雛人形を桃の節句に飾り、鯉のぼりを端午の節句に掲げるように、凧は正月に揚げるもの――と、氷河は根拠もなく思っていたのだが、実際はそういうものでもないらしい。 思い起こせば、確かに、氷河は、正月松の内の間に 城戸邸の周辺で凧揚げなる遊戯に興じている子供というものを ただの一人も見掛けていなかった。 今時の子供が凧揚げなる遊戯に興味を抱かなくなったのか、子供の興味以前に その親たちが既に凧揚げの技術を失ってしまっているのかは定かではないが、ともかく、それは氷河が今年初めて見る凧だったのである。 凧はどう見ても手製だった。 角凧に張られた和紙に描かれているものが、なにしろ、某辰巳徳丸氏の似顔絵だったのだ。 そんなものが市販されているはずがない。 描かれている絵が下手なのか上手なのかについては、氷河には何とも言えなかったが、頭髪のない頭、その形から、遠目に見ても誰を描いたものなのかがわかるところからして、特徴を捉えた絵とは言えるのだろう。 そんな悪趣味なものを作る人間に、氷河は、この広い世界に ただ一人しか心当たりがなかった。 「嫌味か皮肉なんだろうが、それにしても悪趣味だ」 城戸邸の庭に面したラウンジの大きな窓の向こうに広がる青い空にぽっかり浮かぶ凧を眺めながら、氷河は 嫌そうに呟いたのである。 「氷河。外に何かあるの?」 その呟きを聞きつけた瞬が、膝の上に置かれた画集から顔をあげて、氷河に尋ねてくる。 「いや。何も」 瞬があんなものを見ても、目の汚れにしかならないだろう。 そう判断して、氷河は首を横に振ったのである。 同時に、自身の目にも、悪乗りしている星矢の悪趣味を映しているより 瞬の顔を映していた方が よほど有益だろうと考えて、彼は晴れた冬の空に背を向けかけた。 氷河が完全にそうすることができなかったのは、それまで調子よく風をはらんで上昇を続けていた辰巳徳丸凧が、突然 彼の視界の端で 派手な迷走を始めたからだった。 辰巳凧は、上空では乱気流でも生じているのかと思うほど激しく せわしなく前後左右に動き、更に大きく旋回して、やがて冬の空の中から その姿を消した。 捉える風を誤ったのか、辰巳凧は 見事に墜落して果てたらしい。 なるほど これは一般人が正月に行なう遊戯としては非常に縁起が悪いものかもしれない。 そしてまた、星矢が凧の絵柄に あの男を選んだ理由が こうなることを見越してのことだったのであれば、星矢の選択は非常に賢明なものだったかもしれない。 そんなことを考えながら、氷河は、改めて、瞬の鑑賞という縁起のいい作業にとりかかろうとしたのである。 そこに、 「瞬ーっ! 助けてくれよーっ!」 という星矢の大声が響いてくる。 「え?」 突然 仲間に名を呼ばれた瞬は、きょろきょろと辺りを見まわした。 防音処理の施された強化ガラスを通して響いてくる星矢の声は 超音波でできているのかと、正直 氷河は思ったのである。 掛けていたソファから立ち上がり、瞬が窓の側に寄ってくる。 氷河の横で、瞬が 両開きタイプになっている窓を押し開くと、その窓の下に、たるんだ凧糸だけを手にした星矢が駆け寄ってきた。 「凧の糸が屋上の避雷針に絡まっちまったんだ。おまえのチェーンで取ってくれよ」 「凧? 星矢、凧揚げしてたの? 僕も誘ってくれればよかったのに」 「上手く揚がったら、おまえも呼ぼうと思ってたんだけどさ。呼ぼうとした途端に、きりきり舞い始めて墜落しちまったんだ」 「なら、もう一度、揚げてみようよ。待ってて。今、チェーン持って、そっちに行くから」 星矢の凧の悪趣味な図柄を知らない瞬は、すっかり その気である。 嬉しそうに瞳を輝かせる瞬を引きとめる適当な理由を思いつけない自分に、氷河は少々 苛立ちを覚えることになった。 幸い、星矢と一緒に庭で悪趣味な凧揚げに興じていたらしい紫龍が、氷河の代わりに、瞬のお出ましを阻止してくれたのだが。 「今日はもう無理だ。あの落ち方では、骨も折れているだろうし、凧に張った和紙も 破けているだろう。一から作り直しだな」 「えーっ!」 紫龍の言葉を聞いて、星矢は思い切り不満そうな声をあげたが、そうとわかれば潔く諦めてしまうのが天馬座の聖闘士の身上。 瞬のチェーンでなるべく損傷を少なく凧を取り戻すことを断念するや、星矢は手にしていた凧の紐を勢いよく手許に手繰り始めた。 やがて、以前は凧だったものの紙と竹の残骸が、屋根の上から星矢の足許に落ちてくる。 ほとんどゴミと化したそれを拾いあげると、星矢は、残念そうな顔をしている瞬に、 「俺たち、明日からギリシャじゃん。聖域で凧揚げしようぜ!」 と、無駄に景気のいい声で 馬鹿げた提案をしでかしてくれたのだった。 |