「やはり花見には行った方がいいようだな」
翌朝 氷河が瞬に そう告げたのは、窮地を脱する方法を思いつくのに一晩の時間を要したからではなかった。
そうではなく――彼の思いついた窮地脱出方法が、
「夕べ、桜の花が散る夢を見たんだ。花見を低俗下劣と断じられて、桜が腹を立てたのかもしれん。桜に恨まれるのも無風流だ」
というものだったからだった。
その風流な窮地脱出方法を無理なく自然に実践するには どうしても、氷河には 夢を見るだけの時間が必要だったのである。

氷河の風流な窮地脱出方法を聞いた紫龍が、口許に意味ありげな笑みを刻む。
氷河の提案に瞬が否応を答える前に、あるいは瞬の答えを遮って、紫龍は一首の歌を口にした。
「『春風の花を散らすと見る夢は、覚めても胸の騒ぐなりけり』。それは、花見に来ないおまえを恨んで花が見せた夢ではないだろう。恋の夢だ」
「おい、紫龍……!」
どういう気紛れかは知らないが、氷河は花見に行く気になってくれたらしい。
そこに水をさすようなことを言う紫龍を見て、星矢は口をとがらせた。
「氷河が花見に行く気になってくれたなら、それでいいじゃん。だいいち、春風がどーたらこーたらって、それ何だよ。ちゃんと日本語で言えって」

日本語以外の国語を口にしたつもりのなかった紫龍が、星矢のクレームにわざとらしく肩をすくめる。
それでも、彼は、日本語がわからない仲間のために、その歌の大意を日本語で説明した。
山家集さんかしゅうの中にある歌だ。詠んだのは、桜フェチで有名な西行法師。意味は、まあ、『春風が桜の花を散らす夢を見た。夢から覚めた俺の胸は、いつまでも高鳴り騒いでいる』といったところか。さて、相手は誰だ。白状しろ」
「……」

紫龍は白鳥座の聖闘士の恋の相手を知っている。
それだけではなく、彼は氷河が なぜこんな窮地脱出方法を思いついたのかということも知っている。
でなければ、ここで西行の名など出すはずがない。
すべてを承知しているにも関わらず、わざとらしく、そんなことを訊いてくる紫龍に、氷河は少々――否、大いに、気分を悪くしたのである。

ちなみに、氷河の恋の相手は、もちろん瞬だった。
そして、氷河がこの窮地脱出方法を思いついたのは、彼が先日 沙織が『西行桜』を観に行く予定でいることを、彼女から知らされたばかりだったから。
『西行桜』は、花見客が大挙して押しかけてきたせいで静かな生活を乱された西行が、それを桜のせいだと憤っていると、彼の夢の中に桜の精が現われ、花に罪はないと諭す能の演目である。
大和猿楽四座のひとつであるK流宗家の当主がシテを務める、かなり良い出し物らしく、彼女の聖闘士たちに その話をした時の沙織は上機嫌だった。

ともかく、紫龍はすべてを知っているのである。
知っていて、わざとらしく、おまえの恋の相手は誰だと訊いてくるのだ。
だが、それこそは、ロマンチックに雪のように舞い散る桜の中で(当然のことながら、花見客も酔っ払いもいない場所で)瞬に知らせたい重要な事実。
無風流を極めた仲間たちの耳目があるところで、『俺が好きなのは瞬だ』などという、一世一代の告白ができるわけがない。
氷河は、当然、紫龍のわざとらしい問いかけを無視した。

「貴様はユングか。それともフロイト大先生か。人の夢に詰まらん解釈を加えるな」
何を考えているのか わからない――大体 察しはつくのだが――紫龍の追求から逃れるために、氷河は掛けていたソファから立ち上がった。
そのまま、ラウンジから直接 庭に続くテラスに出る。
そこから見える城戸邸の庭は、桜の樹はなかったが、房アカシアの木が そろそろ鮮やかなレモン色の花をつけつつあった。

「逃げるとは卑怯千万。聖闘士の風上にもおけない振舞いだぞ」
紫龍が何やら言っていたが、氷河は そんな挑発など聞こえなかったことにした。
仲間たちに背を向け――ラウンジの様子を横目に見てとれる程度に背を向け――、まだ浅い春の庭の光景と空気に興じる振りをする。
そんな氷河に 春の微風より微かに ひそめられた瞬の声が聞き取ることができたのは、氷河が実は春の庭になど全く意識を向けておらず、むしろ 紫龍の夢判断を瞬がどう思うのか――少しは気にかけてくれるのかどうか――を探るべく、その五感を研ぎ澄ませていたからだった。






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