「何も起こらなかったら、すぐに引き上げるからな。そして、ずっと私の側に置くんだ」
瞬がはまって・・・・いたクレバスのある場所に向かう途中の馬上で、公爵は幾度も瞬にそう言った。
シベリアの大地は、相変わらず、その9割が白い雪で覆われている。
頭上には晴れた青空。
東に青白く霞む山、南に針葉樹の林。
林は、南側だけでなく西側にまで広がって・・・・いる。
見覚えのある場所で馬をおりた瞬は、そこで 氷河のいる世界につながっているのかもしれない雪の裂け目を見付けた。

「本当に、この下に飛び下りるつもりなのか? 私を置いて、行ってしまうというのか?」
氷河と同じ瞳をした公爵が、あまりに不安そうな声で言うので、瞬は困ってしまったのである。
「公爵は、きっと これから うんと幸せになれるよ。そんな子供みたいな顔しないで」
公爵に そんな心細そうな顔をされてしまっては、もしこのまま氷河の許に戻ることができなかったらどうすればいいのかと、おちおち不安になってもいられない。
まるで氷河のような この駄々っ子をどうしたものかと困惑し、瞬がその視線を雪の上に逃がしかけた時。
瞬は、自分の足元から5メートルほど離れた場所に、小さな窪みがあることに気付いた。
小さな白い花が隠れている窪みに気付いたのである。

「見付けた! 春の妖精だ!」
この幸せの花を、氷河そっくりの公爵に。
そう考えて、白い妖精が隠れている窪みの許に駆け出した瞬の耳に、ふいに、
「瞬、ありがとう」
という公爵の微かな声が届けられた。
「え?」
まだ『この花の幸せを公爵にあげる』と言葉にしてはいなかったはずなのに――と訝って、後ろを振り返った瞬は、そこに、一瞬で若返ってしまった公爵の姿を見い出すことになったのである。

「ついに見付けたのか。執念のたまものだな。この辺りには ところどころにクレバスがあるから、一人では行くなと 言っておいただろう。慌てて飛び起きてきた」
「あ……」
アルセーニ・ラーリン公爵にそっくりの金髪の青年は、本当に慌ててベッドを飛び出てきたらしい。
そして、全速力で駆けてきて、たった今 この場に到着したばかりだったらしい。
聖闘士である彼が、まだ肩で息をしている。
つまり、こちらの世界では、たったそれだけしか時間が経過していない――ということのようだった。

「氷河!」
足元の雪を蹴って、瞬は 氷河の胸に飛び込んでいった。
弾んだゴムマリのように自分の胸に飛び込んできた瞬の身体を、氷河が身じろぎもせず受けとめる。
それでも、突然の瞬の振舞いには驚いたのか、氷河は瞬の髪に唇を押しつけながら、
「何だ? 自分で春の妖精を見付けられたのが、そんなに嬉しかったのか? 俺の見付けた幸せは おまえのものでもあると、昨日あれほど言ったのに」
と言って、呆れてみせた。

「うん、そうだね。氷河の幸せは僕の幸せで、僕の幸せは氷河の幸せ。人は一人だけでは幸せになれないんだ」
二人の幸せのために、瞬は瞬の務めを瞬なりに精一杯 果たし、そして、氷河の許に戻ってきた――戻ってこれたのだ。
最後に聞こえたラーリン公爵の声。
あの声は、おそらく、突然 目の前で消えてしまった奇妙な春の妖精に、彼が告げた感謝の言葉だったに違いない。
彼に母の愛を取り戻させ――それは最初から彼の手の中にあったものだったのだが――不思議な子供は ふいに消えてしまった。
公爵は、少しずつ春の気配を帯び始めている虚空に向かって、『ありがとう』と囁いたのだ――。
そうだったのだろうと、懐かしい氷河の胸の温もりの中で、瞬は思ったのである。






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