それが春のことでなかったら――真冬のことだったなら、そんなことにはならなかっただろう。 だが、季節は春だった。 水 春に温むのは水だけだと、瞬は思っていたのである。 その上、シベリアの大地は、ほぼ9割がまだ雪に覆われていた。 まさか雪までが温んでいるとは、瞬は想像もしていなかったのである。 その油断のせいで、瞬は、雪を踏みしめるはずだった足の着地点を失い、瞬の身体は幅が2メートルほどあるクレバスの中に落ちてしまうことになったのだった。 地表までの高さは、おそらく10メートルほど。 ネビュラチェーンがあれば、1秒とかからず陽の光の中に戻ることができている高さ(あるいは低さ)である。 が、あいにく、瞬は、その時チェーンを持参しておらず、聖衣も未着用だった。 今回は、もともと『シベリアに春の妖精を見に行こう』と氷河に誘われてやってきたファンタジーツアーだったせいもあって、上着は膝にも届かないハーフコートのみ。 日光の射し込まない地下で、ほとんど身動きも叶わない状況が5分も続くと、さすがの瞬も『寒い』という感覚に支配されることになったのである。 それでも瞬は、小宇宙を燃やすことは いつでもできるのだし、待っていれば氷河がすぐに助けに来てくれるだろうと考え、さほどの心配もせず 気楽に構えていたのだった。 「春の妖精見物がとんでもないことになっちゃった」 陽光が射し込まない場所では、白い雪の壁も 声を跳ね返すほどの硬さを有しているらしい。 瞬の小さな呟きは、微かな木霊となって、どこか遠くに駆けていった。 氷河が見に行こうと言った“春の妖精”――スプリング・エフェメラル――というのは、浅い春のうちに花をつけ、夏が来る前に消えてしまう花のことである。 イチリンソウ、ニリンソウ、ユキワリイチゲやセツブンソウ――。 「シベリアでは、春先に見付けた花の数だけ、その年 幸せに巡り会えると言われているんだ」 そう氷河に言われた瞬は、昨日、素敵なゲームに挑戦する気分で、スプリング・エフェメラル探しの作業にとりかかったのだった。 だが、まだ雪の残る大地に、雪と同じ色の花を、瞬はなかなか見付け出すことができなかったのである。 対照的に氷河は手慣れたものだった。 雪が解けてできた小さな窪みを、彼は目ざとく幾つも見付け出し、指差す。 指し示された場所に瞬が駆けていくと、底だけが茶色い雪の窪みには必ず 可憐な白い花が咲いていた。 「俺が見付ける幸せは、おまえのものでもあるだろう」 結局 自力では春の妖精を一つも見付けることのできなかった瞬に、氷河はそう言ってくれたのだが、そうであればなおさら、瞬は、自分が見付けた幸せを二人のものにしたかった。 今日こそは、自分の力で見付けてやると意気込んで、氷河を残し 一人で先に外に出たのが間違いのもと。 そして、後悔しても後の祭り。 とはいえ、瞬は、この事態を深刻に憂えていたわけではなかった。 ログハウスを出る時、氷河には声をかけてきたし(もっとも彼は その時まだベッドの中にいたのだが)、自分たちには小宇宙という便利な連絡ツールもある。 この雪の壁の間で氷河を待つのは、長くても せいぜい10分か20分くらいのものだろうと、瞬は踏んでいた。 静かにここで待っていれば、雪の上に残してきた足跡を頼りに、氷河がすぐに救いに来てくれるだろうと。 だが、その2倍の時間が過ぎても3倍の時間が過ぎても、瞬は 仲間の姿を捜しにきた氷河の気配を感じとることができなかったのである。 仲間がこんな災難に見舞われていることに、氷河が気付いていないということがあり得るだろうか? 「氷河ーっ!」 不安にかられて、瞬は初めて 声をあげ、地上に救援を求めた――氷河の名を呼んだ。 その瞬の許に、 「下に誰かいるのか」 という、ロシア語の返事が返ってきたのは、瞬が氷河の名を呼んだ数秒後。 クレバスの中には、瞬が発した声の木霊がまだ残っていた。 間違いなく氷河の声。 