「俺は……ガキの頃から、自分の容姿にコンプレックスを抱えていた。俺は、瞬の目が見えなければ、そのコンプレックスを気にせず、瞬に近付けるんじゃないかと思ったんだ。すまん。あれは、俺の身勝手で無責任な放言だった。俺は、まさかこんなことになるとは――」 「ようしにコンプレックス?」 星矢が氷河の謝罪を遮ったのは、彼が氷河の謝罪を無用のものと思ったからではない。 そうではなく――氷河の口にした言葉の意味が理解できなかったからだった。 まさしく言葉――単語――の意味が、星矢には わからなかったのである。 氷河がコンプレックスを抱いている『ようし』とは、用紙なのか、洋紙なのか、あるいは要旨か養子なのか。 それが『容姿』だということに、星矢はすぐには思い至ることができなかったのである。 麺は食っても面食いではない星矢は、人間の――特に、男の――容姿になど全く価値を置いていなかったのだが、その星矢でさえ、氷河の容姿を人に劣るものだと考えたことは 一度たりともなかったのだ。 が、どう考えても、氷河の言う『ようし』は『容姿』である。 しばしば 常識では考えられない行動に及ぶ男でも、用紙にコンプレックスを抱くことはできないだろう。 その結論に至るまでに、星矢は優に2分強の時間を要した。 その2分が経ってから、星矢は、あまりに馬鹿げたコンプレックスを抱いている男に対して、大いに憤慨することになったのである。 「おまえが容姿にコンプレックスなんか持ってたら、世の中の男の大部分が立場をなくしちまうだろ! おまえは 世界中の男を敵にまわすつもりなのかよ!」 「そうじゃない。俺の言う容姿というのは、顔の造作や姿形のことではなく、色のことだ」 「色ぉ !? 」 人は、自分を含め、あらゆる人間を、どんな人間も、完全に理解することはできない。 それは星矢も承知していた。 まして氷河の考えていることが完全にわかるようになってしまったら、それは自分が人間としての尊厳を放棄することだと認識していた星矢にとって、彼の発言の意味がわからないということは、ある意味 喜ばしいことでもあった。 だが、ここまで 氷河の言葉の意味がわからない事態は、氷河の奇天烈な言動には慣れっこになっていた星矢にも初めてのことだった。 「色って何だ?」 星矢の素朴な疑問の前で、氷河が一瞬 ためらいを見せる。 ややあってから、氷河は、彼がコンプレックスを抱いている“色”が何であるのかを、いかにも不本意といった 「つまり――俺が初めて日本に連れてこられた時、周囲には髪も瞳も黒い子供しかいなかった。あの時 俺は、その事実に驚き、そして、俺だけが異端で異常なのだと――そう思い込んだんだ。異端で異常な俺の外見を、瞬がどう思うのかと考えると――」 「どうも思わないだろ。おまえは馬鹿か? なに阿呆なことを言ってるんだ?」 理解できないことが難しいことであるとは限らないし、また 深刻なことであるとも限らない。 氷河がコンプレックスが抱いている“色”が 本当にただの色にすぎなかったことに、星矢は はっきり言って死ぬほど気が抜けてしまったのである。 どれほど解決の難しい社会的あるいは倫理的問題が飛び出てくるのかと身構えていたところに提出された難問が髪の色とは。 もちろん星矢とて、ある種の だが、レイシストでない星矢には、それはあまりにも馬鹿馬鹿しく、あまりに無意味なコンプレックスだったのである。 「だいたい、『思い込んだ』って、何だよ! そうじゃないってことは、おまえだって 今はもうわかってるんだろ? 俺だって、初めておまえを見た時には それなりに驚いたし、変わってるって思ったけど、今じゃ 金髪も青い目も全然珍しいものじゃないって わかってる。どっかの最も神に近い男だって金髪だけど、シャカが自分の容姿に――いや、色か、何でもいいや、とにかくコンプレックス持ってるなんて話、聞いたこともない。黄金聖闘士なんて、半分くらいは金髪じゃん。でも、あのおっさんたちは みんな、無意味やたらに威張りくさってるぞ」 星矢にしては、実に堂々とした論陣である。 あいにく、氷河がコンプレックスを抱いている“色”の正体を知って、あっけにとられていた紫龍やシャカは――瞬ももちろん――星矢の堂々たる論陣に感心するほどの余裕は持てなかったのであるが。 