そういう経緯で――星矢の強引に負ける形で、紫龍は 氷河の恋の後押しをすることになったのだが、彼は決して すぐに行動を起こすつもりはなかったのである。
時と場合によっては 星矢より猪突猛進で、『鹿を追う者は山を見ず』を地でいくところのある氷河が、その恋に関しては意外に思えるほど慎重な態度で当たっている。
それは氷河なりに必要と考えた上での慎重なのだろうし、あるいは他に何らかの事情があってのことなのかもしれない。
そして、今回 氷河の仲間たちが けりをつけなければならない問題は、“男同士の恋”という、到底ありきたりとは言えない、極めてデリケートな問題。
ゆえに、この問題に関しては、氷河以上に慎重にタイミングを見計らい、極力さりげなく探りを入れるところから始めなければなるまいと、紫龍は考えていたのである。

が。
「瞬は今 庭に出てるから、氷河はきっとまたラウンジから うじうじ瞬を見てるだろ。今すぐ行って、あの煮え切らない男の尻を思い切り蹴飛ばしてやろうぜ!」
「なに?」
『思い立ったが吉日』『時は金なり』を人生の信条にしている星矢の辞書には、『急がば まわれ』『待てば海路の日和あり』等の ことわざは載っていないらしい。
慎重に事を構えようとしていた紫龍は、行動方針が決まったなら あとは行動あるのみと言わんばかりに、星矢が紫龍の腕を引く。
紫龍は、そうして そのまま、恋する氷河の許に問答無用で連れていかれてしまったのだった。
「あー、やっぱりここにいた。紫龍、頼んだぜ。この煮え切らない馬鹿に、さりげなく ずばっと言ってやってくれ!」
無理な要求をつきつけてくる星矢に背を押され、かくして 紫龍は、不承不承 白鳥座の聖闘士の前に立つことになったのだった。

「何だ」
星矢の推察通り、本当に庭にいる瞬の姿を“うじうじ”と見詰めていたらしい氷河が、突然彼の視界を遮った障害物に怪訝そうな目を向けてくる。
ここで、『いや、何でもない』などと答えたりしたら、星矢が暴れだすことがわかっていたので――紫龍は仕方なく口を開いた。
「いや、何ということもないが、ぜひ おまえの意見を聞きたいことがあってな」
「俺の意見?」
「そうだ。あー……つまり、瞬には差別意識というものが全くない。人種、国籍、財力、地位、性別、どんな要因によってでも、瞬は 人に対して偏見や差別意識を持つことをしない。俺はそう認識しているんだが、おまえはどう思う?」
「藪から棒に何だ。その意見には全く同意するが」

紫龍が『性別』という言葉にだけ 僅かに力を込めたことに、氷河は気付いてくれなかった。
紫龍の発言の意図を察した様子もなく、一般論を語る口調で、氷河は紫龍の意見に賛同した。
そうしてから、
「親がいないことや 裕福ではないことで、いつも差別される側の人間だったから、瞬は、そういう差別意識を意図して自分の中から排除してきたんだろう。差別されたら、差別し返してやろうと考える人間も多いというのに」
と言葉を続ける。

全く乗り気でなかった氷河の恋の後押し作業。
しかし、紫龍は、氷河のその“意見”を聞いて、氷河の恋心に――その内情に――少々興味が湧いてきたのである。
「おまえはそうなのか? おまえは、人に差別されたら、差別し返そうと考えるタイプの人間か?」
「差別というのとは違うだろうが――ガキの頃は、俺に理不尽を強いる大人たちを、強くなって見返してやろうと思ってはいたな。おまえもそうではないのか」
「そういうことを全く意識していなかったとは言わないが――」
ありとあらゆる意味で非力無力だった不運な子供が 生きる力を得ようと思ったら、それは自分を取り巻くものへの反発心や反抗心に頼るしかない。
子供の意思を無視する理不尽な大人たちは、その反発心反抗心を生むための材料として、最適な存在だった。

紫龍の答えに、氷河が頷く。
そして、彼は、自分が出会った神秘や奇蹟を語るような口調で、
「瞬にはそういうところがない」
と告げた。
その言葉に『だから俺は瞬が好きなのだ』という主張が紛れ込んでいることに、紫龍は気付かないわけにはいかなかった。

「星矢にもそういうところがなくはないか? 星矢も、理不尽な大人たちへの憤りを抱き続けているようには見えなかった」
「星矢は 反発心や反抗心を抱かないのではなく、単に忘れっぽいだけだ。特に憎悪や怨恨等、負の感情をいつまでも憶えているアタマがない。星矢は、理不尽な大人たちに見返してやろうと考えることはなくても、自分の身に降りかかった理不尽な運命を見返してやろうと 漠然と意識してはいたんじゃないか? だが、瞬は、そういう気負いさえ抱いたことがないと思う。ただ、自分は理不尽な大人になるようなことはすまいと考えるだけで。しかし、瞬は、星矢と違って、忘れてはいないんだ。忘れることなく、だが、当然のごとくに、他者を見返してやろうと考えることをしない」
「なるほど。そうかもしれないな。してみると、俺たちの中で最も幸福な人間は星矢だということになる」
「そう言っても間違いではないだろう」

