「氷河……? どうしたの?」 「あ……いや……」 瞬に問われて初めて、氷河は自分の無作法を自覚したらしい。 室内をぐるりと見回してから、氷河は、不思議なものを見るような目で、彼の仲間の顔を見詰めてきた。 「今、何かの気配が――」 「気配? 誰かの小宇宙?」 「――と感じた」 「……」 もし氷河の感じた何者かの小宇宙がハーデスのものであったらとしたら、それは考えようによっては、瞬にとっては大変な朗報だった。 氷河がアンドロメダ座の聖闘士の小宇宙とは別のものとして それを感じたということは、瞬が認知しているハーデスの気配や言葉は アンドロメダ座の聖闘士の狂気が生み出した幻想ではないということなのだから。 それは、アンドロメダ座の聖闘士が狂気に陥り、ハーデスが今でも存在していると思い込んでいるのではない ということの証左になることなのだから。 だが、もしハーデスの意思が本当にここにあるのだとしたら、瞬は その事実を氷河に知られるわけにはいかなかったのである。 氷河に事実を知られるのは恐かった。 すべての人間の“敵”であるものの言葉を、自分が毎夜 拒みもせずに聞いているということを、仲間に知られることは。 だから、瞬は、素知らぬ顔をして、氷河に問い返したのである。 「敵の? 攻撃的な?」 「そんなふうではなかったが、ただ、ひどく嫌な感じの」 「嫌な感じ?」 それはそうだろうと、瞬は思った。 氷河が感じたものがハーデスの意思であったなら、それが彼にとって快いものであるはずがない。 そして、氷河は、そんな絶望に囚われる人間ではない。 「本当に誰も――何もいなかったのか? おまえは何も感じなかったのか」 「うん」 瞬は、可能な限り自然に、できるだけ さりげなく、氷河にこくりと頷いた。 そんな瞬を見て、氷河が独り言のように呟く。 「……俺が おまえのことを気にしすぎているだけか……」 氷河は そう呟いてから軽く首を左右に振り、おそらく 礼に適っていない自らの深夜の来訪を、瞬に詫びようとした。 瞬は、だが、彼が口にしようとした謝罪の言葉を遮ったのである。 氷河は謝罪などする必要はないのだと思ったからではなく――彼の独り言めいた呟きに気持ちを捕らわれたから。 「僕のこと……気にかけてくれてるの」 「え……? あ、いや、俺はただ……」 氷河は、自分の呟きを否定しようとした――おそらく、なかったことにしようとした。 だが、結局、彼は そうしてしまわずに――考え直したように、その青い瞳が作る視線を 瞬の上に据えた。 数秒のためらいのあと、思いきったように口を開く。 「おまえは……冥界での戦いのあと、変わった。と思う」 「変わった? どういうふうに?」 「……ハーデスに乗っ取られたような」 「ハーデスはアテナに封印されたよ。彼はもう、僕の身体を支配することはできない」 「身体は自由にできなくても、心を侵食することはできるだろう」 「心を?」 「間違った考えで」 「間違った考え? 氷河は、ハーデスの考えを間違っていると思うの?」 「あたりまえだ」 こともなげに、氷河が首肯する。 あまりに こともなげなので、瞬は暫時、氷河は平和の実現について真剣に考えたことがないのではないかと疑いさえした。 アテナの聖闘士が その問題を考えたことがないはずはないというのに。 実際、氷河は、その問題を考えたことがあったようだった。 瞬とは全く異なる、彼の視点をもって。 「地上を争いで満たし、醜悪にしたのは人間だ。それを神が掃除しようというのは間違っている。責任は人間にとらせるべきだ。奴がそれを許さないのは、人間の意思や理性や判断力を認めていないということだろう。子供が散らかした部屋を親が片付けるようなものだ」 「氷河は――人間は理性や正しい判断力を備えていると思っているの?」 「備えているとは言わん。だが、備えようと努力はしている。それを親がすべてやってしまったら、子供は自立できない。判断力を養うこともできず、俺のような馬鹿になる」 「氷河は自立心も知性も判断力も備えているよ」 「ははははは」 氷河が室内に乾いた笑い声を響かせる。 氷河は本当に――謙遜ではなく、本心から――自分にそんな能力は備わっていないと考えているようだった。 