「誰もいなかっただろう。さっき、俺が見に行った時も誰もいなかったんだ」 瞬がオルガンのある小部屋を出て聖堂に戻ると、そこには氷河が一人いて、正面祭壇の奥にある十字架上のイエスを挑戦的な目で睨みつけていた。 瞬の気配に気付くと、険しい目付きを和らげて、瞬に尋ねてくる。 瞬が音楽室で演奏者の姿を見付けられないことを最初から知っていたような氷河の口調。 それで、瞬は、氷河が この偶然のからくりを知っていることを確信したのである。 氷河に泣きそうな目を向けてから、瞬は聖堂内に声を響かせた。 「沙織さん、いるんでしょう! 出てらしてください!」 瞬に名を呼ばれた沙織が、すぐに瞬たちの前に姿を現わさなかったのは、瞬への弁明を考える時間が彼女には必要だったから――のようだった。 瞬が思ってもいなかった方向――聖堂の正面扉――から、青空と陽光を背にして堂内に入ってきた沙織は、瞬に問い質される前に自分からぺらぺらと事情を説明し始めた――やましい気持ちを抱えている罪人のように。 「1時間ほど前に、氷河から、説得相手が教会の司祭様からブライダル会社の担当者に変わったと連絡を受けたの。それなら交渉は私がした方がいいと思って駆けつけたのよ。言ったら悪いけど、あなたたちは、ほんと頼りにならないから」 沙織の言い訳を、瞬は聞かなかった――無視した。 「あのオルガンを弾いていたのは沙織さんですね」 「え? 何のこと? 私はピアノ専門よ。オルガンってピアノとは演奏方法が かなり違うのよ。だから、私には――」 「音楽室に指輪をお忘れでした。弾く時に外して忘れたんでしょう」 「あ」 絡み合う3本の細いプラチナのリングの上に、小粒のピンクダイヤが幾つも散りばめられた指輪。 瞬が差し出した手の平に載っているそれを見て、沙織の笑顔が引きつる。 言い逃れることはできそうにないと悟るや、彼女は それ以上言葉を重ねるのをやめた。 そして、女神アテナのものでもなく グラード財団総帥のものでもない表情を、瞬に向けてくる。 それは、心優しく善良な、だが少々 迂闊な少女の顔だった。 「まさか、これまでの演奏は3回とも全部 沙織さんだったんですか? ここのオルガンを欲しいと言い出したのも、もしかしたら――」 「……最初の1回は違う」 瞬に答えを返してきたのは、沙織ではなく氷河だった。 「この教会のオルガンを欲しかったのは事実よ。十中八九無理だろうと思ってはいたけど」 氷河を この企みの首謀者にして、すべての責任を負わせるわけにはいかないと考えたのか、沙織が二人の間に割り込んでくる。 「最初に教会に行ってもらった時の報告を受けた時に、氷河がね、あなたがこの教会のオルガンのせいで、自分の恋が神の御心に沿わない恋だと落ち込んでしまったと、私を責めてきたの。それで、まあ、ちょっと責任を感じて――」 「沙織さんが責任を感じることは――」 「あ、もちろん、『すべての責任は私にある』なんてカッコいいことを言うつもりはないのよ。今日の最初の演奏は私じゃないもの。その予定だったのだけど、急用が入って、私は予定の時刻に間に合わなかったの。それで、星矢と紫龍が先回りして、オルガンの演奏ができる人を確保して、あなたたちが入るのを見計らって弾いてもらったの」 「星矢と紫龍が……?」 「沙織さん、ばらすなよー」 「瞬に知らせなければ、一度は奇跡が起こったことにしておけたのに……」 キリスト教は、現実社会からギリシャの神々を駆逐した宗教である。 因縁浅からぬ異教の神の家に沙織がいることだけでも、瞬には意想外の出来事だったというのに、そこに星矢と紫龍までが登場してきたことに、瞬はあっけにとられてしまったのである。 これは もはや、首謀者が誰なのかという事態でも問題でもない。 瞬以外の全員が、この計画を知り、この計画に加担していたのだ。 「偶然も3回重なったら、あなたも神の御心とやらを信じてくれるようになるかと思ったんだけど……私たちは失敗したのかしら」 沙織の言葉が、瞬の胸に突き刺さる。 同時に、それは、瞬の胸を温かく包み、満たしていった。 瞬の瞳を覆う涙も、今は 冷たい涙ではなく温かい涙。 アテナと仲間たちの前で、瞬は首を横に振った。 「会ったこともない神様が、僕を許してくれなくてもいい」 「瞬……」 「僕が信じてる神はアテナだもの。知らない神様が許してくれなくても、沙織さんや星矢たちが許してくれるのなら、それでいい。すみません。僕……一人で馬鹿なことで落ち込んで……」 本当に、なぜそんな馬鹿なことで落ち込んでいることができたのか。 今となっては、瞬は、それが不思議でならなかった。 本当に、不思議だった。 