「あの……訊いてもいい? 僕は、どんなふうに死ぬの?」 「死なせて たまるかっ!」 瞬は、自らを卑下し罵倒する大人の氷河を苦しませたくなかったから、氷河のことではなく自分のことを尋ねてみたのだが、それは 自らの愚かさや弱さを嘆く彼の心を慰めることにはならなかったらしい。 彼が再び、アンドロメダ島の夕暮れの浜に怒声を響かせる。 その声は、これまでの怒声とは何かが少し違っていた。 自らの愚かさを罵倒する怒声とは異なり、“瞬”の死を断固として拒絶する彼の声には苦しげで切なげな何かが にじんでいる。 瞬は、“氷河”にそんな声を生ませるものを、憎まずにはいられなかったのである。 だが、“子供”の瞬には、そんな彼の心を慰め力づけることのできる言葉の一つも思いつけなかった。 自分の無力が悲しくて、瞬は その顔を伏せてしまったのである。 大人の氷河に出会うまでは不安を煽る意地悪な囁きにしか聞こえなかった波の音が、今は、切なげに我が身の悲しさを訴えているような気がしてならなかった。 「今、俺は氷の棺の中にいる」 そんな悲しい切なげな波の音の合間を縫うようにして、ふいに 氷河の低い声が瞬の許に届けられる。 「え?」 瞬が 弾かれるように 顔をあげたのは、このまま切ない波の音に同化して消えてしまうように思えていた氷河が、何はともあれ口をきいてくれたから。 彼の言葉の意味を理解したからではなかった。 というより、彼の告げた言葉の意味は 瞬には全く理解できないものだった。 「氷の棺?」 「そう……氷の棺――いや、氷の棺から出たところだ。俺の身体は冷えきっていて、おまえは俺を温めている。小宇宙を全開にして――おまえの中にある生命力を俺に与えることで、おまえは俺を蘇らせようとしている。だが、俺はほとんど死んでいて、どれほど大きな力をもらっても生き返ることはできそうにない。おまえには、もうすぐ限界が訪れる。おまえは、このままだと 多分死ぬ」 「氷の棺って、どんなもの? 氷河はどうして そんなものの中に入れられたの?」 「氷の棺は氷の棺だ。俺が その中に閉じ込められることになったのは、俺が馬鹿で弱かったからだ」 氷河は自分の言葉を噛みしめるように――瞬に語るというより、自身に言い聞かせるように――そう言った。 大声で怒鳴っていた時より今 はるかに、彼は自分の愚かさと弱さを憎んでいるようだった。 「おまえたちは――おまえや星矢たちは、アテナのため、自分の信じる正義のために必死に戦っているのに、俺は勝手に自分だけが戦うことを諦めて、一人だけ死んで楽になろうとしたんだ。俺は、弱くて卑怯で、どうしようもなく愚かな男だ。おまえは、そんな俺を生き返らせようとして、おまえの命を削っている。俺には、おまえの命をもらえるような、そんな価値なんか これっぽっちもないのに」 「価値がない……?」 「そうだ。俺は おまえに救ってもらうに値しない男だ。だから、俺は、おまえが聖闘士にならなければ、あんなことにはならないだろうと思って――せめて、俺が命をかけて救うほどの価値のない男だということを知っていれば、おまえは あんなことはしないだろうと考えて――」 だから、彼は ここに来たというのだろうか。 彼の泣き虫の仲間が聖闘士になる前の、夕暮れのアンドロメダ島の浜辺に。 彼の泣き虫の仲間に、『聖闘士にならなければ、仲間のために命をかけなくてよくなるのだ』と教えるために。 彼の泣き虫の仲間に、『おまえが救おうとしている男には何の価値もないのだ』と告げるために。 それは もちろん、仲間に対する彼なりの思い遣り、あるいは、仲間を自分の死に付き合わせたくないという切実な願いから出たことなのだろう。 瞬には、だが、大人の氷河が子供の自分にしようとしていることは、それこそ自分勝手で独りよがりなことのように思えてならなかったのである。 「僕が命をかけるだけの価値が氷河にあるかどうかを決めるのは、氷河じゃなくて、僕だと思うけど……」 「なに?」 瞬の幾度目かの口答えに、氷河が僅かに眉をひそめる。 『大人に向かって口答えをするな!』と怒鳴られるかと思い、瞬は びくりと身体を震わせた。 そして、彼の怒声から我が身を守るために、小さく身体を縮こまらせる。 瞬のその用心は、だが、無用のものだった。 大人の氷河は、瞬を怒鳴りつけたりはしなかった。 代わりに、まじまじと、彼よりずっと背の低い子供の顔を見おろし、見詰めてくる。 「あの……ど……どうか……?」 瞬が恐る恐る尋ねると、彼は はっと我にかえったような表情になり、そして、短く一つ溜め息をついた。 「おまえ、こんな小さな頃から……実は、頭がよかったんだな。いつも泣いてばかりいるから、気付かなかった。