そんな馬鹿なことに――と、彼等は心の底から呆れていた。 しかし、大抵の場合、他人には“馬鹿げたこと”と思える悩みは、悩みを抱える当人には 決して“馬鹿げたこと”ではないのだ。 「そんなことはわかっている。理屈ではわかっている。今ではわかっているんだ。だが、こればかりはどうにもならない。自分は普通じゃないという意識が どうしても消えてくれないんだ。日本に来て、俺だけが誰とも違うと気付いた時の衝撃は、並大抵のものではなかった。おまえらだって――タコ型宇宙人しかいない火星に たった一人きりで放り込まれてみろ。1ヶ月もしないうちに、自分の方がおかしいのだと思うようになる。自分を普通だと思っていることができなくなるんだ」 「あのさ、おまえさ……」 「瞬がそんなことを気にしないということもわかっている。だが、それは仲間や友人としてのことで――恋となったら、話はまた別だろう。恋は好悪の感情だけですべてが決まる。俺はただ、瞬の前で できる限り――完全に普通の人間でいたいと思っただけだ」 「おまえ、いよいよ とち狂って、俺たちをタコにする気かよ」 あまりの馬鹿馬鹿しさに、腹を立てることさえ忘れていた星矢が、更に馬鹿馬鹿しい氷河の例え話に、さすがに むっとした顔になる。 否、この際、タコでもイカでもエビでも、それは大した問題ではない。 問題は、そんな馬鹿げたことのために、瞬が 自分の目を傷付けようとまで思い詰めた事実の方だった。 星矢が徐々に本気で腹を立てる術を思い出しかけていることを認め、紫龍は慌てて 星矢の気を逸らすべく、氷河の言動を評価する別の視点を提示した。 「恋に慎重になっていたのではなく、恋のせいで臆病になっていただけだったとはな……。瞬の差別意識の有無ひとつにも、あれだけ深い考察のできるおまえが、自分を客観的に観察することが全くできていないとは、実に驚くべきことだ」 それが恋というものなのであれば、理性理屈では消し去れないコンプレックスを彼の上から取り除くことができるのは、氷河自身ではなく、彼の恋人だけということになる。 紫龍は――少し遅れて、星矢とシャカも――その視線を瞬の方に巡らせた。 自分ひとりの好悪だけで氷河の恋の成否を決定する力を持つ瞬は、氷河の馬鹿げた恋情(とコンプレックス)の吐露の衝撃から、未だ完全には立ち直れていないようだった。 氷河以外の仲間たちに視線を注がれて初めて、瞬が はっと我にかえったような顔になる。 瞬の瞳が潤み始めたのは、『自分は氷河に嫌われていなかったのだ』ということを事実として認められる余裕が、瞬の中に生じてきたからだったかもしれない。 それでもまだ、氷河の側に近付く勇気は持てないのか、客間のドアの前に立ったまま、瞬はゆっくりと――少し おずおずした様子で口を開いた。 「確かに氷河は普通じゃないけど、でも……」 「やはり――」 早合点をした氷河ががっくりと肩を落とすのを見て、瞬が慌てたように唇を噛む。 それが、星矢たちには、『普通じゃないのは容姿じゃない』という言葉を呑み込んだように見えた。 事実はどうだったのか、それを知っているのは瞬のみである。 ともかく、瞬が、(おそらくは)言葉を選択し直して氷河に告げた言葉は、 「普通よりずっと綺麗だけど」 というものだった。 告げる言葉を変えたにしても、瞬は決して嘘をついたわけではなかっただろう。 「でも、本当に氷河の容姿が異端だったとしても――氷河の髪がピンクでも青くても、氷河の目が赤くても金色でも、僕は氷河のことが好きだよ。初めて会った時、氷河の お陽さまの光みたいな髪や空の色みたいな瞳を見て、なんて綺麗なんだろうって思った。どうしても近くで見てみたくて、人見知りの激しかった僕が、死ぬほどの勇気を出して氷河のところに行ったんだよ」 そう告げる瞬の声や瞳には 僅かな淀みもなく、そこにあるのはただ、幼い頃の思い出を懐かしむ大人の懐旧の情だけだったから。 「無視されずに、氷河に答えてもらえた時は、本当に嬉しかった。僕は、泣き虫のみそっかすだったのに……氷河は、僕のこと 追い払ってしまうことだってできたのに……」 「みそっかすなんかであるものか! おまえはいつだって花のように綺麗だった!」 「え……あの……」 瞬と違って氷河は、発する前に自らの言葉を吟味することがない。 だから、ほとんどの場合、彼の言葉に嘘はないのだが、当然のごとくに 氷河には失言が多かった。 