瞬にはそれは意外なことだったのである。 本当に、意外なことだった。 「氷河は自立心も知性も判断力も備えているよ」 瞬は首を横に振り、もう一度 同じ言葉を瞬に告げた。 『迷ってばかりいる僕とは違って』と、続く言葉を言ってしまわなかったのは、氷河に その事実を知らせて、彼に心配をかけたくなかったから。 この迷いは、自分だけの力で振り払ってしまわなければならないことなのだと思っていたからだった。 それが自分ひとりの力で成し遂げられることなのかどうかということは、この際 問題ではない。 瞬は、そう思っていた。 「その上、氷河のここには」 氷河の胸に、瞬は人差し指の先で触れた。 触れた指先から、この胸の内にあるものが自分の中に伝わり流れてきてくれたらいいのに――と、思いながら。 「希望もあるんだね」 「瞬……」 『おまえには ないのか、希望が?』 氷河が、言葉ではなく視線で仲間に問うてくる。 瞬は、彼に答えを返すことができなかった。 『ある』と答えれば、それは嘘になってしまうような気がしたから。 まるでハーデスのように、瞬は氷河の前で沈黙した。 そんな瞬を、氷河が気遣わしげに見おろしてくる。 「瞬。俺たちは仲間だな?」 「うん」 「悩み事があるのなら、一人で解決しようとするな。一人で耐えようとか、そんな不毛なことは考えないで、俺たちに頼れ。せめて、相談してくれ。甘えてほしいんだ」 「人間は自立心を養わなければならないんでしょう? 仲間だからって、甘やかしちゃだめだよ」 「おまえはそれくらいでちょうどいいんだ。この地上に生きている人間が おまえひとりしかいないというのならともかく、この世界に人間があふれかえっているのは何のためだと思っている。互いに支え合って生きていくためだぞ」 『この地上に生きている人間が おまえひとりしかいないというのならともかく』 『この世界に人間があふれかえっているのは何のためだと』 氷河が語る言葉の前提にある世界は、ハーデスが実現しようとしている清浄な平和とは真逆の姿をした世界だった。 同じように平和を望んでいるはずの二人の、この考え方の違いは何なのだろうと、瞬は訝ったのである。 “違い”というより、二人の考えは全く別のものだった。 そして、 なのに、素直にそうできない自分は 人間としてどこかおかしいのだろうか――と。 迷いが表情に出てしまったらしい。 氷河が、やはり気遣わしげに、指だけで瞬の頬に触れてくる。 そうして彼は、それまでより僅かに音量を落とし、低い声で瞬に告げてきた。 「瞬、俺は――俺たちは、おまえが好きなんだ。それを忘れないでくれ」 「僕を好き?」 「ああ」 「好きって、どういうこと?」 瞬が氷河に問い返したことに他意はなかった。 もちろん、彼の言葉を疑ったわけでもない。 瞬には本当にわからなかったのである。 地上の平和という同じ目的をもって戦う者たちの間にある“好き”という感情は、どういうものであるのかが。 それは、憎んでいないということなのか、憎しみ合ってはならないということなのか、互いに忌避し合わず力を合わせなければならないということなのか、目的の実現のために協力し合うことに やぶさかではないという意味なのか――。 氷河が懸念していた通り、アンドロメダ座の聖闘士が その心をハーデスの考えに侵食されかけていたことに、瞬は その時初めて気付いた。 自分が考えていた内容とは全く意味合いの違う氷河の“好き”の内容を知らされて。 「おまえが泣いていると悲しいし、おまえが苦しんでいたら、俺も苦しい。おまえが悩んでいたら、その悩みを解決してやりたいと思うということだ」 と、氷河は答えてきたのだ。 氷河の“好き”には、そもそも 憎しみや義務感に類する概念が全く含まれていなかった。 今の瞬には、それは ちょっとした――否、非常に大きな驚きだった。 氷河の答えに戸惑い、重ねて問うてみる。 「僕が消えたら?」 「探すだろう」 「僕が、終わりの見えない絶望的な戦いを続けるより、地上が滅んでしまった方がいいと考えていたら?」 