それは、いつも通りの、よくある“出張”だったんだ。
北の方に不穏な動きがあるから、探ってくるように。
アテナにそう言われて、氷河は単身シベリアに乗り込んだ。
瞬を安全圏に置くのは、奴にしてみれば“考えるまでもない当然のこと”だったから、瞬を日本に残して、奴ひとりで。

そして、氷河は帰ってこなかった。
沙織さんは手を尽くして捜してくれたし、もちろん 俺たちも すぐさまシベリアに飛んで氷河の行方を捜しまわった。
氷河の聖衣は、奴が聖闘士になるための修行をしてた頃に暮らしてた家の中に、着用された気配もなく聖衣ボックスごと残されていて、それが俺たちの不安を掻きたてた。
その不安を振り払うようにして、俺たちは氷河の姿を捜し求めたんだ。
1ヶ月間、それこそシベリア中の雪や氷を全部掘り返すみたいにして。

氷河と戦ったらしい敵たちの残党を見付け、倒し、そいつらを追及したけど、そいつらも氷河の“遺体”がどこに行ったのかは知らないと言った。
そいつらに吐かせた言葉を頼りに俺たちが向かった先で 俺たちが見付けられたのは、氷河が奴等と戦った場所に残っていた、氷河のものとおぼしき大量の血で黒ずんだ雪と氷だけ。
黒ずんだ雪――それは、半端な量じゃなかった。
氷河の血が雪に染み込み、拡散し、それが 実際に流れた量より多量に見せているのだとしても、一人の人間が失血死に至るには十分すぎるほどの血が そこで流されたことは確実。
だが、氷河の姿――おそらく遺体になっているだろう氷河の身体――は、どこにも見当たらなかった。
仲間の死を信じたくなかった俺たちは、沙織さんに頼んで、そこに残っていた血のDNA鑑定までしてもらったんだ。
結果は、氷河の死を確信するしかないものだったけど。

それでも、俺たちは諦めなかった。
沙織さんが日本にいる時は護衛が必要だから 日本に戻ったけど、沙織さんがギリシャに行っている時にはみんなで、あるいは交代で、俺たちは何度もシベリアに飛んだ。
たとえば、氷河の亡骸が獣に食い散らかされたのだとしても、それならそれで その場には 何らかの痕跡が――骨とか衣類の切れ端とかが残っているはずだろう。
なのに、氷河の亡骸(のかけら)は見付からない。
それが、俺たちの唯一の希望だった。
誰かに助けられて どこかの村に運ばれ、そこで動けずにいるんじゃないかと考えて、あちこちの集落に赴いて聞き込みもした。
それこそ、シベリア中の村や町に足を運んださ。

そんなことを1年くらい続けた。
1年――。
それは、氷河が どれほどの大怪我をしていたとしても、生きているのなら連絡が入ってきていい時間だ。
俺と紫龍は諦めかけてたけど、瞬は――瞬だけは諦めなかった。
その頃には、俺と紫龍は、氷河を見付けるためっていうより、瞬が絶望して 良くないことをしてしまわないよう見張るために、交代で瞬の氷河捜索に付き添うようになっていた。

何十回目のシベリア行きだったか――。
例によって瞬を見張るために、瞬と一緒に、俺は北の大地に飛んだ。
そこは、これまでにも幾度か訪れたことのある村で――その日は、祭りが催されていたんだ。
祭りって言っても、ごくささやかなものだ。
まだ村の周囲には雪が残ってたけど、春の訪れを祝う祭りで、村の中心にある広場に花で飾られた祭壇みたいなのが作られてて、その周囲では若い男女が踊ったり歌ったりしてて、歳のいった大人たちは 例によって昼間っから機嫌よさそうにウオッカをあおっていた。
ささやかな祭りだけど、でも、近隣の村からも見物人や参加者が結構 来てたんじゃないかな。
前に来た時よりは、村の中に随分人が多いって感じたから。

その村に入った時、俺は何十回目かの無駄足を予感してて、祭りに興じてる奴等の明るさが、瞬の心をかえって暗くしちまうんじゃないかと案じてたんだけど、それは俺の杞憂だった。
瞬は、祭りの中心になってる広場に集まってきてる奴等の中に氷河の姿を求めて、あちこちに懸命に視線を走らせて――しまいには、明るい表情で浮かれてる連中の中で、声に出して氷河の名を呼びながら、その名の持ち主を捜し始めた。
「氷河、どこ」
「氷河、いるなら出てきて」
ってさ。

