『鍛えれば強くなれる』『氷河に勝つこともできるようになる』と瞬に言われて、俺は島を出ることにした。 氷河は、『聖闘士になるための修行に取りかかるには、俺の歳では遅すぎる』とか何とか言っていたが、奴は、瞬の関心が自分以外の人間に向けられるのが嫌で、事実と違うことを言っているに違いない。 瞬が俺に『氷河に勝つこともできるようになる』と言ったのが、よほど気に入らなかったんだろう。 氷河の言葉が事実だったとしても、それならそれでいいんだ。俺は。 瞬を、瞬の側で見守っていることができさえすれば。 そして、瞬が俺のために耐えてきた つらさや悲しみを 少しでも癒してやることができたなら――俺は それだけでいい。 俺が島を出る日。 驚いたことに、島の馬鹿者共が、揃って俺を見送りに来てくれた。 「厳しい監視役がいなくなると、羽目を外したくなりそうな気がして困る」 と、萎れた様子で ぼやく馬鹿者共に、俺は、 「今度は貴様等が、監督する側になれ」 と、活を入れた。 そして、この島の未来も捨てたものではないかもしれないと思いながら、瞬と共に 本土に向かう船に乗り込んだ。 (氷河も乗り込んできたようだったが、そんなことは俺には関係のないことだ) エメラルド色のエーゲ海。 抜けるように青く晴れ渡った空。 船の甲板で、死の女王の島が小さくなっていく様を眺めながら、俺は、胸が詰まるような気持ちを味わっていた。 島の馬鹿者共は それなりに可愛かったし、何より、あの島には俺のエスメラルダが眠っている。 エスメラルダと過ごした思い出のある島を、今 俺は離れようとしているんだ――。 「寂しいですか」 俺は、らしくもなく感傷的な顔をしていたのかもしれない。 瞬が心配そうな目をして尋ねてくるから、俺は急いで“ちっとも寂しくない”ポーズをとった。 「せっかく、好みのタイプだと思っていたのに、まさか妹だったとはな」 瞬の気を引き立たせるために、わざと戯れ言を口にする。 その戯れ言を聞いて笑ってくれると思っていたのに、瞬は、途端に困ったような目をして、俺の顔を見上げてきた。 そして、言った。 「あの……ずっと気になっていたんですけど……。僕、男です。兄さんの弟です」 「な……なにぃ〜っ !? 」 感傷も懐旧の情も吹き飛ばす、衝撃の告白。 俺は、エメラルド色の海の上に、間の抜けた素頓狂な大声を響かせた。 「し……しかし、おまえは あの金髪男と寝ていると――いや、その昵懇の仲なのだと……」 俺に そのことを知られているとは思っていなかったのか、瞬が、兄の前で ぽっと頬を染め、それから瞼を伏せて もじもじし始める。 そんな可愛い仕草を見せる弟(!)を、俺は まじまじと見おろし、見詰めることになった。 つまり、なにか? あの金髪の大馬鹿野郎は、男のくせに、俺の そんなことが――そんなことがあっていいのか? 俺は、瞬を妹だと思っていたから、男がいても、兄に口出しする権利はないんだと自分に言いきかせ、あの金髪男を殴り倒したいのを必死に我慢していたのに! なのに、瞬は、俺の弟だった。 妹ではなかった。 その衝撃の事実を知った時、もしかしたら俺は胸中で快哉をあげていたかもしれない。 これで、氷河をぶちのめすための大義名分が俺のものになったと。 エスメラルダ――。 俺が守りたかった唯ひとりの少女。俺の良心。命の支え。 エスメラルダを失った時、あの島は、俺にとって本当に死の女王の島になった。 俺は、絶望の島に生きているのだと信じていた。 もはや二度と、生きるための希望や光に出会うことはないのだと、一人で決めつけて生きていたんだ。 だが、人生というやつは、何が起こるかわからない。 いつ、どこで、何に出会うかわからない。 失うものも多いだろうが――人間ってのは、もともと我が身一つで この世に生まれてくるものだ。 何かを得ることができたから、人は失うこともできるのだろう。 それが人生というものなんだ。 大切なものを失って絶望しかけていた俺は、俺が守るべき人に再び出会った。 そして、俺が倒すべき敵を見付けた。 人間の生きる目的として、これ以上のものがあるだろうか。 愛と憎しみ。 その二つ以上に、人間の心を生かし、燃え立たせるものがあるだろうか。 ――多分、ない。 そして、俺は今、その二つに出会ったんだ。 俺の素晴らしい生きる目的に。 エスメラルダ。 いつかは、俺もおまえのいるところに行くだろう。 その時まで――俺が俺の命をうまく生きていけるよう、俺を見守っていてくれ。 Fin.
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