ホテルの部屋――誰の視線も感じられない場所――に落ち着くと、僕の目眩いや虚脱症状は 嘘のように治まった。 南欧のホテルに どういう趣向なのか 僕には理解できなかったけど、その部屋には装飾としての暖炉があった。 僕は試しにその暖炉の脇にあった鉄製の火掻き棒を曲げてみようとしたんだけど、それはすぐに飴のように簡単にぐにゃりと曲がった。 僕は、ギリシャ文字の いつも、こんな力は無くなってしまえばいいと思っていたのに――僕は、自分が いつも通りの自分だということに安堵した。 一人で、初めて やってきた見知らぬ国で、少なくとも大抵の暴力に屈することのない力を自分が備えているということは、やっぱり心強いことだったから。 いずれにしても、それは初めての経験だった。 この僕が、ただ立っていることも困難なほど身体の力を失うなんてことは。 いったい、彼は何者なんだ――? もし本当に彼のせいで 僕が力を失いかけたのだとしたら、彼は僕の仲間・同類というわけではないだろう。 もしかしたら、僕とは逆の力を持つ、僕の敵。敵ではないにしても、対立者ではあるのかもしれない。 あんなに綺麗な人が僕の敵対者だなんて。 僕自身が外見と中身が真逆の人間だから、僕は外見で人を判断することの愚を知っているけど、でも、あんなに綺麗な人が僕の敵なのかもしれないと考えなければならない状況は、僕の心を沈ませた。 でも、同時に、僕の心は不思議に逸り始めてもいたんだ。 この国に、日本にはなかった何かがあるというのは確かなことのような気がする。 自分がこの国にやってきた本来の目的を思い出して、僕は、明日からの行動計画を漠然と考え始めた。 本当に、漠然と。 僕は聖域のある場所を知らない。 秘密の地図があるわけでもないし、全く当てがないというのが現実。 そんな条件下で、日本の本州の半分以上の面積を持つ国にあるはずの小さなコミュニティを探すなんて、普通の人間なら 最初の一歩を踏み出すことにすら躊躇を覚える大事業だったに違いない。 でも、僕は、歳もとらないし、死なない身。 聖域が見付かるのが100年後だったとしても、僕には何の不都合もない。 時間はたっぷりある。 だから焦らず ゆっくり探せばいいのだと、僕は自分に言いきかせた。 最初の一歩を踏み出すことを考えただけで辟易しそうな、ギリシャのおびただしい観光名所のリストを眺めながら。 その夜、僕は、あの人の夢を見た。 あの人は、心配そうな目をして 僕を見詰めていた。 僕が『大丈夫です』って笑いかけても、彼は その心配顔を消し去らなかった。 でも、本当に大丈夫なはずなんだ。 「彼はただの旅行者。僕は彼に会うことはもうないでしょう」 僕が重ねて そう言うと、彼は、 「本当にそれでいいのか?」 と 僕に尋ね返してきた。 夢の中の僕は、思案顔のあの人に、否と答えることも応と答えることもできなかった。 |