氷河は右手で脇腹を抑えながら、自分の足で自室のバスルームに一時退場した。
「骨折の治療より風呂を優先する男ってのも、なかなかいないよな」
「まあ、満身創痍の男は瞬に近寄ることも許されるが、不潔な男に その権利はないと思っているんだろう、氷河は」
氷河が元の氷河に戻ったことで、星矢と紫龍は気楽な歓談に興じる余裕を取り戻すことができたらしい。
だが、瞬はそうはいかなかった。

「これはいったい どういうことなの! 星矢、紫龍、知っているんでしょう。説明して!」
険しい顔をした瞬に――だが、その瞳には まだ涙が残っている――面詰されて、星矢と紫龍は慌てて 緩み始めていた彼等の心身に緊張感を復活させたのである。
そうして彼等が語り始めた“事の経緯”は、瞬を再び唖然とさせるものだった。

「沙織さんがさ、人間と機械、人間と人間の間で言葉を使わずに情報伝達し合う技術が開発されつつあるって言ってただろ。おまえの猫がおまえのベッドに入り込んでるって話を聞いた氷河が怒り心頭に発してさ、その機械を使って、おまえに馴れ馴れしくするなって、猫を脅迫しようとしたんだよ。でも、もともと それって 人間と動物用の機械じゃなかったし、そもそもまだろくに実験も済んでない試作品だったから――いや、ほんとの原因はよくわかんねーんだけど、とにかく、その機械のせいで、氷河の精神と猫の精神が入れ替わっちまったんだ」
「せ……精神が入れ替わった……?」
それは到底信じられない話だったが、その信じられない話を語る星矢の目は至って真剣。
星矢は、その到底信じられない話を、真顔で瞬に語っていた。

「俺たちも驚いたんだ。猫に本気で腹を立てているだけでも氷河はまともではないと思っていたのに、突然 氷河が 『ふぎゃー』だの『ぎゃおー』だのと訳のわからない声をあげ始めて――。それまで氷河の攻撃的な小宇宙にナーバスになっていた猫は憑き物でも落ちたように静かになって――」
「あの時すぐに、もう一度機械を作動させてれば、元に戻れてたかもしれないんだけどさ。氷河の奴、猫の姿のままでいれば、おまえのベッドに潜り込めるとか何とか、しょーもないことを考えたんだな、多分」
「うまくすれば、おまえの入浴シーンも見れるかもしれないと思った。多分」
「そ……そんなものを見て、何になるの」
「俺は氷河じゃねーから、んなこと、わかんねーよ」

確かに、それは、氷河にしかわからないことだろう。
なにしろ、瞬自身にもわからないことなのだから。
わからないことを話し合うことは時間の無駄と考えたのか、紫龍が その後の“氷河”を語り始める。
「堂々と おまえのベッドに潜り込めることに感激した氷河が 元の身体に戻りたがらないでいる間に、グラードのラボの一室に拘禁された猫の氷河は、着々と自分の心と氷河の身体を親和させていった。猫の氷河も、冷酷な人間に抵抗する力さえ持たない非力な猫の身体には戻りたくなかったんだろう」

「それは……でも、それは、悪いのは人間だよね? この子じゃないよね?」
冷酷な人間に抵抗する力さえ持たない非力な猫に戻った“この子”は、今は瞬の膝の上で大人しくしている。
「……そうだな」
紫龍は、瞬の言葉に頷いた。

「夕べ、氷河が俺の部屋に来て、やっと 元の人間の身体に戻りたい素振りを見せたから、俺たちは、グラードのラボから人間の身体をした猫の氷河を連れてきた」
「ラボの部屋に閉じ込められてる間、こいつはずっと大人しくしてたんだぜ。そりゃあ、中身は猫なわけだし、急に おまえから引き離されたせいで、かなり神経質になってたけど。なのに、今日、猫になってる氷河と顔を合わせた途端、急にあんなに凶暴になっちまったんだ」