自分が褒められているのか馬鹿にされているのかが、星矢にはわからなかった。
ゆえに、星矢は、氷河と紫龍の会話の内容に怒りも喜びも感じなかった。
だが、彼は、二人のやりとりに苛立ちは感じたのである。
「俺と瞬がどう違うかなんて、そんなことはどうでもいいんだよ! 瞬はいい奴だ。それでいいだろ」
「……そうだな。その通りだ」
結論だけが欲しい星矢らしい その意見に、氷河は薄い笑みを浮かべ、浅く頷いた。
その落ち着き払った態度が、更に星矢の苛立ちを増幅させる。
このまま紫龍の“さりげなさ”に期待していると、話はいつまで経っても本題に突入しない。
とにかく1秒でも早く結論を手に入れたかった星矢は、結局 紫龍の悠長な“さりげなさ”に頼ることを、早々に放棄してしまったのだった。

「氷河。おまえは、瞬が好きなんだろ? そうだよな !? 」
質問というより事実の確認。事実の確認というより、一方的な決めつけの押しつけ。
これが警察の事情聴取であったなら、確実に 特別公務員暴行陵虐罪もしくは脅迫罪に問われるだろう高圧的態度で、星矢が氷河を怒鳴りつける。
一人で勝手に いきり立っているように見える星矢の大声に、氷河は軽く眉根を寄せた。
「なんだ? 最近 世間では藪から棒を突き出すのが流行っているのか」
「流行ってんだよ。いいから質問に答えろ! 言っとくけど、嘘なんかついたら、俺はおまえをぶっ飛ばすからな!」
「……」

いったいなぜ星矢は、目の前で赤い布をちらつかされている牛のように興奮しているのか。
事情はわからなかったが、こういう時の星矢を落ち着かせるためには、彼の求めるものを与えてやるのが最も効果的だということを知っていた氷河は、星矢にそれを与えるために ゆっくりと口を開いた。
「もちろん、好きだ。嫌いになる理由がない。瞬は強くて優しくて、俺の命と心の恩人でもある」
「そういう意味じゃなくてさ! 瞬と特別な仲になりたいとか、いちばん親しくなりたいとか、そういうこと考えてるんだろって訊いてんだよ!」
「特別とは?」
「え? いや、だからさー……」

勢いだけは有り余るほどにあっても、今ひとつ語彙の少ない星矢は、氷河の反問に口ごもることになった。
竜頭蛇尾を絵に描いたような星矢の様子を見兼ねた紫龍が、彼の助太刀に立つ。
“さりげなさ”や“婉曲”を放棄した紫龍は、星矢の熱血に勝るとも劣らないほどクールかつ直截的だった。
「星矢は、つまり、おまえは性的欲望を含んだ好意を瞬に対して抱いているのではないかと訊いている」
「え? いや、俺はそこまでは……」

もちろん、星矢はそこまでは考えていなかった。
彼はただ、氷河の恋の成否の答えを手に入れたいだけだった。
が、ここで、そんな事実を氷河に知らせても何にもならないと判断した星矢は、即座に紫龍の言に同意した。
「紫龍の言う通りだぜ!」
ほとんど開き直ったていで、大きく頷いた星矢に、氷河から、
「否定はしないが」
という答えが返ってくる。
「否定しないのか!」
そうなのだろうと信じていた通りの氷河の答えに、星矢は なぜか素頓狂な声をあげて驚くことになった。

迅速に“答え”に行き着くことを、星矢はもちろん望んでいた。
望んではいたのだが、まさか氷河が これほど簡単に その恋を認めると考えていなかったのも事実だったので――氷河は一度くらいは お茶を濁そうとするだろうと考えていたので――あまりにあっさりした氷河の肯定に、星矢は少々――否、大いに――驚いてしまったのである。
が、物事が迅速に進むのはよいことである。
そう考え直して、星矢はすぐに次の作業にとりかかった。
つまり、前提確認後の要望提出作業に。
「なら、さっさと瞬とくっついて、押し倒すなり何なりしてくれよ! でないと、俺、毎日 おまえの恋煩い顔を見て、じりじりしてなきゃならないからさ。おまえの煮え切らない態度のせいで、俺が毎日どんだけ いらいらさせられてるか、おまえ、知らないだろ! 俺はさ、毎日を、もう少し穏やかな気持ちで過ごしたいんだよ!」