俺は、なんか……そんな瞬が悲しくてたまらなくなった。
そして、『そんなに必死になって捜しても無駄だ』って、瞬を怒鳴りつけてやりたくなった。
『もし生きてるなら、氷河が おまえを放っぽって、こんなところで祭りに浮かれてるはずないだろう!』って。
「瞬、こっちに来い!」
俺は悲しくて、腹が立って、でも、だからって瞬を絶望させるようなことを わめきたてるわけにもいかなかったから、瞬の腕を掴んで、祭りに浮かれ騒いでいる奴等の群から外れたところに瞬を引っ張っていった。
そして、そこで、俺は瞬に訊いちまったんだ。
氷河が俺たちの前から姿を消して1年。
この1年間、どうしても瞬に訊けずにいたことを。

「瞬。おまえ、そんなに氷河が好きだったのか」
瞬は――瞬は、答えなかった。
俺が訊いたことには。
代わりに、わざわざ訊かなくても俺が知ってることを口にした。
すごく、力のこもっていない声で。
「……僕、氷河に、永遠に氷河を好きでいるって、何度も誓ったの」
「そんな誓い、氷河が――」

その言葉を口にするのはためらわれた。
でも、もう俺も限界だったんだ――もう耐えられなかった。
ほんとは そんなに氷河を好きじゃなかった瞬が、氷河との約束に縛られて こんなに悲しいことを続けているのを見てることに。
だから、俺は、腹をくくって言ってやったんだ。
「そんな誓い、氷河がいなくなっちまったら、無効だろ!」
って。

瞬は、多分、俺が そう言うことがわかってた。
氷河はもういないんだって、俺が言うこと。
わかっていたから、俺の言葉に動じた様子も見せずに、静かに俺に答えることができたんだ。
「永遠って、そういうものじゃないでしょう」
と。
それはそうかもしれねーけど。
それはそうかもしれないけど、今の瞬は その誓いの言葉に・・・縛られてるだけだろ。
言葉に縛られて、でも、心は氷河の上にない。

どうしても その死を受け入れられないくらい瞬が氷河を好きだったっていうのなら、今も好きだっていうのなら、俺だって、永遠に瞬の氷河捜索に付き合ってやってもいいさ。
けど、事実はそうじゃない。
瞬は、最初から、ただ氷河の強引さに逆らえなかっただけだった。
自分を必要としてくれる人間を突き離してしまえなかっただけだったんだ。
氷河が生きてる間なら、それでも よかったさ。
それで氷河は幸せでいられて、瞬も 生きようって気持ちになれてた。
瞬が氷河との誓いを守ることは、いい方向に作用してた。

でも、今は違う。
瞬が氷河との誓いを守ることに固執して、いったい、今 誰が幸せになれるっていうんだ?
誰に、どんな益がある?
みんなが不幸になるだけだ。
瞬だけじゃなく、瞬の仲間たちも沙織さんも――瞬と氷河を知っている すべての人間が。

死んでも瞬を独り占めできて、氷河は本望なのかもしれない。
氷河が望んでた通り、瞬は今も氷河に縛りつけられている。
もしかしたら、その誓い通り 永遠に、瞬は氷河に縛りつけられたままでいるのかもしれない。
氷河は、でも、本当にこんなことを望んでいたのか?
氷河が、こんな瞬を――涙も流さず、乾いた目で、何かに憑かれて自分の心を失った人形みたいに、氷河を捜しまわって、その命と時間を費やすことを?
本当に、これが氷河の望みだったのか?
今の――今の瞬の こんな姿を見て、氷河は土の下で満足して笑ってるのか?
だとしたら、氷河はもう 俺の仲間でも何でもねーぞ!

俺が いくら憤っても、それは無意味で無駄なこと。
瞬を永遠の誓いの呪縛から解き放つことができるのは氷河だけ。
そして、その氷河はもういない。
奴は、無責任にも、瞬を残して死んじまった。
俺は――瞬を本当に好きでなかったのは、氷河の方だったんじゃないかと、思い始めていた。
氷河が本当に瞬を好きだったなら、氷河は 瞬を亡霊に縛りつけるようなことはしなかったはずだって、そう 思い始めていたんだ。

氷河との誓いに縛られて身動きできずにいる瞬と、そんな瞬を自由にしてやれないことに歯噛みしている俺。
そんな俺たちを無言で見詰めている男が、多分、そこにはいた。






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