星矢は、人間の姿をした猫の氷河の豹変の訳が、今でもわかっていないらしい。
紫龍は、だが、猫の考えを 漠然と――確かなところは人間の誰にもわからないことなのだが――察することができていたようだった。
「それは つまり――この猫には、人間に痛めつけられた記憶が残っていた。元の非力な猫には戻りたくなかった。だから、人間になろうとしたんじゃないだろうか。自分の元の身体をなくせば、元の猫に戻らなくてよくなると考えたのではないかと、俺は思う」
「まさか……猫がそんなこと――」
「心は猫でも、脳は人間の脳だったんだ。それくらいのことは考えたかもしれん」
「でも……でも、それだって、この子が悪いんじゃない」
「ああ、もちろん そうだ」
「悪いのは人間だろ。特に、どっかの助平男」

猫の氷河は――否、猫のシロは――、つい先程までの荒ぶる気持ちをすっかり忘れてしまったかのように、今は その身体を丸めて瞬の膝の上で静かに眠っている。
瞬の側にいられるのなら――彼を守ってくれる人の側にいられるのなら――自分は猫でもいいと、彼は思っているのかもしれなかった。
星矢も紫龍も、この猫を責め咎める考えは全くないらしい。
瞬は そんな仲間たちの態度に安堵して――それから、猫が人間の気持ちを窺う時のような上目使いで、仲間たちに尋ねていったのである。

「あの……人間に戻った氷河には、猫でいた時の記憶があるの?」
「あの様子だと憶えてそうだったけど、なんで?」
「それは、あの……」
星矢に問い返された瞬の表情が、ますます猫めいてくる。
そうしてから、瞬は、意を決したように、だが、消え入るように小さな声で、氷河に憶えていられては困る事情を、仲間たちに打ち明けたのだった。
「僕、猫の氷河に、人間の氷河が好きだって何度も言っちゃったんだ……」
「そりゃ また何とも……あー、いや、それはなんだな」

人間の言葉を解さぬ猫への呟きのつもりだったものが、当人への直接の告白になっていた。
それは果たして 良いことなのか悪いことなのか。
コメントに困った星矢の横で、牡羊座の黄金聖闘士は 表情らしい表情のない顔で浅く頷いた。
「憶えているでしょうね。だから、キグナスは猫でいることの役得を諦めても、人間の身体に戻りたいと思ったのでしょうし」
おそらく、ムウの推察は正しい。
冷静極まりないムウの見解に、瞬は、頬だけでなく耳まで真っ赤に染めて 顔を伏せることになったのである。

起こってしまったことの是非を事後に思い煩うことは無駄。そんなことをする暇があったら、起こってしまったことを良いことに変える努力をした方がいいに決まっている――という考えの星矢は、そんな瞬を彼らしい言葉で慰め励まそうとし始めた。
「まー、改まって仰々しく告白する手間が省けたと思えばいいじゃないか。脳波でテレビのスイッチ入れたり、車椅子を動かしたりするのもいいけどさ、人間には言葉ってもんがあるんだから、さっさと氷河に『好きだ』って言って、風呂場を覗かせてやって、ベッドに潜り込むのも許してやってれば、こんなことにはならなかったんだよ。最初から言葉で『好きだ』って伝えておけば、氷河だって こんなことはしなかった」
「うん……」
「いや、瞬を責めるのは酷だろう。言うべきことを言わずにいたのは氷河も同じなんだし、諸悪の根源は、どう考えても氷河の助平根性だ」
「それは言うまでもないことだぜ!」
と、星矢がきっぱり断言した時だった。
平生の2倍の時間を費やして さっぱりした諸悪の根源が、仲間たちの許に1ヶ月振りに戻ってきたのは。

「はー。生き返った」
諸悪の根源には 自分が諸悪の根源だった自覚がないのか、悪びれた様子が全くない。
それどころか、氷河は、今 この地上に自分ほど満ち足りた人間はいないと確信している者の顔をしていた。
「おまえ、骨が折れてるんじゃなかったのかよ」
「肋骨が2、3本程度だ。かすり傷と同じだな。骨より、顔の傷の方がよっぽど痛い。湯がしみて――瞬に見せる必要がないのなら、完治するまで顔を洗いたくないくらいだ」
「なんだ、肋骨か。てっきり、肩か腰の骨を折ったんだと思ってたのに。心配して損した」