「そんな、希望を持てずにいる老人のようなことは考えるなと言う」 「じゃあ、僕が氷河を裏切ったら」 「おまえはそんなことはしない」 「それは氷河の個人的な希望だね」 「そうだ。これは俺の勝手な希望だ」 それは希望――“勝手な期待”という意味での希望にすぎないと、氷河が認める。 彼がその事実を認めたことに、瞬は全く不快の念を抱かなかった。 それはつまり、そうなってほしいと願っているから、そうなるに決まっていると、氷河が明るい未来を軽々に信じているわけではないということ。 人間は、それが命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士であっても裏切ることがあるという可能性を認めた上で、氷河が その希望を抱いているということ。 氷河の言葉が軽はずみな言葉ではないということだった。 彼は何とアテナの聖闘士らしいのだろうと、瞬はほとんど憧憬に似た思いで思ったのである。 希望と友情と信頼――これこそアテナの聖闘士があるべき姿なのだろうと。 「僕が死んだら?」 「……俺も死んでしまうだろう」 「えっ……?」 初めて、氷河から納得のできない答えが返ってくる。 もはや自分は――もはや自分だけが――アテナの聖闘士たる資格を失ってしまっているのではないかという不安にかられていた瞬は、瞳を見開いて氷河の顔を見上げた。 「そ……そんなの、アテナの聖闘士にあるまじきことだよ。星矢や紫龍ならきっと、僕の分も戦い続けるって言ってくれるよ」 「それが奴等の“好き”だからだ」 「氷河の“好き”は違うの」 「そうだ」 氷河の瞳はふざけているようには見えなかった。 冗談を言っているようにも、ましてや何も考えず無思慮に そんなことを言っているようにも見えない。 氷河の青い瞳は至って真面目で冷静で――否、彼の瞳は、氷が燃えているような不思議な熱をたたえていた。 一度、瞬の心臓が とくんと大きく震える。 そのまま瞬の鼓動は速く大きく強くなっていった。 「あの……」 どきどきと高鳴る胸を、頬が上気するほど強く意識しながら、瞬は声を――何か言おうとした。 何を言えばいいのかがわからなくて、結局 瞬は そのまま顔を伏せることになってしまったのだが。 これは、氷河にとっても予定外の告白で、氷河は、さすがに今すぐに瞬から答えを手に入れようとは考えていなかったらしい。 何も答えられずにいる瞬に、彼は何も求めてはこなかった。 長く細く吐息したあとに、 「いいか、何かあったら、必ず俺 と言っただけで。 「う……うん」 戸惑いから抜け出すことのできぬまま、それでも瞬は素直な気持ちで氷河に頷いた――頷くことができてしまった。 気遣わしげな氷河の『おやすみ』。 氷河が部屋から出ていっても、瞬は不思議にひとりになった気がしなかった。 胸の中が温かく――まだ 熱いというほどではなかったが――つい数十分前までは確かにあった、死の国の空気のような冷たさは、そこには既にない。 これまで夜だけでなく日中も感じていたハーデスの気配も、今はない。 氷河の『好き』は『憎んでいない』ではない。 氷河の『好き』は、星矢の『好き』とも紫龍の『好き』とも違う。 眠らなければと思い、実際 瞬はベッドの中に その身体を潜り込ませたのだが、氷河の言葉を思い返し、氷河の瞳の様を思い出すだけで 心臓が活発な活動を始め、瞬はなかなか眠りの中に落ちていくことができなかった。 氷河を悲しませたくないから、消えてしまえない。 絶望できない。 裏切ることはできない。 死ねない。 今は素直に そう思えてしまう。 人が生きる理由など こんなものなのだと思うほどに――こんなに単純なことだったのだと思うほどに――胸が弾み、楽しくなってくる。 (僕って、馬鹿みたいに単純な人間だったんだ……) 目を閉じても、すぐそこにある希望の姿が見えるような気がする。 白く温かく明るいそれ。 決して大きくはないのに、誰にも何者にも消し去ることのできない力をたたえた それ。 それを身近に感じられることが嬉しくて、瞬は、遠足の前日の子供のように いつまでも眠りに就くことができなかったのである。 希望を抱きしめている子供のように、一度 眠りの中に落ちてしまうと、その眠りは憂いなく深いものになったが。 |