「僕の愚痴を聞いてくれてありがとうございました。僕、日本に帰りま――え……?」 瞬に“分別”を稼働させてくれたのは、もちろん、そこにいる第三者――氷河以外の人間だった。 より正確に言うなら、そこにいる 彼女は そこにいるはずだった。 遠来の恋人同士に遠慮したのだとしても、瞬に気付かれずに その場を立ち去ることは不可能な場所に彼女は立っていた――立っていたはずなのだから。 しかし、そこに、あの優しい目をした女性の姿はなかったのである。 「あ……今、ここに女の人がいたよね?」 「女? 何を言っているんだ。おまえは一人だったぞ。こんな崖の先に、思い詰めた様子の人間が一人でいたら、よくない考えを抱いているのじゃないかと誰だって誤解するだろう。だから俺は――」 「それは誤解だよ。でも、そんなことより……そんなはずはないよ。ここに確かに……」 「いくら俺が おまえ以外の人間など見たくないと思っていても、こんな崖っぷちで、人の姿を見逃すはずがないだろう」 「でも、確かに――」 もしかしたら、自殺を考えて この場にやってきたのは自分ではなく、あの優しい面差しの女性で、彼女は 自分が海に背を向けている間に 海に身を投げてしまったのではないかと、瞬は思ったのである。 だが、それはありえないことだった、 もしそうなのであれば、海に向かって立っていた氷河が、その姿に気付かないはずがないのだ。 「その女ってのは、どんな奴だったんだ? 歳や背格好は」 「あ……」 彼女に向かって、少なくとも1時間以上 身の上話をしていた。 幾度も 優しげな人だと思い、綺麗な人だとも思った。 だというのに、瞬は、彼女の顔を憶えていなかった。 その面差しを脳裏に思い描こうとしても、瞬は彼女の髪の色、瞳の色さえ、思い出すことができなかったのである。 彼女が立っていた場所に、小さなピンク色の薔薇の花が咲いていて、瞬は かろうじて、 「その花みたいなひと……」 と、氷河に答えることができた――他には何も思い出せない。 なぜ思い出せないのか、どうしてそんなことがあるのかと混乱した瞬の耳に、氷河の思いがけない言葉が届けられる。 「ああ、エスメラルダだな」 氷河は、そう言ったのだ。 「え?」 それは、一度だけ 兄から聞いたことのある不幸で純粋な少女の名。 兄は、兄の大切な少女の名を、決して軽々しく他人に語ったりはしないだろう。 氷河は、その名を知らないはずだった。 「この薔薇……エスメラルダっていうの?」 震える声で尋ねた瞬に、氷河が自信ありげに頷いてきた。 「間違いない。俺は薔薇にはうるさいんだ。日本では あまり お目にかからないが、欧州では有名な名花の一つだ。弱そうに見えて、なかなか強いところのある花だから、イギリスやドイツの気候の悪いところでは特に 造園家の間で人気がある。だが、なんでまた、こんなところに――前世紀にドイツで生まれた花だぞ」 「そう。この花、エスメラルダっていうの……」 氷河には不思議に思えることが、瞬には不思議なことでも何でもなかった。 ここは、瞬の兄が6年の長い時を過ごした島。 兄が、エスメラルダという名の 彼の宝物に出会った島。 その 可憐で心優しかった少女の心が眠っている島なのだ。 「エスメラルダさん、本当に優しい人だったんだ……」 この島に眠る彼女の優しい心は、彼女が命がけで守り抜いた少年だけではなく、その情けない弟までを守ろうとしてくれたのだろう。 瞬には、そうなのだとしか思えなかった。 自分が、誰に守られ、誰に愛され、誰の支えになっているのか。 案外、人は誰も、それらのことを完全に把握してはいないのかもしれない。 だが、おそらく人は、誰もが誰かを愛し、愛され、守り、守られ、支え、支えられて生きているに違いない。 だから、逃げてはいけないのだと、瞬は思ったのである。 「ごめんね、氷河。本当にごめんなさい……」 氷河から、“彼女”から、そして、何より自分自身から逃げたことで、いったい自分は、どれだけ氷河に心配をかけ、氷河の心を傷付けたのか――。 今更ながらに自身の無思慮に思い至り 謝罪した瞬に、氷河が怪訝そうな顔を向けてくる。 「何を謝っているんだ。おまえは俺と一緒に日本に帰って、ずっと俺の側にいてくれるんだろう?」 「うん……」 「なら、何も謝ることはない」 氷河は、完全に本心から、全く屈託なく、そう思っているらしい。 未熟な一人の人間を、そんなふうに 愛し、許してくれる人が、一人の人間の周囲には何人もいるのだ。 それが人の作る世界だというのなら、確かに この世界には 命をかけて守るだけの価値があるだろう――。 氷河の胸に頬を押し当てながら、瞬はそう思ったのである。 小さなピンク色の薔薇の花が、そんな瞬を微笑み見詰める少女のように、優しく風に揺れていた。 Fin.
|