どうやって氷河が僕を幸せにできたのかって?
それはつまり、その――氷河が、僕を好きだって言ってくれたんです。
ええ、僕は男だし、氷河も男です。
あの……そういうの、軽蔑します?
でも、僕の氷河は 本当に 信じられないくらい綺麗なんです。
ヘレニズム期の彫刻みたいに、面差しも肉体も整っていて、綺麗な金髪と綺麗な青い瞳。
同性だって、うっとりするくらい。
僕の欲目が入ってるにしても、それは ほんのちょっとだけですよ。
ええ、その綺麗な氷河が、僕を好きだって言ってくれたんです。

幸せになれるって思った。
あらゆる呪縛から逃れて、僕は幸せになれるんだって。
氷河は、僕が氷河の弟だから、僕を好きなわけじゃない。
氷河は、僕の面倒を見る義務も負っていない。
僕の命に対して、どんな責任も負っていない。
そうしたい時に僕を嫌いになって、僕から離れていくこともできる。
そういうのって、とても素敵な関係だと思ったんです。
僕は氷河に何もしてあげられないけど、でも、だから、氷河に何をしてもらえなくても構わないって 思うことができる。
それでも、氷河は僕を好きで、僕も氷河を好き。
それって、本当に すごいことだと思った。

でも、最初、氷河に好きだって言われた時、本当は僕、氷河をすごく変な人だと思ったんです。
なんていうか、僕を好きでいてくれるのは兄さんだけだと思ってたから。
もちろん、兄さんが僕を好きでいてくれるのは、僕が兄さんの弟だからで、いわば義務感からのこと。
そんな義務を負っているわけじゃないのに、僕なんかを好きだなんて、本当に、氷河って変わってるって思った。

ええ、僕は僕を嫌いだったんです。
僕は いつだって、兄さんのお荷物で、泣き虫で、弱虫で、一人では何もできない無力な子供。
それが僕だったから。
そんな僕を好きだなんて、なんていうか……氷河って、趣味が悪いって思ったんです。
きっと、価値観も違う。話も合わない。好みも違うって。
だって、氷河は、僕が嫌いなものを好きな人なんだから。

ええ、そう言いました。氷河に。
それは悪趣味だよって。
そしたら、氷河は、虚を衝かれたような顔になって、
『確かに、俺はおまえと同性だが、それで変質者と言われるならともかく、悪趣味と言われるのは心外。いや、おまえは日本語を間違えてるんじゃないか』
って言った。

同性だから、異性じゃないからっていうんじゃなく――僕は そういうことに偏見や差別意識は持っていないつもりです。
でも、僕は、人間として、最低レベルの人間で――。
そして、僕が そういう人間だっていうことを、氷河は知っているはずなんです。
僕が、泣き虫で弱虫で、兄さんがいないと一人で立っていることもできないような情けない人間だっていうことを。
僕がそう言ったら、氷河は、『今は違うだろう』って言ってくれた。
僕が小さな子供だった頃、泣き虫だった頃も可愛かったけど――って。

やだ、笑わないでください。
氷河は、本当にそう言ったんですから。
泣き虫だった頃の僕も好きだったって。
それを聞いて、僕は、ますます氷河は悪趣味だって思うことになったんですけどね。
『今は違うだろう』って、氷河は言ってくれたんですけど、本当に今の僕が子供の頃の僕と違うのなら、それは、兄さんの足手まといになりたくないっていう一心で頑張ったことの結果で――要するに僕が負い目だらけの無価値な人間だっていうことに変わりはない。
僕がそう言ったら、氷河は、『そうか。偉かったな』って言ってくれた。

僕は、その言葉にびっくりして、それから しばらくぽかんとして、日本語を間違っているのは氷河の方だって思った。
確かに僕は僕なりに頑張ったけど、そして6年間を耐え抜いて生き延びたけど、それが偉いことだなんて、僕は考えたこともなかったから。
仲間たちならともかく、僕に限っては、それはちっとも偉いことなんかじゃない。
僕は、人に褒められるようなことは何もしていない。