可愛いだけで あまり物を考えない子なんだろうと――いや、その……花のように綺麗だから 花のように無心なのだろうと、勝手に決めつけていた」 「え……」 『女の子のようだ』と言われることには慣れていたが、『花のよう』と言われることは初めてで、瞬は少し どぎまぎしてしまったのである。 もしかしたら それは、『女の子のよう』という言葉より侮辱的な言葉なのかもしれないと思ったし、それどころか『女の子より女の子のよう』と言われているも同然のことなのかもしれないとも思ったのだが、瞬はなぜか 彼の言葉に腹立ちを覚えることはなかった。 むしろ瞬は、大人が子供に気を遣って失言をごまかそうとしていることへの驚きに支配されてしまったのである。 そんな大人がいることに。 瞬は、そんな大人に会ったことがなかったから。 そんなふうな大人の態度に驚いていた瞬に、彼は更に 瞬を驚かせることを言い出した。 彼は、瞬に、 「だが、だとしたら なおさら、俺は、俺なんかのために おまえが死ぬことには耐えられない。俺はおまえが好きなんだ」 と、真面目な顔で告白してきたのだ。 それは あまりに思いがけない告白だった――というより、自分が彼に何を言われたのかを咄嗟に理解することができず、瞬は きょとんとすることになった。 そんな瞬の様子を認めた大人の氷河が、少しく慌てたように、彼の告白を訂正してくる。 「もちろん、今のおまえをじゃないぞ。今のおまえにそんな気持ちを抱いていたら、俺は幼児趣味の変態野郎だ。俺は、7年後のおまえを──いや、たった今 俺なんかの命を救おうとして、俺を温めてくれている瞬を──俺は、ついさっきおまえを好きになったんだ。7年後のおまえを、その……特別な意味で好きになった。死んでほしくない。生きていてほしい。どうあっても。俺が死んでも、おまえにだけは――俺は、おまえにだけは生きていてほしいんだ……!」 「あ……」 彼は冗談を言っているようには見えなかった。 嘘を言っているようにも見えない。 そもそも そんな嘘をついても、彼には何の益もない。 今の瞬は、どんな力も持っていない一人の哀れな子供にすぎないのだ。 そういう現況が示しているのは、つまり、彼の言葉は冗談でも嘘でもない――ということ。 「あ……あの……僕……」 『今のおまえをじゃない』と言われても、瞬は、他人の顔で 彼の言葉を聞き流すことはできなかった。 心臓というものは こんなに大きな音を響かせて動くものだったのかと当惑せずにいられないほど、胸が激しく高鳴る。 多分 今 自分の顔は真っ赤になっていると、瞬は思った。 正面から人に『好きだ』と言われること自体、生まれて初めての経験だというのに、今 瞬に そんな告白をしてくれているのは“ちゃんとした”大人なのである。 ちゃんとした大人のひとが、これ以上ないほど真剣な目をして、『おまえが好きだ』と小さな子供に言ってくれているのだ。 非力で小さな子供でも――非力で小さな子供だからこそ――瞬は、驚き ときめかないわけにはいかなかった。 「ひょ……氷河は今 死にかけていて、でも、僕に死んでほしくなくて、それで こんなところまで――7年も昔にまでやってきてくれたの? ぼ……僕のために?」 人がそうまでしてくれるほどの人間に 自分はなれるのだ――。 それは 今の瞬には容易に信じることができないほど大きな感動で、そして、希望だった。 氷河が、縦にとも横にともなく 瞬に首を振る。 「なぜここに来れたのかはわからない。なぜ7年前なのかもわからない。だが、気がつくと俺はここにいた――瞬」 「は……はい……」 「俺はろくでもない奴だ。自分から戦いを放棄し、生きることを諦めて、死ぬことになった。それはいいんだ。俺には生きている価値もない。だが、おまえを 俺の愚かさの巻き添えにはできない──そんなことは絶対に したくない!」 「ぼ……僕……あの……」 瞬に『生きていてくれ』と訴える氷河の声は、ますます熱を帯びてくる。 瞬は、頭がくらくらして、倒れてしまいそうだった。 高鳴っている心臓が、そのまま止まってしまいそうだった。 彼の願いなら、どんなことでも叶えてやりたいとも思った。 それが『俺のために命をかけるな』という願いでさえなければ。 『俺のために命をかけてくれ』という願いでさえあったなら。 目眩いは治まりそうにない。 瞬は、自分が倒れてしまわないために、必死に別のことを考えようとしたのである。 必死の思いで、持てる力のすべてを振り絞って、瞬は何とか声を発することができた。 「ひょ……がは7年も未来から、ここに来たんでしょう? そうすることで、人は人の運命を変えることができるの?」 「変えられるはずだ。少なくとも、今 俺を温めてくれている瞬は、今こうして俺に会うことはなかったはず。俺に命をかけるだけの価値がないことを知らないから、瞬は、俺のために あんなことをしてくれているんだ。