氷河はすぐそこまで来てくれていたのだと、どういう作用でか 自分は氷河の気配を感じとることができずにいただけだったのだと考えて、瞬は安堵の息を洩らしたのだった。 「氷河、僕、ここだよ!」 「待っていろ。今、引き上げるものを用意する」 「うん。ごめんね」 日本語を公用語にしている二人の間で ロシア語を使い続ける氷河を訝りはしたが、それでも耳慣れた氷河の声は、瞬の心を安んじさせてくれたのである。 氷河が気付いてくれたのであれば、もう大丈夫。 幸せをもたらすはずの春の妖精を探しにきて凍え死ぬなどという、笑えない結末を迎えることは どうやら避けることができそうだと。 クレバスの下で、瞬はそれから更に20分ほど待つことになった。 氷河が聖闘士になるための修行の拠点としていたログハウスまで、普通の人間なら徒歩で10分ほど。 聖闘士である氷河の足で あの家まで戻り、ロープを見付けてクレバスの場所にやってくるまでの待ち時間として、それは妥当なものだった。 氷河に見付けてもらえないのではないかという不安は消えていたので、瞬は それをさして長い時間だとも感じなかった。 まもなく、地上からロープが下りてくる。 少し長さが足りなかったが、それは 跳躍すれば掴めるところまでは 下りてきていたので、瞬は、その場で1メートルほど飛び跳ねて、氷河如来が垂らしてくれた救いの蜘蛛の糸を掴んだのである。 瞬がロープと思ったものは、だが、ロープでも蜘蛛の糸でもなかった。 それは 動物の皮をなめした細い紐状のものを何本か結びつけて長さを増した、急ごしらえの救援ツールだった。 これは何だろうと訝りかけた時、瞬の身体は既に地表に引き上げられていた。 「大丈夫か。いつから あんなところにいたんだ」 「氷河、やっぱり朝寝坊は治した方がいいよ。僕が凍え死ぬのと、氷河がベッドから起き出して 僕のところに来てくれるのと、どっちが先になるのかって、僕、本気で心配しちゃった」 そんな冗談を言って、瞬が氷河に抱きつく。 途端に、瞬の上に降ってきたものは、 「無礼者!」 という叱責の声だった。 「え?」 氷河の首に両腕を絡めたまま、瞬は ぱちくりと瞬きをすることになったのである。 叱責の声は、瞬の背後から聞こえてきたのだ。 「何という礼儀知らずな」 「いったい どこの小娘だ。奇妙な服を着ているな」 しかも、その声は一つだけではなかった。 どうやら氷河は、クレバスに落ちてしまった仲間を引っ張りあげるため、他に救援を頼んだらしい。 瞬は慌てて、氷河の首に絡めていた腕を解き、氷河から離れたのである。 そして、後ろを振り返った。 もちろん、ドジな外来者の救助に力を貸してくれた人たちに礼を言うために。 残念ながら、瞬は、親切な救助隊員たちに礼を言うことはできず、逆に 口にしかけていた礼の言葉を、喉の奥に押し戻すことになったのだが。 瞬が振り返った そこには、馬が4頭と見知らぬ男が3人いた。 馬は その背にウェスタンともブリティッシュとも違う、見慣れぬ形状の鞍をつけている。 男たちは、昔 観たロシアの古い映画に出てきた貴族のような出で立ち――膝下まである ぶ厚いオーバーコートの上に赤い帯を結んでいる――をしていた。 自分は歴史映画のロケ現場に紛れ込んでしまったのかと驚き、息を呑んだ瞬の耳に、 「まあ、よいではないか。悪気があってのことではないだろうし。私はこの子にとって命の恩人ということになる。諦めかけていた命を救われて感極まったのだろう」 という、氷河の声が届けられた。 それは氷河の だが、氷河の 「軽くて手応えを全く感じなかったから、妖精でも釣り上げたかと思ったぞ。名は何という? 一人で外を歩き回っていられるということは自由民だな。ここが誰の領地かわかってるのか?」 「……」 “自由民”とは、普通、“奴隷”の対義語として用いられる言葉である。 いったいなぜ そんな言葉を氷河の声が語るのかと訝りながら、それ以上に、なぜ氷河が自分に名を問うてくるのかと疑いながら、瞬は後ろを振り返った。 悪い予感を感じていたせいで、ことさらゆっくりと。 |