海面を覆う氷の上にあがったら、俺の着ていた服が吸った水は あっという間に凍りついてしまった。
かちこちに固まった服を ぱたぱた叩いて氷を落とすことで、俺は俺が身に着けていた服を乾かした。
極寒の地では、こんなこともできるんだな。
が、服は乾いても、だからといって、冷え切った俺の身体が温まるわけじゃない。
二度の潜水のために費やした体力。
それ以上に大きな落胆のせいで、俺の心身は疲れ切っていた。

氷の上に仰向けに倒れ込む。
もう海に潜るのは無理だし、潜っても無意味だ。
あれは俺の女神じゃない。
見知らぬ どこかの女の人だ。
彼女は俺を救ってくれない。
俺は、俺の失われた記憶を取り戻すことはできない。
東シベリア海の女神が 俺の最後の頼みの綱――というより、最初で最後で唯一の頼みの綱、唯一の希望だったのに、彼女は俺の女神じゃなかったんだ。

その唯一の希望を失って、俺はかなり投げやりな気分になっていたんだ。
それでも、俺はまだ死にたくはなかったらしい。
死を願うほど絶望してもいなかったらしい。
深い溜め息を何度もついてから、俺はその場に立ち上がった。
そして、落胆に肩を落とし、とぼとぼと、俺はおっさんたちの小屋に向かって歩き始めたんだ。

海面が凍っている海は、音を生まない。
白い浜辺にある音は、雪と氷を踏む俺の 力ない足音だけだった。
だけだったんだが。
大して歩かないうちに、そこに違う音が混じり始めたことに気付いて、俺は顔をあげた。
おっさんたちの小屋のある方から、誰かが浜に向かって――俺に向かって?――走ってくるのが見えた。
セイウチ猟に来ている男たちの中の誰かじゃない。
それは、おっさんたちよりずっと小柄な誰かだった。

小気味いいほど軽快なフットワーク。
その様子を、俺は以前どこかで見たことがある――と思った。
誰だ。
そして、俺は、その光景をどこで見たんだ――。

俺が その場で立ち止まり、記憶を取り戻そうとしているうちに、それが どんどん俺に近付いてくる。
明るい、嬉しそうな笑顔。
俺に向かって一直線に駆けてきたその人は、俺が毎晩 夢で見ていた俺の女神と同じ顔、同じ瞳を持っていた。

ああ、俺の女神だ――。
俺がそう思った瞬間、小柄な女神は、東シベリアの浜の雪と氷を軽く蹴って、驚くほどの跳躍力で 俺の首に飛びついてきた。
誰かの名を呼びながら。

「星矢! 星矢!」
「あ……」
「心配させないで! 氷河ならともかく星矢がこんな北の果てで 何日も連絡よこさないなんて、星矢の身に何か良くないことが起こったんだと思うじゃない……!」
俺がただ一人知っている女神、俺がただ一人だけ憶えていた夢の中の女神が、高貴な女神とも思えない親密さで俺に抱きつき、俺を責めてくる。
何がどうなっているのかが わからなくて――俺は、俺の女神の体温の中で、自分からは どんなリアクションを起こすこともできず、ただ芸もなく その場に突っ立っていたんだ。

彼女のこの温かさと親密さは いったい何なんだろう――?
その答えを求めて 顔をあげ 周囲を見まわした俺の視界に、俺の女神以外のものが入ってくる。
えらく不機嫌そうな顔をした金髪の男と、笑ってるんだか呆れてるんだか判別しにくい顔をした長髪の男。
それから、もう一人。
高そうなファーコートで全身を包んだ髪の長い少女。

いったい こいつらは何者なんだと訝り始めた俺は、だが、すぐに その作業を強制的に中断させられた。
他でもない、その髪の長い少女から発せられる不思議な力によって。
それが何ていうか ものすごい力で――まるで凍っていた俺の脳みそを溶かすみたいに、それは俺に襲いかかってきたんだ。
彼女は二人の男の横に微かに笑って立っているだけなのに、微笑む彼女の全身から放射された その“何か”は、ともかく凄まじい力を持っていた。

俺には、逃げる余裕なんてなかった。
逃げなくて正解だったんだろう。
おかげで、俺は思い出すことができたんだから。
今 俺の首にしがみついているのは女神様じゃなく俺の仲間の瞬で、たった今 ものすごい力で俺の脳みそを溶かしてくれた少女の方が、俺の本当の女神アテナだってことを。






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