だって、僕が頑張れたのは――頑張ったのは、兄さんがいてくれたからだったんです。
だったら、氷河が『偉かった』って褒めるべきなのは、僕じゃなくて兄さんでしょう。
僕が氷河に褒めてもらったりしたら、それは兄さんの手柄を横取りするようなものです。
氷河は、意地を張ったみたいに、『偉かったのは、おまえ自身だ』って言い張って、僕の主張を受け入れてくれなかったけど。

それから、氷河は……あの、僕、本当に、僕たちのことを話しても構いません?
僕の氷河は、何ていうか、普段は口下手のくせに、僕をおだてたり褒めたりする時だけは雄弁で、僕以外の人が聞いてると、背中がむずむずしてくるかもしれない……。
え? そういうの聞くのが好きなんですか?
ほんとに?
ああ、でも、そうですね。
あなたくらい綺麗な人だったら、そういうことは言われ慣れていて、僕の氷河の言うことなんか大したことじゃないって感じるのかもしれないですね。

でも、僕は――人にそういうこと言われるのは初めての経験だったから、氷河に何か言われるたび、恥ずかしくて真っ赤になったり、どぎまぎして挙動不審になったり、照れ隠しで変な態度をとったり、意地を張ってみたりして――お願い。そんなに笑わないでください。
初めての恋って、あなたもそんなふうじゃありませんでした?
それとも、そういうのって、僕みたいに自己卑下や自己嫌悪が激しい人間だけのことなのかな……。
もし そうなのなら、特殊事例として聞いてくださいね。

僕のこと、『偉かった』って褒めてくれたあと、氷河は、おまけみたいに、僕の――その、僕の容姿まで褒めてくれたんです。
あの綺麗な氷河が 僕なんかを綺麗だって言うなんて、冗談にしても悪質、嫌味なのなら超一流の嫌味だって思いました。
僕は、僕の顔も大嫌いだったんです。
いつも女の子みたいだって言われて、この顔のせいで誰もが僕を侮って――氷河みたいな“綺麗”だったら、僕もみんなに馬鹿にされずに済んだのにって思った。
あの時は、氷河って本当に意地悪だと思いましたよ。
氷河は、自分の容姿のことで人に侮られたことがないから、こんな変な顔をしてる僕の劣等感がわからないんだって。

あなたも笑ってますね。
氷河も笑ったんです。
そんなこと言うなんて氷河は意地悪だって、僕が責めたら。
いったい何がおかしいのか――。
僕は腹が立って、悲しくなって、氷河が笑う訳を問い質したんです。
氷河の答えは……変でした。
氷河って、ほんと、どこかが普通と違うんです。
氷河は僕に難詰されて――僕みたいな顔をしていたら、普通は その人間は、自分の顔を有効利用するはずだって言ったんです。
僕みたいに、大人しい女の子みたいな顔をしてたら、それを逆手に取って、何もできない非力な可愛い子の振りをして、人に甘えるのに積極的に役立てるって。

でも、そんなことできるわけないでしょう?
僕は、兄さんの重荷になりたくなくて、ずっと強い人間になりたいって思ってたんですから。
僕がそう言ったら、氷河は、僕のことを、『欲がない』だの、『清廉潔白だ』だの、『潔い』だのって言って、最後には『男らしい』とまで言い出したんです。
僕、呆けてしまいました。
ほんとに馬鹿みたいに ぽかんとした。
僕が男らしいなんて、どこから出てきた考えなんだろうって。
氷河って、本当に変わってるんです。
発想が奇抜で。

でも、発想が多少奇抜だったとしても、褒めてもらえてるんだから、素直に喜んでしまえばいいんですよね。
あなたも そう思うでしょう?
もし氷河が、それほど真剣でなく軽い気持ちで言っているようなら、僕も軽い気持ちで、氷河が冗談で言っているようなら、僕も冗談めかして、あまり深く考えずに、ただ『ありがとう』って言えばいいだけのことなんです。
でも、僕は、そうすることができない。
謙遜とか、そういうのじゃないんです。
それは事実に反したことだから、絶対に認められないことなんです。
人から褒めてもらえるような美点が僕に備わってるなんて、それはありえないことなんです。

