できる限りハーデスからの接触を避けるために、瞬はアテナの結界で守られた聖域に その身を移すことになった。
瞬は、彼に幾つもの希望を与えてくれたアテナに すっかり心酔してしまい、見知らぬ土地に生活の場を移すことに不安を覚えている様子は ほとんど見せなかった。
不安どころか――聖域に来てから、瞬は、真顔で聖闘士になりたいと言い出し、氷河に特訓をねだってくるようにさえなっていた。
瞬の綺麗な身体に傷や痣など残したくなかった氷河は、最初から中級レベルの特訓内容を示して、瞬の決意を断念させようとしたのだが、瞬は一向に諦める気配を見せず日々修行に取り組んでいる。
瞬が明るく前向きに自らの運命に立ち向かうようになったことは、氷河にとっても喜ばしいことだった。
だが、瞬の華奢な肢体、争いを好まない性質を思うと、瞬が戦闘力を その身に備えることは かえって瞬を苦しめることになるのではないかと、氷河の中には懸念が募ることになったのである。

聖域に戻って しばらくしてから、氷河は その懸念をアテナに訴えたのだが、あろうことかアテナは氷河の懸念を けらけらと笑って一蹴してくれた。
「そういう心配は無用よ。瞬はあなたのために強くなろうとしているのだから、あなたは黙って見守っていてあげればいいの。私があなたを瞬の許に遣わしたのは、瞬にハーデスと戦う力を養ってもらうためだったのよ。その力というのは、もちろん“愛”のこと。人は愛する人に出会うことによって強くなるの。腕立て伏せを1万回こなしたり 手足に鉄球をつけて長距離走をしたりするより はるかに効率的に、劇的に、人は恋ひとつで強くなるわ。でも、そういうのって、難しいでしょ。まさか、本当は瞬を愛していない人に 嘘の恋を仕掛けさせるわけにもいかないし」
「……」

すべてが終わってから初めて聞かされた白鳥座の聖闘士の任務の真の目的に、氷河は あっけにとられてしまったのである。
人類の存亡がかかった重大な場面で、女神と聖域が、そんな一か八かの賭けに出るような無謀に挑んでいいものなのかと。
もし瞬が 全く白鳥座の聖闘士の好みのタイプでなかったら、この地上に存在する すべての人間の命はどうなっていたのか。
その事態を想像しただけで、氷河の背筋は冷たく凍りついた。
が、アテナの声と表情は どこまでも明朗で軽快だった。
この深刻かつ重大な場面で、氷河の顔をじっと見詰めたかと思うと、彼女は、何がおかしいのか白鳥座の聖闘士の目の前で急に ぷっと吹き出してみせたのである。
そして、声をあげて笑いながら言った。

「そんな呆れたような顔をしないで。勝算はちゃんとあったのよ。白鳥座の聖闘士は、前の時も、その前の時も そうだったのだけど、清純タイプに弱くて」
「は?」
「必ず好きになってしまうのよ。白鳥座の聖闘士は、ハーデスの依り代に選ばれた人間を」
「……」
それが、アテナの言う“勝算”だったというのか。
正直、氷河は、そんな不確かな勝算に人類の命運を賭けないでほしいと、痛切に思った。
アテナの思惑通りに、瞬に恋してしまった白鳥座の聖闘士としては、さすがに ここでアテナの無謀を責めることはできなかったのだが。
というより、氷河は、激しい脱力感のせいで口をきく気になれなかったのである。

かろうじて氷河がアテナに問い質すことができたのは、
「しかし、教皇は俺に瞬を殺せと命じた。教皇はアテナの意図を全く聞かされていなかったんですか」
ということだけ。
それに対する答えすらも、アテナは明るい笑い声で作ってみせてくれた。
「そう言うように、教皇に命じたのは私よ。障害があった方が、恋は燃え上がるというでしょ。あれは、ちょっとした刺激剤というか、恋の反応を早く大きくするための触媒。エッセンスのようなものよ。効果覿面だったでしょ。あなたは人類の存続と恋の間で苦悩して、瞬を思う心がますます燃え上がったのよね?」
「……」
「あなたならきっと、やり遂げてくれると思っていたわ」

生きているのが楽しくてならないと言わんばかりの笑顔で、アテナが白鳥座の聖闘士の完全な任務遂行を称えてくる。
『やり遂げた』と言っても、ただ瞬との恋に落ちたこと以外 どんなこともしていなかった氷河は、アテナの賞讃を素直に受けとめることはできなかった。
『それが聖闘士の仕事なのか』とアテナを問い詰めてやりたい気持ちはあったのだが、この女神は にっこり笑って『ええ、そうよ』と頷いてしまいかねない。
氷河は、そんな事態だけは避けたかったのである。
アテナの聖闘士の存在意義に、これ以上不信の念を抱かずにいるために。

