ハーデスの気配が消えたことは、氷河にも感じとれたようだった。
確かめて心を安んじたいが、確かめる術がない。
だからなのだろう。
氷河は、瞬の前に立ち、仲間の目を覗き込んできた。
その目を伏せかけて――だが、そうするべきではないと考え直し、瞬は 氷河の視線を正面から受け止めることをしたのである。

「ごめんね。氷河。心配かけて、迷惑かけて。僕が――ハーデスじゃなく 僕が、潔くなかったの。ハーデスの言葉を退けられなかった。僕には それも――ハーデスの言葉も、一つの希望だったから」
「希望だったのか? 冥府の王の言葉が?」
不完全な人間という存在を受け入れようとせず、絶望と滅びをしか見ない神の言葉が 希望でもあった――。
瞬の その気持ちは、氷河には解せないものだったのだろう。
瞬は、怪訝そうな顔をする氷河に 微かに頷いた。

「氷河に 本当の希望を教えてもらうまで、そう思っていたの。ハーデスの言う やり方でしか、平和を実現することはできないのかもしれないって」
「本当の希望?」
「僕がそう感じたの。僕は、氷河と同じ希望を持って生きていたいって。きっと、その方が楽しいって」
「……」
瞬はどういうつもりで そんなことを言っているのか。
自分が自立心、知性、判断力を備えていないだけでなく、清らかさもない人間だということを自覚しているらしい氷河は、少なからず瞬の言葉に戸惑い迷うことになったようだった。
少々 気後れの色をたたえて、彼らしくなく、卑屈めいたことを尋ねてくる。

「……俺は、ハーデスが言っていた通り、浅ましい欲望を持った、ただの人間だぞ」
「僕もだよ」
「そ……そうなのか?」
「そうだよ」
いったい氷河は、彼の仲間をどういうものだと思っていたのか。
瞬が あっさりそうだ・・・と認めると、彼はひどく驚いたような顔になった。

「それは何というか……」
「それは何というか?」
上目使いに瞬が氷河の顔を覗き込むと、そこには既に驚きの色はなく、ただ希望をたたえた嬉しそうな笑顔があるばかりだった。
「それは実に素敵な事実だ」

それぞれの人間が それぞれに抱えている 様々な欲望。
瞬は、それこそが“完全な平和”を実現できない不幸の源だと考えていた。
自分もまた、そんな欲望を持った人間の一人であると認めざるを得ないことを、悲しいことだと思っていた。
瞬の嘆きと自己卑下の主原因だったことを、『素敵な事実』と言う氷河。

この人と共にいれば、生きることは楽しく、自分がこの世界に人間として生まれてきたことを喜ばしく思うこともできるに違いない。
そう信じられるから、瞬は、自分を抱きしめる氷河の腕と胸の温かさの中に、不安なく我が身を預けていったのである。






Fin.






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