その日の夕刻、ラーリン公爵が上機嫌だったのは、自分の求婚を他人任せにして出掛けていった狩りの首尾が上々だったからのようだった。
今日は、毛並みのいいウサギとキツネを2頭ずつ 仕留めることができたらしい。
例の好事家垂涎のアンティークチェアーに腰をおろし、今日の狩りの様子をひとしきり語り、腕のいい職人に おまえのためのマフを作ってやろうと得意げな顔で言ってから やっと、
「ところで、イラリオノフ家のオリガ姫はどんなだった?」
と、彼は瞬に尋ねてきた。
彼の人生と生活における物事の優先順位はどうなっているのかと、瞬は胸中密かに嘆くことになったのである。

「恋に憧れている健気な姫君です。なかなか聡明そうで、気立ても悪くはないと思いました。はきはきしていて、お話していて とても楽しかったですよ」
「ふん?」
悪い報告をしたつもりはなかったのに、それまで機嫌のいい子供のように楽しそうにしていた公爵が、急に 詰まらなそうな顔になる。
自分は何か この時代の女性の美徳に反することを言ってしまったのかと、瞬は少々狼狽した。
実際のところはそうではなかったらしい。
瞬は この時代の女性の美徳に反することを言ってしまったのではなく、肝心のことに言及しそびれただけ(?)のようだった。

公爵は、つまり、瞬がオリガ姫の容姿のことに触れなかったので、瞬の報告を オリガ姫の容姿に関する情報を隠蔽するためのものと解したらしい。
「まあ、おまえより美しい娘というのも、そうそういないだろうが」
人物評というものは、まず見た目から入るものという 洋の東西・時代を問わない常識を、瞬は遅ればせながら思い出すことになったのである。
日本でも この手のことは、見合い写真と釣り書きから入る。
だが、それは彼が直接オリガ姫に会いに行けばわかること。
それをしなかったのは彼自身ではないかと、瞬は公爵に対して 軽い憤りを覚えたのである。

「あなたは、姫と姫のお父上が それでいいと言ったら、顔も知らない姫君と結婚するの」
「そうなったら、いちばん面倒がないな」
「あなたは 誰かを好きになったことはないの」
「おまえは好きだ。私を恐がっていない。私はすぐにおまえの首を切ることもできるのに、おまえは そんなふうに平気で言いたいことを言う」
彼の言う『首を切る』は『お役御免』という意味ではないだろう。
彼が本当にそんなことをするとは思えなかったが、実際に そうしても罪に問われない特権を、彼は有しているのだ。
彼自身を恐いとは思わない。
しかし、そんな特権が当たりまえのこととして まかり通る社会を、瞬は恐いと思った。

「おまえは、私に変にへりくだったりもしない。追従ついしょうの一つも言わないな。世辞の一つや二つ、言って損をすることもないのに」
瞬の正直を許す彼は、もしかしたら この時代の大貴族・大領主としては特異で、奇矯ですらあるのかもしれない。
「僕は……口下手なんです」
瞬の弁解を聞くと、
「実に上手・・な言い逃れだ」
彼は、笑って そう言った。
そうしてから、ふいに真顔に戻って――彼は思いがけないことを瞬に尋ねてきた。

「おまえはどうなんだ」
「え?」
「好きな奴がいるのか」
「――います」
どこの誰とも知れない馬の骨の正直を気に入ってくれているらしい人に、嘘を言うのは気が咎める。
瞬が正直に答えると、彼は、実に妥当な・・・次の質問を繰り出してきた。
「どんな娘だ」
そう訊いてから、
「娘だろうな?」
と訊き直す。
彼の前で正直者でいたかった瞬は、その質問には答えなかった。

「顔だけなら、あなたに似ています」
「からかうな。私はオーシーノを演じるつもりはないぞ。観客もいないのに」
「あ、そんなつもりはないの。本当にそっくりだから――」
氷河にそっくりな顔を、彼が僅かに歪める。
自分の好きな相手が『娘ではない』ことが ばれたかもしれないと、瞬は思った。

「顔だけか?」
「性格にも似ているところはあるけど……価値観はかなり違うみたい」
「性格など、何の意味があるのだ。当然貴族だな? 地位は? 領地はどれほどのものなのだ」
「地位なんてありません。氷河が土地を持ってるなんて話、聞いたこともない」
身ひとつで突然 彼の領地に現れた奇妙な子供を、彼は他の貴族の領地から逃れてきた農奴の類とは思っていなかったらしい。
瞬の好きな相手を『当然、貴族』と決めつけているところを見ると、彼は瞬を 親に反抗して家出をしてきた貴族の子弟くらいに考えていのかもしれなかった。

「おまえの好きな相手というのは、まさか農奴なのか」
そう尋ねてくる彼の声の響きには、隠しようもない意外の念が含まれている。
瞬は、そのことに、あえて気付かぬ振りをした。
「何も持っていない自由民ってとこかな。氷河の主人は氷河だけ。でも、いつもとても優しくて、僕を好きだって言ってくれる。それがいちばん大事なことでしょう」
「少しも大事じゃない」

おそらく この時代の貴族としては かなり奇矯(ある意味、進歩的)な考えの持ち主と思われるラーリン侯爵が、おそらく この時代の貴族としては あまりに一般的な意見を躊躇なく明言する。
ある一人の人間が貴族なのか 農奴なのか、支配する側の人間なのか 支配される側の人間なのかということは、この時代のロシアでは何より重要なことのようだった。
その重大事に比べれば、
「男なのか。おまえの恋人は?」
ということは、大して深刻な問題ではないのかもしれない。
「他に思い人のいる者を征服するのも楽しいかもしれんな」
そう言って、彼の前に立つ出自の不明な子供の腕を捕えようとした彼の手は、半ば以上が戯れでできているようだった。

彼が本気でそんなことを考え、実行に移そうとしたのだとは思えなかったが、もちろん 瞬はすぐに身を翻して、彼の手から逃れたのである。
軽く1メートルほど後方に飛びすさって。
彼は やはり本気ではなかったのだろう。
生殺与奪の権を持つ者の意に逆らった子供に憤った様子もなく、彼は ただ瞬の身軽さに驚いて、瞳を大きく見開いた。

「おまえは本当に妖精なのか」
「いいえ」
「逃げるのは恋人のためか。私に逆らうと、殺されるかもしれんぞ」
「僕は、僕の氷河じゃない人と、そういうことはしない。あなたが僕の命を奪う権利を持っているのだとしても、僕の心までは変えられない。あなたは そうすることができる力までは持っていない」
「……」

大貴族と農奴制によって成り立っているロシア帝政下、領主である貴族の力は絶対である。
瞬が彼に逆らうことができたのは、瞬が尋常の人間には持ち得ない力を持つ聖闘士だからではなく、瞬が21世紀の自由主義社会の価値観を持つ人間だからだった。
そうであることが、瞬には わかっていた。
1762年。ロシア宮廷の きな臭さを敏感に察知してペテルスブルクから遠く離れた自領に戻ってきた彼は、その勘のよさで、瞬がどこか普通の人間ではないことを感じとっているらしい。
絶対的支配者である彼の意に逆らった瞬を、彼は いささかも咎めようとはしなかった。
代わりに彼は、彼が腰掛けていた椅子の背もたれに身体を預け、静かな眼差しで瞬を改めて見詰め、低く呻くように、
「羨ましい……」
と呟いた。






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