互いの無事を喜び抱き合う、若く美しい恋人たち。 それは、見ようによっては 非常に感動的な光景だった。 だが、傲慢なのか卑屈なのか わからない氷河の振舞いに呆れ果てていた氷河の仲間たちには、それはむしろ強烈な疲労感と苛立ちを 同時にもたらすものだったのである。 「瞬が無事で、おまえに五感が戻ったのはよかったけどさ! 氷河、おまえにはプライドってもんはないのかよ! アテナならともかく、他の女神に媚びへつらって、あんな歯の浮くようなお世辞を並べ立てて――」 星矢の非難は実に理に適った、極めて常識的なものだったろう。 しかし、氷河には氷河の理と常識があり、それは星矢の信じる理と常識とは完全に異なるものだったのである。 「瞬の身を守るためなら、プライドも命も捨てるぞ、俺は」 「自分の身を守るためにも、プライドを捨てることができていたら、最初から こんな面倒なことにはならなかったのに」 それができないのが、氷河のプライドの微妙なところ。 一個の人間としての氷河のプライドと、瞬の恋人としての氷河のプライドは、その内容が全く違うもののようだった。 「俺がどうなろうと、そんなこと知るか。俺は、瞬さえ無事でいてくれるのなら、それでいいんだ」 氷河のその考え方を、愛他主義というのか、利他主義というのか。あるいは、それは逆に利己主義と呼ぶべきものなのか。 星矢にも紫龍にも その判断はつかなかった。 二人は氷河の本性本質など理解したいとも思わなかった。 だが、そんな星矢たちにも わかることが ただ一つだけあったのである。 それは、自分のためではなく愛する人のためにプライドを捨てることのできる氷河は、“そんなことも わからない”孤高の女神より はるかに幸せな男なのだということ。 この世に氷河ほど幸福で幸運な男はいないということ。 それだけは、氷河という とんでもない男の存在すら認めたくない星矢と紫龍にも 認めないわけにはいかない事実だった。 月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスは、彼女の崇拝者との約束を守った。 身の程を知る慎み深い正直者のために、彼女は氷河のボロ家を一晩で 総大理石の壮麗な館に建て変えてくれたのだ。 聖域の外れで土地が余っていたせいもあり、それは無駄に大きく広く、黄金聖闘士たちの宮が余裕で3つは収まりそうな、とんでもない規模の宮殿だった。 『こんな立派なところには住めない』と尻込みする瞬に、慎み深い氷河は、『ただの石の掘っ立て小屋だ。使わない部屋は物置にすればいい』と慎み深く言い放ち、宮殿内の最も立派な部屋を二人の寝室に決めてしまったのだった。 聖域の外れに突如 壮麗な宮殿が突如出現した経緯を、星矢たちから聞いた聖域の者たちは、 『真に慎み深く正直な人間が、必ずしも その美徳に報いられるとは限らない。人が幸運を掴むには、機転と、度胸と、あつかましいほどの図太さと、愛と、そして“無恥”の美徳が必要なのだ』 という、実に有難い教訓を得ることになったのだった。 いずれにしても、聖域に住まう者たちが、それまで以上に彼等の女神アテナを敬い称えるようになったのは、紛れもない事実である。 少なくとも、知恵と戦いの女神アテナは、月の女神と違って、恥知らずの美徳を備えた男に分不相応な恵みを与えるという愚行を犯さない賢明な女神なのである。 その一事だけをとっても、アテナが偉大な女神だということは疑いを入れない厳然たる事実だった。 もっとも、氷河のおかげで、聖域の住人たちから以前以上の尊敬を受けることになったアテナは、それからしばらくの間、 「言っておきますけど、パリスの審判で私が最も美しい女神として名乗りをあげたのは、ゼウスに そうしてくれと泣きつかれたからだったのよ。アフロディーテとヘラの一騎打ちでヘラが負けたら、神々の女王としての彼女の威信に傷がつく。それで妻のヘラのヒステリーが激しくなったら、ゼウスはますます妻に縛りつけられ、自由を失うことになる。でも、一緒に負けた者がいたら、ヘラはその不満を、彼女の夫だけでなく私にも零すことができるでしょう。美の女神と美で争うなんて愚行を、知恵の女神である私がするはずがないでしょう。そんなこともわからない者が私の聖闘士だなんて!」 と、氷河に嫌味を繰り返してくれたのだが。 アテナと顔を合わせるたび、『そんなこともわからない者が私の聖闘士だなんて!』と ちくちく嫌味を言われ続けても、氷河はもちろん世界で最も幸運かつ幸福な男であり続けたのである。 氷河の隣りにはいつも、真に慎み深く正直な人間であるところの 心優しい恋人がいてくれたので。 Fin.
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