だが、俺が今 ここに来たことによって、おまえは俺が無価値な ただの馬鹿だということを知った──」 大人の氷河はそう言うが、瞬が今 知ったのは、氷河が無価値で馬鹿な人間だということではなかった。 瞬が今 知ったのは、今から7年後、自分の側には これほど自分を愛し思い遣ってくれる人がいる――ということ。 そして、その人が、今から7年後のある日 死に瀕する――ということだけだった。 「僕……未来の僕は、氷河が自分のことを そんなふうに思ってるってことを知ってるのかもしれないよ。今、大人になった氷河を温めている僕も、7年前に、ここで氷河に会ったのかもしれない」 「まさか……。もし そうだとしたら、瞬があんなことをするわけがない」 そうだとしたら―― 瞬には、そうとしか思えなかった。 おそらく、7年後の自分は 7年後の氷河の心を知っているのだ――と。 「もし そうなんだとしたら、僕は きっと死なないと思うの。死んだら、氷河を悲しませるってわかってるんだから。7年後の僕は、きっと、死ぬためにそんなことをしてるんじゃないと思う。生きるためにそうしてるんだと思う。氷河が自分の弱さを後悔していることを知っているから、今知ったから、生き延びてくれれば、氷河は必ず強くなってくれるはずだって信じて、7年後の僕は──」 「俺がここに来たことは逆効果だったというわけか……?」 苦しそうに、大人の氷河が言う。 氷河を苦しめるようなことはしたくなかったが、瞬は彼に頷かないわけにはいかなかった。 頷いて、大人の氷河に懸命に訴える。 「死なない! 僕は絶対に死なないよ。氷河も絶対に死なせないから――氷河は元のところに戻って――僕のところに戻って」 「瞬……」 「僕たちは絶対に死なないから!」 自分でも驚くほど強い口調で断言して、そして、瞬は、気付いたのである。 7年後の氷河が自分に本当に知らせてくれたことは何なのか――不安に押し潰され生きる気力を失いかけていた子供に、彼が与えてくれたものは何なのかを。 「……ありがとう。僕、氷河から希望をもらった。僕は生きて日本に帰れるんだ。僕は聖闘士になれるんだ。僕は、7年後には氷河を助けてあげられるくらい強い僕になれてるんだ……! ありがとう! 僕、嬉しい!」 「瞬……」 涙のせいで視界がぼやける。 嬉しさのせいで涙が生まれることもあるのだと、瞬は大人の氷河によって 初めて知らされた。 瞬のぼやけた視界の中で、大人の氷河が少し苦しげな目になる。 彼は、それから、ゆっくりと瞬の前に片膝をつき、二人の視線の高さを同じにした。 大人の氷河の右の手が、瞬の左の頬に触れる。 遠い未来で 今 死にかけているはずの彼の手は、不思議なことに とても温かかった。 こんなに大きく温かい手を持っている人が死ぬはずがないと、瞬は思ったのである。 この人は きっと死なないと思った途端に、大人の氷河が瞬の頬にキスをしてくる。 とくとくと小刻みな鼓動を刻んでいた瞬の心臓は、大きく跳ね上がった。 どきどきしながら――そして、恐る恐る、瞬が大人の氷河の顔を覗き込むと、彼は 恐いほど真剣な目で――そして、ひどく切なげな色の瞳で、瞬をまっすぐに見詰めていた。 「俺はおまえが好きなんだ。おまえのためになら、俺こそが死んでもいいと思っている。忘れないでくれ」 今はどんな力も持たない小さな子供に 大人のひとが、そんなことを、おそらく本気で懇願している。 瞬は、彼に言うべき言葉を見付けることができなかった。 代わりに、きつく唇を引き結んで、深く頷く。 瞬の首肯を見て、氷河は初めて やわらかな微笑を瞬に見せてくれた。 「目を閉じて」 言われた通りに、目を閉じる。 唇に、氷河の唇が触れた――と、瞬は思った。 時が止まり、世界から すべての音が消える。 本当に大人の氷河が 非力で幼い子供の唇にキスを残していったのか――。 それが実際にあったことなのか、それとも二人のキスは錯覚にすぎなかったのかは、瞬にはわからなかった。 どこかに消えてしまっていた波の音が再び聞こえ始めたことで我にかえった瞬が、ゆっくりと閉じていた目を開けた時、大人の氷河の姿は既に そこにはなかったから。 昼は気温が50度をこす灼熱の島、夜は零下数10度にまで下がる極寒の島。 美しい名前とは裏腹の地獄の島。 だが、そんなアンドロメダ島の夜は、真の闇に包まれることはなかった。 たった今 ここで起きたことは夢だったのか、それとも それは現実にあったことだったのか――その答えを求めて 瞬が沖を眺めているうちに、夕暮れの色に紛れていた 明るい月が海上に姿を現わし、辺りを照らし出す。 島を包む海は、昼とは違う幻想的な光で我が身を飾り始めていた。 月の光と、夜光虫の発する光。 この島と この島を見守る海と空は奇跡のように美しい。 瞬は、その夜、心からそう思ったのである。 |