ミラクとサダルがアテナに従う形で教皇の間に足を踏み入れた時、謁見時に使う教皇の玉座に、当の教皇の姿はなかった。
ミラクとサダルが ほっと安堵の胸を撫でおろした数秒後、玉座の背後の緞帳の陰から、ほとんど全身を覆い隠す純白の長衣を身にまとった人物が姿を現わす。
「アテナ。お呼びくだされば、こちらの方から出向きましたのに」
表情のない仮面の向こうから洩れ聞こえてくる声は ひどく くぐもっていて、その声音から 彼の人となりを窺い知ることはできない。
それでも、対峙する相手が女神アテナとあって、教皇の言葉と態度は 極めて へりくだったものだった。
ミラクとサダルは、教皇はこんなに穏やかな印象の人間だったろうかと、まず訝ったのである。

ミラクとサダルは、教皇と直接対面したことは、これまでに ただ一度しかなかった。
初めて聖域に来た時に、教皇の玉座を見上げる場所から、ほとんど その存在を仰ぎ見るような立ち位置で、一度 声をかけてもらったことがあるだけである。
その時の教皇の印象は、尊大で居丈高。
周囲の空気を張り詰めさせるような彼の威厳に、ミラクとサダルは、氷でできたナイフを突きつけられているような緊張感を覚えたものだった。

もちろん、聖域の実質的統治者である教皇といえど、アテナの前で尊大な態度をとることはできないだろうが、それにしても 今日の教皇には あの時のような威圧的な印象がない。
では、今日の教皇は冷徹モードではなく温厚モードなのか。二重人格の“神のように慈悲深い”面が表に出ている教皇なのか。それにしても、この印象の違いは何なのだろう――?
ミラクとサダルは、二重人格という噂のある教皇の、まるで別人のような二つの印象の間で ひどく戸惑うことになった。
今日の教皇が温厚モードだからといって、彼が恐くないわけではない。
むしろ彼の印象の極端な相違が不気味で、この無謀の首謀者であるミラクは、教皇の姿を認めた瞬間から全身を強張らせ、隣りに立つサダルの手首を すがるように握りしめていた。

そんな二人を背後に従え、アテナが教皇に今日の来訪の目的を告げる。
「あなたの方から出向いてもらうなんて、そんなわけにはいかないわ。私は今日は教皇にお願いがあって来たのだから」
「お願い……? アテナがですか?」
「ええ。実はね。教皇、あなた方の聖衣を譲り受けたいと、この二人が申し出てきたのよ。それで、どうしたものか相談しようと思って」
ミラクは自分の無謀に怯えて、萎縮しきっている。
アテナの言葉の奇異に気付いたのは、サダルの方だった。

「あなた?」
それはいったいどういうことなのかと、サダルが眉をひそめた時だった。
教皇の玉座の背後の緞帳の陰から、もう一人の教皇が姿を現わしたのは。

純白の長衣と重たそうな金細工の肩当て。
二人の教皇は、その身にまとっている衣装は同じだったが、同じなのは 身に着けている衣装だけだった。
より正確に言うなら、同じなのは衣装のデザインだけだった。
少し遅れてミラクとサダルの前に現われた教皇は、最初に姿を現わした教皇より背が高く、それに比例して、最初の教皇より体格がひとまわり大きく、その上、仮面をつけていなかったのだ。
金色の髪と青い瞳。
サダルが想像していた教皇の実像より はるかに若い。
ただ、聖闘士未満の二人を見おろす その眼差しだけが、サダルの想像通りに 冷たく冴えていた。

言葉もなく二人の教皇の前に立ち尽くしている聖闘士未満の二人に、アテナが改めて、聖域の実質的統治者である人物を紹介してくれる。
「紹介するわね。こちらがアンドロメダ座の聖闘士の瞬。そちらの目付きの悪いのが、白鳥座の聖闘士の氷河」
畏れ多くも女神アテナに紹介の労をとらせた教皇の片割れ――目付きの悪い、派手な見てくれの男――は、アテナに礼も言わずに、サダルをじろりとめつけた。
そして、不機嫌そうな声で言った。

