「ほう。そう訊いてくるということは、おまえは 自分が瞬に信じられているという自信がないということか」
「……」
図星をさされた(らしい)氷河が、紫龍の反問にむっとした様子で、きつく唇を引き結ぶ。
氷河のその態度に、紫龍はますます意外の感を強めることになった。
「まあ、素直に考えれば、『おまえを信じているから』だろう。だが、瞬は『信じる』以前に『疑うことに罪悪感を覚える』タイプの人間でもあるから、事実はそう簡単なことではないかもしれないな」

低レベルでも面白い事象・興味深い事柄というものが、この世にはある。
その事実に気付いたらしい星矢は、身を乗り出すようにして、氷河と紫龍のやりとりに口を挟んできた。
「あのさ、第三のパターンもあるぜ。瞬が、他の女に氷河を取られても仕方がないって諦めてるパターン。瞬ならありそうだと思わないか?」
それは、いかにも星矢らしく、『たった今、野生の勘で思いつきました』と言わんばかりの意見だったのだが、星矢が告げた第三のパターンには紫龍を首肯させるだけの説得力があった。
「なるほど。その可能性は大きいかもしれないな。瞬ならそうかもしれない。人が羨むような資質と容姿に恵まれているというのに、瞬は驚くほど うぬぼれのない人間だからな。自分を過小評価しているから、欲を持たず、諦めも早い。瞬が諦めが悪いのは、地上の平和の維持や、自分以外の人間の命の存続に関わることに限られているように思う」
「だろだろ。絶対、そのパターンだって」
「しかし、氷河を他の女に取られても仕方がないと諦めているパターンというのは、言ってみれば、第二のパターンのバリエーションだ。瞬は、簡単に諦められる程度にしか氷河を好きではない、その程度にしか氷河を必要としていないということだ」
「あ、そっか。そういうことだったんだ。なーんだ。わかってみれば簡単なことじゃん」
「――」

勝手にそう・・と決めつけられたことに憤ったらしい氷河が、口を への字に引き結ぶ。
氷河は意地でもそう・・と認めたくないらしいのだが、その氷河自身が、それを“ありそうなこと”と思わないわけにはいかないでいるようだった。
「俺は、俺を信じている。俺は、瞬だけが好きだ。瞬以外の人間は、そこいらへんに転がっているカボチャ程度にしか思っていないし、もちろん よそ見も目移りも浮気もしない。瞬一筋だ。しかし、俺が瞬に信じられているという自信は全くない」
「では、おまえは、この状況は 第二か第三のパターンに当たる状況で、だから自分は 瞬に焼きもちを焼いてもらえないのだと思っているというわけか」

紫龍に問われた氷河は、彼に否定の答えを返さないことで、仲間の その言を肯定した。
彼にしては潔く自分の弱い立場を認める氷河を、星矢が物珍しげに見やる。
だが、それが事実だというのなら、これは さほど困難な事態ではないと、星矢は思ったのだった。
「なら、おまえが他の女に走らなきゃいいだけのことじゃないか。おまえが、瞬一筋でいればいいだけ。瞬は、来る者拒まず、去る者追わずな奴だから、自分から おまえを追っ払ったり、おまえを避けたり、おまえから逃げたりはしねーよ」
「うむ。瞬は律儀だからな。おまえの強引さに負けて結んだ恋人関係でも、約束は約束と考えて、貞操義務は遵守するだろう。おまえの望みが、瞬との関係の維持継続だというのなら、それはおまえの心掛け次第というわけだ。瞬が焼きもちを焼こうが焼くまいが、そんなことには何の意味もない」

星矢と紫龍の言うことは至極尤も。これ以上ないくらいの正論だった。
氷河の望むものが 瞬との関係の維持継続だけであったなら、確かに彼は この状況にどんな不満を抱くこともなかっただろう。
彼の望みが 瞬との関係の維持継続だけでなかったから、氷河はこの事態に大いに不満を感じていたのだ。
「そうは言うが、嫉妬や焼きもちの類は、恋の最大のエッセンスだろう。悋気は恋の命とも言う。焼きもちは恋の最大の楽しみ、醍醐味だ」
「焼きもちが恋の最大の楽しみって、ほんとにそうかぁ?」
「もちろん、そうだ」
恋がどんなものなのかは知らないが、それでも恋の楽しみはもっと別のところにあるものだろうというのが、星矢の考えだった。
その考えを、恋のど真ん中にいる氷河が きっぱり否定する。
星矢は、恋の当事者である氷河に、疑わしげな視線を投げることになった。

「でも、こればっかりは――」
「だから、俺は、俺のせいで焼きもちを焼いている瞬を見てみたいんだ」
「……」
『氷河はそんな馬鹿な事態を喜ぶような男だったろうか?』と、星矢は自分自身に問いかけてみたのである。
『氷河は、絶対に、そんな面倒な事態を喜ぶような男ではなかった』と、すぐに星矢の中の星矢が答えてくる。
『氷河という男はどういう男か』と人に問わかれたら、星矢は、十中八九 質問者に対して、『何事にも不精な面倒くさがりや』と答えていただろう。
その氷河が、自ら面倒事の勃発を望んでいる。
星矢には それは、まさに“ありえない事態”だった。