「知らない神様の心なんか、どうだっていい。星矢も紫龍もごめんね」 「いや、俺たちは何にもしてねーんだけどさー。氷河が、らしくもなく ヘコんでたからさー」 「氷河が……」 星矢の言葉で苦しげに眉根を寄せた瞬を認め、紫龍が星矢の脇腹に肘を食い込ませる。 低い呻き声を洩らした星矢を無視して、紫龍は瞬を見おろしてきた。 「俺たちに頼まれてオルガンを弾いてくれたのは、ここの若い助祭の一人なんだが、俺たちは彼に本当のことを話したんだ。俺たちがオルガンの演奏を聞かせてほしい二人の片割れは、どう見ても女の子に見えるが、実はれっきとした男子だと。それでも、彼は弾いてくれたぞ」 「あ……」 それは、瞬には思いがけない事実だった。 瞬は、自分の浅はかさに、本気で声をあげて泣き出したくなってしまったのである。 この世界に存在する自分以外の人間は 誰もが優しい心しか持っていないのではないかという考えに囚われて。 自分だけが愚かで、自分だけが思い遣りの心を備えていない人間であるような気がして。 「ごめんなさい……。僕は、もしかしたら、知らない神様の心も気にしてなかったのかもしれない。自分が悲しいってことにばっかり気をとられて、誰の気持ちも考えてなかった。僕は――」 「氷河ならともかく、おまえに限って、それはないだろ」 「そうだな。おまえは むしろ、自分のことより氷河のことを考えすぎたんだ。おまえが犯した最大の過ちは氷河なんかを好きになったことだろう。 仲間に言いたいことを言われても、氷河は まるで こたえていないようだった。 嬉しそうなわけではないが、怒っているようにも見えない。 氷河がなぜそんなふうなのかが、瞬には今ではわかっていた。 氷河は、口の悪い仲間たちの友情を信じており、彼自身の心より 彼の浅はかな恋人の心の方を気にかけてくれているのだ。 浅はかな恋人の心が負った傷が癒えるなら それでいいと、彼は思っている。 「ありがとう。僕、オルガンなんて鳴らなくてもいいの。氷河がいてくれたら――みんながいてくれたら。僕が好きなのはオルガンなんかじゃないし、知らない神様でもない。僕が好きなのは氷河だもの」 自分の傷心だけに意識を奪われていた瞬が 忘れかけていた事実を思い出し、本来の心に立ち返った時だった。 伝説のオルガンの音が四たび 聖堂内に響き渡り始めたのは。 「これは誰の仕業だよ」 「私じゃないわよ」 言われなくても、それはわかった。 自分には“知らない神”より大事な仲間がいて、“知らない神”より好きな人がいる。 瞬が その事実を思い出した途端に またしても始まった、知らない神の家での4度目の奇跡。 これは異教の神の嫌味か、警告か、それとも もしかしたら祝福なのか。 知らない神の心を量りかねて、瞬は 2、3度、瞬きを繰り返すことになった。 そんな瞬に、星矢が大様な笑顔を向けてくる。 「神様のいたずらなんだろ。いいじゃん、それで」 「いや、これはむしろ、沙織さんに、ここのオルガンを手に入れるのを諦めろという、よその神様からの警告かもしれないぞ」 「ああ、そうかもしれないなー。いや、それ以外考えられない」 「わかりましたってば。オルガンは別のところから手に入れることにするわ」 女神を遠慮なく責めてくる聖闘士たちに、沙織が口をとがらせ、大袈裟に肩をすくめる。 そうしてから、彼女は、光速の早業で、心優しく迂闊な一人の少女から グラード財団総帥に変身してみせた。 「ご迷惑をおかけしました。あなたの神様への慰謝料も兼ねて、後日 たっぷりと喜捨をさせていただきますわ」 突如 その場に出現したグラード財団総帥は、瞬に『知らない神様なんか』を連発されて言葉を失っていたらしい司祭に、完璧な笑顔で謝罪した。 そこに司祭がいることに気付いた瞬は、自分の暴言を思い出し、いたたまれない気持ちになったのである。 が、瞬の隣りに立つ(一応クリスチャンの)氷河は、至って平然、泰然自若。 こんな不遜な信徒も 信徒として認めているというのなら、この教会の真の主である神も 実はアテナに勝るとも劣らないほど広い心の持ち主なのかもしれないと、瞬は胸中で思ったのだった。 誰が弾いているのかわからないオルガンの音色を聞きながら、そうして、アテナとアテナの聖闘士たちは“よその神様”の家を出たのである。 そこには、どんな神を信じる者をも同じように見守る青い空があり、どんな神を信じる者にも同じように降り注ぐ秋の やわらかい陽射しが、世界中に響き渡る祝婚歌のように満ちあふれていた。 Fin.
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