瞬が見たかったシベリアの凍った海。
それは、氷河が言っていた通り、見る者の目を楽しませるようなものではなかった。
見渡す限りの白と灰色。
雪というより小さな氷の粒を舞い上がらせる風がなければ、そこは 音も動きもない無変化・不動の世界だったろう。
浜と海の境目さえ、瞬は確かめることができなかった。
彼岸と此岸の境界にある世界がこんなふうなのではないかと、瞬は思うことになったのである。

「寒くないか」
「コート着てるし、ロシアの帽子ってあったかいし、これくらい平気。すごいね。壮烈っていうか、悲壮っていうか、ここは人が生きていくのには過酷すぎる場所みたいな気がする」
「俺は、やっぱり おまえに無理強いをしてしまったんじゃないか? こんな詰まらない場所に連れてきて――」
「そんなことないよ」

白と灰色の世界の中で、笑って そう答えるシュンの瞳だけが明るく温かく輝いている。
たとえ実際にそれが無理強いだったとしても、瞬はそう答えるだろうし、そもそも瞬は、無理強いを無理強いと認識する感性を備えていない(かもしれない)。
星矢が言っていた通り、瞬の『無理強いじゃないよ』は全く信用ならない言葉なのだ。
実は氷河自身が無理強いと意識していなかった このシベリア旅行を、氷河は今になって後悔し始めていた。
瞬は嘘を言ってはいなだろうと思えるから なおさら、氷河は己れの軽率を悔やんでいたのである。

「氷河は、こういうところで修行をしていたの……」
海を眺めていた瞬が、ぽつりと小さな声で呟く。
真昼だというのに、灰色の雲に行く手を遮られ、太陽さえ動きを止めているように見える世界。
ただ凍った海の上を渡る風だけが、これは写真でも絵でもない 現実の世界の一部なのだということを訴えるように、いよいよ強く激しくなっていた。

「泣いてる女の人の悲鳴みたい……。一人でこの風の音を聞いていたら、寂しい気持ちになるでしょう」
「慣れれば、気にならなくなる」
「そうかな……」
それは、瞬には信じられないことだったらしい。
たった今、瞬自身が寂しい気持ちを消し去ることができずにいるのだろう。
そういう目をして、瞬は氷河に尋ねてきた。
「マーマはどっち?」
氷河が指さした方角を、瞬が見詰める。
明るく楽しそうに眺めろと求める方が無理な話なのだが、仲間の母の亡骸のある海を見詰める瞬の横顔は濃い憂いの色をたたえていた。

「すまん。詰まらないだろう」
「そんなことないって言ったでしょう。来てよかった。ここで修行していた頃の氷河の気持ちがわかるような気がするから。それに――」
「それに?」
「こんな、生きていくには厳酷に過ぎる自然が身近にある場所だから、氷河と氷河のマーマは互いに寄り添って支え合って生きていたんだろうなあって……。氷河がマザコンになった理由が よくわかった」
「俺はマザコンなわけではないぞ」
「うん。そういうことにしといてあげる。でも、僕は、マーマを大好きな氷河が すごく好きだよ」
「……」

瞬は仲間をからかっているのか、本気で そう思っているのか――。
真意の掴みにくい瞬の笑顔のせいで、氷河は戸惑い、混乱し、だが、少しだけ後悔の念を忘れることができたのだった。






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