「星矢、あのな……」
氷河は星矢の心の安寧のために瞬に恋しているのではないだろう。
正直にも程がある星矢の言に、紫龍は頭痛を覚え、こめかみを指で押さえることになったのである。
しかし、星矢の(ある意味)身勝手な要望に 氷河は至って冷静で、彼の身勝手に立腹した様子も見せなかった。
「俺は瞬が好きだ。瞬ほど、真の意味で強く優しい人間はいないだろうと思う。だが……」
「だが、何だよ!」
自分でも多用するくせに、星矢は 他人が使用する『でも』『だって』『だが』『しかし』の類が大嫌いだった。
氷河の『だが』に苛立ちを隠そうともせず、星矢は氷河を怒鳴りつけたのである。
その星矢の許に、氷河から 実に思いがけない答えが提出される。

「俺は、瞬のすべてが好きだが、瞬の目だけは嫌いなんだ。いっそ瞬の目が見えなければいいのにとさえ思う。そうしたら、聖闘士になって再会した その日のうちに、俺は瞬に自分の気持ちを打ち明けていただろう」
「へ?」
それは、星矢にとって意想外の答えだった。
氷河の答えを、星矢は非常識で理不尽だとさえ思った。
というより、星矢は、氷河の言うことが よくわからなかったのである。
言葉の意味はわかるのだが、そんな非常識なことを言う白鳥座の聖闘士の意図や思考回路が全く理解できなかった。

瞬の目が嫌いだと氷河は言うが、瞬の瞳は、アンドロメダ座の聖闘士の最大のチャームポイントというのが、一般的常識的な世評である。
瞬の瞳は、アテナの聖闘士たちの敵であった冥界軍の渡し守カロンでさえ大絶賛した、瞬の重要パーツ。
それを、瞬の味方であるはずの氷河が嫌うとは何事だろう。
白鳥座の聖闘士を一般的常識的な男と認識していたわけではないが、氷河がここまでおかしな男だとは、星矢は思ってもいなかった。

「瞬は好きなのに、目が嫌いって何だよ! 訳わかんねーこと言うなよ!」
星矢は、本当に氷河に殴りかかっていきかねないほど興奮――というより、混乱――していた。
紫龍が慌てて、二人の仲間の間に仲裁に入る。
「落ち着け、星矢。氷河が本当に瞬の目を嫌っているわけがないだろう。氷河は、おそらく、瞬の目を畏怖しているとか、気後れを感じるとか、そういう意味で言っているんだ。それは奇妙なことでも おかしなことでもない」
「瞬の目を嫌いってのが、おかしくないってのか !? 氷河は十分おかしいぜ!」
「だから、それはだな――」
「だから、それは !? それは何だっていうんだよ!」
いきりたつ星矢の前で、紫龍が嘆息する。
そうしてから、彼は、瞬の澄んだ目が、瞬に対峙する人間にとって脅威にもなり得る理由を、星矢に語ってやったのだった。

「つまり、人間というものは誰でも不完全な存在で、大小の別はともかくとして、多かれ少なかれ罪を犯しているものだ。そういったこと すべてを見透かされ責められているように感じて、瞬に見詰められることに恐れに似た感情を抱く人間は少なくないと思うぞ。まして、氷河は、瞬に対して、色々と求めるものもあるだろうし……」
「そんなことに びくびくする必要なんてないだろ。瞬は、基本的に性善説の信奉者で、人の罪だの悪意だのになんか気付かない。氷河がとんでもない助平だとか、どす黒い欲望を抱いてるとか、んなことに、瞬は気付きもしねーよ!」
星矢の主張は、氷河にとって、そうであってくれたならどんなにいいか――と思えるような見解だった。
しかし、それは明確な間違いである。
間違いだと、氷河は思っていた。

「おまえは瞬を見くびりすぎている。瞬は、いつもすべてを見ている。その上で、寛容にも 対峙する人間の罪を許してしまうだけだ」
「うー……」
返す言葉に詰まり 派手に口をとがらせた星矢を、紫龍が困ったように見やる。
だが、この件に関しては、紫龍も星矢の味方についてやることはできなかったのである。
「これは、氷河の言うことの方が正しい。瞬は、醜悪や罪悪から目を逸らしたり、見えていない振りをしたりはしない。見て、考えて、判断し、最終的に許してしまうことが多いだけだ。ハーデスも、盲目的に人を善人視しているから瞬は清らかな人間だと認めたわけではないだろう。瞬の目は、無邪気な子供のそれではない」
「そ……それはそうかもしれねーけどさー」

氷河と紫龍に真顔で責められて、さすがの星矢も たじたじとなる。
星矢が気後れを見せたのを これ幸いと、紫龍は更に言葉を重ねた。
「氷河には氷河の考えがあるんだろう。おまえが苛立つ気持ちはわからないでもないが、ここは退け」
「でもさー……」
明確に不満だが、その不満をどういう言葉で訴えればいいのかがわからない。
言葉の問題で、結局、星矢は 氷河の恋から手を引くしかなくなってしまったのである。
結局、それから更に半月ほど、星矢は、氷河の恋煩い顔に耐え続けなければならなかった。






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