた瞬の兄。
「せめて、一輝のいないところで――」

問題の瞬の兄は、最愛の弟の あまりに大胆かつ非常識な振舞いに動転し、“ムードのあるお花畑”の真ん中で 酸素不足の金魚のように口をぱくぱくさせていた。
もっとも、すべてを欺き、すべてを偽りの平穏の中に紛れ込ませることを企てていた氷河も、瞬の兄の祝福を受けることだけは何があっても不可能なことと考えていたので、それは予定調和というものだったのだが。
そうして、氷河は、最初からこうすればよかったのだ――と、深い悔いを覚えながら、(一輝以外の)仲間たちの前で宣言したのである。
「俺も、瞬を愛している」

氷河は、それでも、彼なりに相当の決意をもって仲間たちに自分の心を告げたのだが、氷河の告白を聞いた 彼の仲間たちの反応は、これまた彼には全く想定外のものだった。
彼の仲間たちは、まるで昨日の・・・天気予報・・を聞かされでもした人間のように、実にあっさりと答えてくれたのだ。
「それは知っていたが」
「そんなの、俺でも気付いてたぜ」
――と。

「知っていた?」
「だって、おまえ、わかりやすすぎるんだもんよ」
「おまえが瞬の命を奪ったと聞いた時には、おまえは瞬を愛しているからこそ、瞬のために そうせざるを得なかったのだろうと思った」
星矢が笑いながら、紫龍は少々 神妙な顔で、そう言う。
それで、氷河は知ったのである。

自分が この仲間たちを欺く必要は、本当に、全く、最初から毫もなかったのだということに。
そして、自分が最も人間社会の倫理・ルールに縛られていたのだということ――自分こそが 自分で自分を縛っていたのだということに。
いちばん“愚か”だったのは、ハーデスが言っていた通り、やはり白鳥座の聖闘士だったらしい。
は、仲間を騙し欺くことで 真の幸福に至ることができると、愚かにも本気で信じていたのだから。
そんなことをする必要は最初からなかったというのに。

「俺はずっと瞬が好きだった。俺はずっと瞬と一緒にいたい」
隠し通してきた秘密を告白するためではなく、ただ仲間たちの前で正直であるために、氷河は彼の仲間たちに、もう一度 彼の心を知らせた。
「とりあえず、お陽さまの光のあるところでな」
屈託なく仲間の心を受けとめた星矢が、実に彼らしい提案をしてくる。
氷河は、小賢しい自分の策略を内心で嘲笑い、素直な気持ちで星矢に頷いた。

そして、彼は、瞬と仲間たちと共に、光あふれる世界へ戻ることにしたのである。
今では氷河にもわかっていた。
仲間たちと共に在ることのできる 光あふれる世界――誰を欺くこともしなくていい、誰かを欺くことなどすべきではない、光あふれる世界。
そここそが、瞬が生きるのに最もふさわしい場所であり、瞬と自分が――もしかしたら、すべての人間が――幸せになることのできる唯一の場所なのだということが。






Fin.






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