僕は――多分、素直な人間じゃない。
頑固で、乗りが悪くて、付き合いにくい人間です。
氷河が僕を褒めてくれて、それを真に受けて、自分にもいいところがあるなんて勘違いして――それで、あとで冷静になってから、自分の うぬぼれに いたたまれない気持ちになるのは嫌だった。
だいいち、僕がそんな――自分にもいいところがあるなんて、僕が一瞬でも本気で考えたなんてことを知ったら、兄さんがどう思うか。
僕は、慎重に振舞わなければならなかった。
軽率なことをしたり言ったりして、兄さんを不快にしたりすることがないように。
兄さんに呆れられて、軽蔑されて、嫌われて、見捨てられるようなことがないように。
だから、僕は、氷河に何を言われても心を動かされていないっていうポーズを崩すわけにはいかなかったんです。

そしたら、氷河は、今度は僕のことを 優しい人間だって言い出したんです。
それは誰もが認める僕の美点だって。
『誰もが』って、それは誰のこと? って、僕は思った。
少なくとも兄さんは――兄さんに迷惑ばかりかけて、つらい目に合わせて、苦しませることしかしない僕を『優しい』なんて思ったことは一度もないはずだって。

僕は優しいんじゃない、弱いだけだ――って、言いましたよ、氷河に。
弱いから、僕と同じように弱い人や 虐げられてる人の気持ちがわかるだけだって。
人は誰もがみんな、怯えながら生きている。
僕の兄さんでさえ――強くて優しい兄でいることに耐えられなくなって、本音をさらけださずにいられない時があった。
どんなに強そうに見える人も、きっとどこかに傷付きやすい心を持っていて――それがわかるから、知っているから、だから、人に対する当たりが やわらかくなるだけで、僕は決して優しいわけじゃないって。

氷河は――そう。
今の僕は、少なくとも腕っぷしで人に負けることのない、強い側の人間で、だから、そうしようと思えば いつでもすぐに虐げる側の人間になれるはずなのに、そうしないのは 僕が優しいからだって言った。
でも、力を手に入れたから、自分は偉くなったなんて思い込んで、人を傷付けることなんて できるはずがないでしょう?
以前に比べれば 多少は強くなったかもしれないけど、僕は、無力だった頃の自分を憶えている。
それがどんなに つらくて悲しいことなのかを憶えている。

僕がそう言ったら、氷河は、『それを優しさというんだ』って言った――。
自分が力を持った途端に、虐げる側の人間になる者は多い――って。
自分が虐げられる側の人間だった時に つらく苦しい思いをしたから、また自分が虐げられる側の人間になりたくなくて、人を傷付け、虐げる。
そうして、やがて、虐げられ、傷付けられることの つらさや苦しさを忘れてしまう。
人のつらさや苦しみや悲しみを察し、思い遣ることをしなくなる。
そういう人間は多い。
むしろ そういう人間の方が多数派で、普通で、自然なんだって。
そうなってしまえない僕は、記憶力と、人の気持ちを察することのできる想像力と、その想像力で得た考えを正しい行動に移す 応用力と行動力があるって。
それは、つまり、学習能力があるっていうことで、学習したことを、自分の益ではなく他人の益のために行使するのは、僕の優しさなんだって。

僕、氷河はいったい誰の話をしているんだろうって思いましたよ。
だって、氷河の言うことが みんな事実だったとしたら、僕は、強くなるために頑張った偉い人間で、自分の容姿を人に甘えるために有効利用しない無欲で清廉潔白で潔くて男らしい人間で、その上、記憶力と想像力と応用力と行動力と学習能力を備えた優しい人間だということになってしまう。
そんな美点だらけの人間が僕だなんて、氷河は いったい何を勘違いしているんだろうって、本気で戸惑いました。

僕は、本当に、人に好かれるような要素が自分にあるなんて考えたことがなかったんです。
もちろん、氷河は誤解してるって、僕は、ちゃんと氷河に言った。
僕は、兄さんに迷惑しかかけられないお荷物で 泣き虫で、弱虫の、どうしようもない人間だって。
氷河は、真顔で、正しい自己認識と自己評価ができないのは 非常に大きな欠点で、とても傍迷惑なことだって言いました。
でも、そんな大きな欠点を持っている僕を好きになってしまったんだから、もうどうしようもない――って。






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