氷河のそんな気持ちも知らず――彼女が気付いていないはずはないのだが――アテナの笑顔は一向に収まる気配を見せなかった。
「本当に、白鳥座の聖闘士って、清純派に弱いのね。知ってる? 白鳥って愛欲を象徴する鳥なのよ。なのに、あなたときたら……。ま、愛欲絡みのことも、ちゃっかり しっかりしてくれたようだけど」
「……!」

アテナの一か八かの無謀な賭けのおかげで、白鳥座の聖闘士が これ以上ないほど素晴らしい恋人を手に入れたのは事実だった。
人類の存亡がかかった重大な局面で、白鳥座の聖闘士が ちゃっかり しっかり愛欲絡みのことをしてのけたのも、紛う方なき事実。
へたにアテナの無謀を問い詰めることは、自らの立場を危うくすることにもなりかねない。
それがわかっているから、氷河は、アテナの無謀を非難したい気持ちを懸命に抑えたのである。
アテナの前で 異様にわざとらしい咳払いをしてから、氷河はさりげなく場の話題を変えた。

「瞬は、未だに手の平サイズの石を砕くこともできずにいるのですが、昨日、枯れかけていた花を蘇らせてみせました」
「まあ、素敵。私の聖闘士たちは、あなたもそうだけど、黄金聖闘士たちですら 物を壊す力にばかり長けていて、建設的な力はほとんど持っていないから……。瞬は、いずれ、あなたより強くなるかもしれなくてよ。あなたは今から尻に敷かれる覚悟をしておいた方がいいわね」
ああ言えば、こう言う。
この女性は、これから人類の存亡をかけた戦いが始まるのだということを本当にわかっているのだろうかと、氷河は疑うことになったのである。

もし聖域がハーデスに敗れるようなことになったら、神々を畏れ敬う人間はすべてハーデスの支配する国の住人になってしまう。
人間のいない世界で、神は神たりえないだろう。
畏れ敬う人間たちを失った神は、ただ消え去ることしかできないのだ。
それは、アテナといえど変わらない。
ハーデスと聖域の戦いは、人類の存亡をかけた戦いであると同時に、神々の存亡をかけた戦いでもあるのだ。
敵は、死と死の世界を支配する神なのである。

これからどんな戦いが繰り広げられることになるのかは誰にもわからない――おそらくは、アテナにもわかっていない。
そして、瞬は今はまだ、ハーデスと戦う決意をしたにすぎない。
もちろん、氷河は、瞬がたやすくハーデスに屈することはないと信じてはいたが、瞬が――そしてアテナが――必ず勝利するとは限らないのだ。

「氷河。あなた、死ねないわよ。あなたが死んだりしたら、瞬は生きる力を失う。それが この世界をどういうものにすることなのか、あなた、わかっているわね?」
「も……もちろんです……!」
アテナがやっと真面目な言葉を口にするのに、氷河は気を引き締め、アテナに頷いた。
そうして見上げた視線の先で、アテナはやはり瞳に笑みをたたえたままだった。
氷河は、仕方なく――ほとんどアテナの笑顔につられて、彼も笑い出してしまったのである。
神の御前ではあるので、とりあえず声は出さずに。

氷河は、この女性の笑顔を絶やさないことが、人類を生かし続けることであるような気がしてならなかった。
彼女に笑顔を与え、希望を与えるものは何なのかと考えると、それは他でもない、彼女が守ろうとしている人間たちなのだろう。
そして、この明るい女性からもらった希望で、瞬は生きる決意をし、瞬自身も明るくなった。
おそらく、その時、アテナも瞬に希望をもらったのだ。
彼女が守ろうとしている人間たちは、愛のために強くなれる存在なのだと確信できることが、女神の希望。

だから、今、アテナは、人類と自らの存亡がかかった戦いが始まろうとしている時だというのに、希望に満ちている。
だから、今、彼女は楽しくてたまらないのだ。
それは、アテナにとっても、人類にとっても良いこと――幸福なことであるに違いないと、氷河は思った。

「石にかじりついてでも、生き延びなさいね。死んでしまったら、あなたは、あなたの大好きな愛欲絡みのこともできなくなっちゃうんだから」
そういう余計な一言さえなかったら、自分はもっと この偉大な女神を尊敬できるのにと、氷河はそれだけが残念でならなかった。






Fin.






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