「こいつは、俺の聖衣を身につけるには、地味すぎる。そっちの生意気そうなガキは、瞬の聖衣を身につけるには可愛げが足りなさすぎだ」
「氷河、そんな言い方って……」
温厚モードの教皇が、冷徹モードの教皇をたしなめる。
金髪の教皇は、だが、彼の発言を撤回する素振りは見せなかった。

「アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士が教皇――」
つまり、そういうことらしい。
独り言のように、驚愕の事実を呟いたサダルの視線の先で、最初にこの場に姿を現わした教皇が その顔を覆っていた仮面を取る。
仮面の下から現われたのは、金髪の教皇とは造作も印象も全く違う、どこの女の子かと思うほど優しい眼差しの持ち主――そう形容することが許されるのなら、少女のように可愛らしい面差しの持ち主だった。

どう考えても、同一人物を装うのは無理がありすぎる二人。
しかし、その“無理”を、この二人は、この聖域で押し通していたらしい。
サダルは――そして、ミラクも――二人の教皇の前で、ひたすら呆けていることしかできなかった。
「ど……同一人物を装うには、少し……いや、かなり……」
サダルが言わんとするところを汲みとって、温厚モードの教皇――アンドロメダ座の聖闘士――が、短い嘆息を洩らし、同時に両の肩を落とす。
「前触れもなく突然来られてしまったから、僕、肩パットを入れる時間も、上げ底靴を履く余裕もなくて――。アナテ。今度から客人を連れてくる時には、事前に連絡をください」
アンドロメダ座の聖闘士に責められたアテナが、軽く肩をすくめる。
この驚くべき秘密を本気で隠し通そうとする気概が、アテナにはないようだった。

教皇(の一人)が肩パット。その上、上げ底靴。
体格も印象も その身にまとう空気の温度さえ違うような二人の人間が同一人物を装おうとしたら、そういう小道具は必須のものなのだろうが、それにしても教皇が肩パットというのは、冗談としか思えない話である。
肩パットをつける時間がなかったと訴える教皇は、驚き呆れている聖闘士未満の二人を にこやかに見詰めてきた。
そして、教皇たち・・の聖衣を手に入れるために この場にやってきた聖闘士未満の二人の少年に、笑いながら尋ねてくる。

「星矢と紫龍から話は聞いてるよ。戦い方が僕と氷河に似た有望な少年がいるって、星矢たち、嬉しそうに言ってた。性格は、僕と氷河を反対にしたみたいだって言ってたけど、そうなの? ミラクくんは氷河みたいに優しいの?」
「いえ……あの……それは――」
いったい、その質問にどう答えろというのか。
直接尋ねてきた瞬ではなく、その背後に立つ もう一人の教皇の据わりきった目が恐くて、ミラクは全身を縮こまらせた。
驚愕の大事実から先に立ち直ったのはサダルの方で、それは彼が 氷河ではなく瞬の方に意識を向けていたからだったかもしれない。
対峙する人間を緊張させる冷徹モードの教皇と違い、温厚モードの教皇の眼差しや仕草は、対峙する人間の気持ちを和らげ落ち着かせるものだったのだ。

とはいえ、人をリラックスさせる力に長けた教皇が続けて告げた言葉には、さすがのミラクも――もちろん、サダルも――度肝を抜かれることになったのだが。
少女のような面差しをたたえた温厚モードの教皇は、まるで他愛のない世間話をするような気軽さで、
「でも、どうして僕たちの聖衣なの? 僕たちは、君たちにはいずれ 水瓶座の聖衣と乙女座の聖衣を預けることができるのじゃないかと、期待していたのだけど」
と、ミラクとサダルに言ってきたのだ。