「……」
実に聖闘士らしい感覚によって為される、実に聖闘士らしい やりとり。
肋骨が数本折れたくらいのことでは修理の必要もないらしい聖闘士の肉体に、紫龍は苦笑いすることになった。
聖衣の修繕師でもある牡羊座の黄金聖闘士は、聖衣の中身がどうなろうと そんなことは管轄外のことと言わんばかりに、無感動無表情のていを崩さずにいる。
が、瞬は、そうはいかなかった。
今この時を 苦笑や無表情でやり過ごすことは、瞬には許されていなかったのである。

「氷河……。あの……あのね……」
どうせ氷河には知られてしまっている。
今更 恥ずかしがっても仕様がない。
そう 自分に言いきかせながら、瞬は、猫の身体の中にいた氷河に語ったことを、人間の姿をした氷河に、人間にだけ使うことのできる言葉というツールを用いて、もう一度はっきりと伝えようとした。
しかし、今 この場で その作業を行なうべきなのは瞬ではないと、氷河は思っていたらしい。
『瞬にもう一度 その言葉を言われてしまう前に』と氷河が考えたのかどうかは定かではないが、ともかく、彼は、瞬の言葉を遮るようにして、瞬に彼の心を告白してきたのである。
というより、彼は、瞬に要求してきた。

「瞬。俺はおまえが好きなんだ。人間に戻っても、これまで通り、おまえのベッドで寝ていいか」
「え……あ……あの……はい……」
「できれば、風呂場の見学も続けたい。あんな絶景、世界のどこに行っても お目にかかれないぞ。ユネスコの世界自然遺産に登録したいくらいだ」
「あの、でも、それは……あの……はい」
氷河に そう断言されても、自分の入浴の様子のどこがどう絶景なのかは、瞬には全く わからなかった。
わからなかったが、それでも、瞬は氷河に頷いた。

「よかった」
瞬の返事を聞いた氷河が、ほっと安堵したような微笑を その目許に浮かべる。
彼は、そうしてから、瞬の膝の上の猫に視線を落とし、もう一人の氷河だった者の気持ちを瞬に知らせてきた。
「その図々しい奴も、おまえを好きだと言っていた」
「え?」
「言っていたというか――そういう感じが、俺の中に残っているだけなんだが……。おまえから引き離されて、心細くてパニックを起こし、自棄になったらしい。そいつは何も悪くない。すべては俺のせいだ。すまん」
シロにとも瞬にともなく、氷河が頭を下げてみせる。
人間の氷河がシロを憎んだり責めたりしないのであれば、瞬は何も言うことはなかった。
『悪いのは この子じゃない』ことを、“この子”に殺意を向けられた氷河が 理解し、認めてくれていさえするならば。

「氷河の顔、傷だらけだよ」
瞳から一粒だけ零れ落ちた涙を拭って、瞬が氷河に微笑を向ける。
「これは天罰だ」
氷河は 神妙かつ傷だらけの顔で、自身の非を認めることをした。
「そんなことは――」
「ただ、滅茶苦茶 痛むのは事実だから――あとで舐めてくれ」

「舐めてくれだぁ !? 氷河、おまえ、なに図々しいこと言ってんだよ!」
「まったく、貴様は 猫より恥を知らない男だな」
天罰すらも助平心で利用しようとする氷河に、星矢たちは呆れてしまったのだが、瞬は氷河の求めに戸惑った様子も見せず、あっさり応じてしまったのである。
「氷河がそうしてほしいのなら舐めてあげるよ。シロちゃんとふたりで、念入りに」
という言葉で。

「……」
瞬は、他意なく優しい気持ちだけで そう言っているのか、それとも、その言葉には やはり幾許かの皮肉が込められているのか。
瞳に涙を浮かべ、無邪気で賢い猫のように微笑む瞬の真意を読み切れず、氷河は 傷だらけの顔を思いきり歪めたのだった。






Fin.






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