『少女のよう』と言われることの嫌いな瞬が、『少女のよう』より更にランクアップした『花のよう』なる讃辞に どんな反応を示すのかと、星矢たちは氷河の正直な失言に一瞬 ひやりとしたのである。 だが、結局は、その手の問題は、セクハラ行為同様、『何を言ったか』『何をしたか』ではなく、『誰が言ったか』『誰がしたか』ということがすべてを決定するものであるようだった。 好きな人に言われたのであれば、それはやはり嬉しい言葉でしかないらしい。 瞬は、全く気を尖らせた様子を見せなかった。 春の到来によって暖かさを増しているようだった陽射しが 更に和らぐように、その頬を上気させ、瞬は、氷河のセクハラ発言に 嬉しそうに微笑した。 星矢と紫龍は、瞬には気取られぬように短く吐息し、それから改めて、この騒動の収束を予感して長い安堵の息を洩らしたのである。 「しかし、まさか、氷河が容姿のコンプレックスのせいで告白できずにいたのだったとはな……。俺はてっきり――」 「てっきり、何だ」 「何だと言われて――」 事態は収束に向かっている。 昨日までの ぎこちない気候は どこかに消え去り、季節はすっかり春めいている。 ここで新しい春の嵐など呼び込むこともあるまいと、むしろ絶対に呼び込みたくないと考えて、氷河の思いがけない質問に、紫龍は口ごもることになったのである。 そんなことを思い出させて、せっかく手に入れた うららかな春の中に、また解決しなければならない問題を投げ込むようなことを、紫龍は――もちろん星矢も――したくはなかった。 のであるが。 うららかで穏やかな春を愛する青銅聖闘士たちに代わって、言わなくてもいいことを言ってくれたのは、おそらく この場で最も空気の読めない男――天上天下唯我独尊を旨とする(?)某乙女座の黄金聖闘士だった。 一介の青銅聖闘士の身を案じ、9500キロの距離をものともせず、極東の島国のまでやってきてくれた、実は心配性で世話好きで人情家でさえある乙女座の黄金聖闘士。 彼が、“慈悲の心を持ち合わせていない”と自称し、周囲の者たちも あえてその自称に異議を唱えずにいるのは、彼が場の空気を読むことなく、後先のことも考えずに、 「君は、君とアンドロメダが同性だということは気にしていないのか」 などという台詞を平気で吐いてしまうせいなのではないかと、星矢たちは思ったのである。 乙女座バルゴのシャカには、確かに慈悲の心がない。 彼は、ついに地上に訪れかけた平和な春を真冬に逆戻りさせることに どんな躊躇も罪悪感も覚えない、冷酷極まりない男なのだ――。 誰より平和を愛し、平和を望んでいた紫龍と星矢は、その質問を発してしまったシャカの澄ました顔の前で、絶望的な気分になってしまったのである。 だが、季節は――時間は――未来に向かってしか進まないものであるらしい。 これまで散々、彼の仲間たち(含む黄金聖闘士)を呆れさせてきた白鳥座の聖闘士 キグナス氷河。 シャカの冷酷な質問を受けて 呆けることになったのは、今度は そのキグナス氷河の方だったのである。 「なに……?」 超根本的な質問を投げかけられた氷河が、乙女座バルゴのシャカを、意味不明なことをわめきたてるサル山のサルを見るような目で見る。 このサルはいったい何を言っているのかというように眉根を寄せた氷河は、そうしてから、不思議そうな顔で、彼に尋ね返したのだった。 「それは……気にするようなことなのか?」 超根本的な質問に対する超素朴な疑問――氷河にとっては そうであるらしい――に、シャカがぽかんと間の抜けた顔になる。 その僅か2秒後、乙女座の黄金聖闘士は、心底から、完全に、本気かつ正気で、彼の懸念も疑念も非難も理解できていないらしい氷河のせいで 激しい頑迷神経痛の症状を呈し始めていた。 もちろん、シャカに比べれば 氷河の奇天烈な言動に慣れている星矢と紫龍も、氷河の その素朴な疑問には すっかり毒気を抜かれてしまったのである。 氷河が普通でないのは、やはり容姿ではなく、その中身の方である。 何事にも 迅速かつ明快な結論を求めてやまない星矢が 生まれて初めて、どうせ真っ当な着地点に落ち着くはずがないのだから、こんな非常識な男の恋の行方など知りたくもないと思ったのは、まさに その瞬間だった。 Fin.
|