「み……水瓶座の聖衣と乙女座の聖衣? ご……黄金聖衣じゃないですか!」
どもりながら問い返したサダルに、温厚モードの教皇が首をかしげて尋ねてくる。
「不足?」
「そ……そんなことはないですけど……でも、先生たちが青銅聖衣なのに、俺たちが黄金聖衣なんて――」
「地味な奴や可愛げのない奴は、黄金聖衣のきんきらきんで欠点をカバーする必要があるんだ。でないと、敵に見くびられる」
傲岸に そう言い放つ男に比べれば 自分が地味な外見をしていることは、サダル当人も認めざるを得ない事実だった。
親しみやすい印象の温厚モードの教皇に比べれば、ミラクが可愛らしさで完全に負けていることも――もちろん、サダルは言葉にはしなかったが――事実と認めざるを得ない事実である。

その事実を事実と認めることには、ミラクもやぶさかではないようだった。
実際、ミラクはその事実を事実として認めたようだった。
その上で、
「僕は、可愛げを養うために聖域に来たんじゃないんだ! 地味だの可愛げがないだの、言いたいことを言ってくれるけど、見た目で聖衣を決めるわけじゃないんだろ!」
と教皇に噛みついていくところが、ミラクのミラクたる ゆえんである。
サダルは慌ててミラクの脇腹を小突いたのだが、一度 口を衝いて出てしまった言葉は、取り消しがきかない。
あれほど聖衣を手に入れることに執念を燃やしていたミラクが、こんなことで その機会を失うことになる事態を――ミラクらしいといえばミラクらしいのだが――サダルは避けたかった。

「あ……ミラクは、あまりの光栄に 少し気が動転してて――」
サダルはすぐにミラクの失言を打ち消そうとしたのだが、幸い、サダルの気遣いは不要のものだった。
二人の教皇は、それぞれの見地から、ミラクとサダルには乙女座の黄金聖衣と水瓶座の黄金聖衣が適当だと考えてくれていたのだ。
「本当に可愛くない。乙女座の聖衣あたりがぴったりだ」
「以前の水瓶座の黄金聖衣の持ち主は、とても情が深くて優しい人だったの。水瓶座の聖衣は、きっとサダルくんの心を守ってくれるよ。僕と氷河の聖衣は、星矢や紫龍の聖衣同様、癖があって他の者には扱いにくい聖衣だから――黄金聖衣の方が、きっと色々と楽だと思うの」
「あの……じゃあ、本当に俺たちに黄金聖衣を――」

聖闘士になりたいという思いが募って 自分は夢を見ているのではないかとさえ、サダルは思った。
詰まらぬ失言で聖衣を手に入れ損なうという危機(?)を免れることのできたミラクも、サダルの横で ぽかんと毒気の抜けた顔をしている。
そんな二人に、瞬は やわらかく頷いてくれた。
「ごめんね。アンドロメダの聖衣とキグナスの聖衣は渡せないの。僕たち、これでも現役だから」
「い……いえ、そんなことは――教皇が謝るようなことでは――」
「あ、その“教皇”のことだけど、教皇の正体は 一応秘密ということになってるから、このことは誰にも言わないでいてくれる?」
「それは、教皇のご命令なら、決して――。でも、あの、俺たちの先生にも……?」
「星矢と紫龍はもちろん知ってるよ。というより、僕と氷河は、この役を君たちの先生たちに押しつけられたようなものなんだ。ね、星矢、紫龍」

聖闘士になれる――それどころか、永遠に自分の手で触れることさえできないだろうと思っていた黄金聖衣を 我が身にまとうことができる――。
夢の世界を漂っているような錯覚さえ覚えていたミラクとサダルは、温厚モードの教皇が口にした彼等の師の名を聞くや、突然 恐ろしい現実世界に引き戻されてしまったのである。
二人が恐る恐る後ろを振り返ると、そこには、口許を大きく歪めて激昂の表情を隠そうともしていない天馬座の青銅聖闘士と、静かに深く怒りの炎を燃やしているような龍座の青銅聖闘士が立っていた。
師たちの姿を認めて、ミラクとサダルは身体の芯から震え上がってしまったのである。






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