「もしかして、おまえら、もう倦怠期なのか? だから、何か刺激がほしいとか? なんで、平和なフーフ生活に、自分から波風立てるようなこと望んだりするんだよ。おまえ、アホなんじゃねーか?」
身も蓋もない星矢の評価に、紫龍が苦笑する。
星矢の主張は確かに正論だが、それは やはり恋を知らない人間の考え方だろう。
そもそも恋などというものは、正論・正道から最も遠く離れた場所にあるものなのだ。
正しい恋、理性的な恋など、恋の風上にも置けないものなのである。
「まあ、氷河にしてみれば、自分が瞬に愛されている確証が欲しいということなんだろう」
「確証も何も、瞬は、別にそれほど氷河のことを好きなわけじゃないだろ。俺、今日の夕飯 賭けてもいいけど、氷河が誰かと浮気したって、浮気どころか本気になったって、瞬は氷河を責めたりしないと思うぜ。瞬って、そういうこと できる奴じゃねーもん」
「星矢。そのあたりでやめておけ」

実に気軽な口調で 残酷に断言する星矢の前で、氷河が言葉を失う。
恋をしていない人間というものは、どうしてこうまで冷静に正しい判断ができるのか。
それが あまりに“ありそうなこと”すぎて、あまりに 正鵠を射た推察に思えて、紫龍は正直、氷河に同情の念を抱いてしまったのである。
とはいえ、ここで氷河に落ち込まれても困るだけである。
紫龍は急いで 新たな問題を提起して、“落ち込む余裕”を氷河から奪う作業にとりかかった。

「しかし、これはなかなか難しい問題だぞ。どうしても瞬に焼きもちを焼かせたいのなら、おまえは――そうだな。第一のパターンなら、おまえに愛されているという自信を瞬から奪い、おまえへの不信感を植えつけて、瞬を不安な状態にしなければならない。第二のパターンなら、瞬がおまえなしでは生きていられないと感じるようにするべく、おまえ自身を磨かなければならない。第三のパターンなら、まず瞬に自信と欲を持たせるところから始めなければならない」
「確かに対応は難しいだろうな。第一のパターンと第三のパターンじゃ、対応方法が真逆だし。瞬が焼きもちを焼かないのは どのパターンなのかを見誤ると、とんでもないことになりそうだぜ。ま、99パーセントの確率で、第二のパターンか第三のパターンだろうと思うけど」

第二のパータンと第三のパターンの意味するところは、つまり、『瞬は氷河に対する執着心がない』ということ。
星矢は そうなのだと決めつけているようだった。否、決めつけていた。
そのこと自体は問題ではない。
星矢が何をどう決めつけようと、星矢の決めつけが“事実”とリンクするわけではないのだから。
問題は、星矢に そこまで言われても、氷河が 一向に反撃の態勢を見せないことだった。
それほど氷河が、星矢の決めつけを“ありえそうなこと”だと思っている(らしい)ことこそが問題なのである。
それで 氷河が暗く落ち込むことになれば、氷河の気分や言動の影響を受けやすい瞬も、明るい気持ちでいることはできなくなるだろう。
瞬が明るさを失うということは、星矢の快活を上手に受けとめられる者がいなくなるということで、星矢の快活が空回りするようになるということ。
結果として、城戸邸の空気がぎこちなくなり、その居心地が悪くなるということなのである。
紫龍は、可能な限り、そういう事態は避けたかった。

「いや、しかし、こういうことで1パーセントの可能性を無視するのは危険なことだぞ。瞬を そうさせている原因が どのパターンなのかの正しい見極めは何より重要なことだ」
「パターンの見極めが大事なのはわかるけど、でも、どうやって見極めるんだよ」
「それは当然、氷河当人が――」
それは当然、恋の当事者である氷河当人が、客観的な目で瞬を観察し、冷静かつ公正な判断を下すしかあるまい――と、紫龍は思っていた。

が、肝心の氷河は、さきほどからずっと沈黙を守ったままである。
熱烈に恋している相手に 信じられていない(かもしれない)、執着されていない(かもしれない)ということは、基本的に他人の都合や気持ちを意に介さず 天上天下唯我独尊の気がある氷河にとっても、やはり大きなダメージを受けずにいられないことなのだろう。
すっかり自信を失い、覇気を失っている氷河に、『客観的な目で瞬を観察し、冷静かつ公正な判断を下す』ことなどできるわけがない。
それ以前に、今の氷河には その気力がなさそうである。

ひたすら不機嫌そうに沈黙を守っている氷河にちらりと一瞥をくれ、短く吐息してから、紫龍は意を決したように、
「とりあえず、俺たちが瞬に探りを入れてみよう」
と言った。
そう言わざるを得ない状況に、彼は陥ってしまったのだった。

もちろん、紫龍は、氷河の恋の第三者である。
瞬に焼きもちを焼かれたいという氷河の我儘のために、なぜ自分(たち)が働かなければならないのだと苛立つ気持ちもないではなかった。
だが、それとは別に、氷河に言わせれば“恋の最大の楽しみ”であるらしい嫉妬心に縁のない瞬の淡白の原因が第一のパターン、第二のパターン、第三のパターンのいずれなのかということへの興味も、彼の中には ないではなかったのである。

それは星矢も同様だったらしい。
「仕方ないなー。ここはひとつ、俺たちが氷河のために骨を折ってやることにするかー」
星矢は、存外に乗り気な様子で、氷河の恋の成就への協力を明るく宣言した。
そして、その時だったのである。
「何が、99パーセントの確率で第二のパターンか第三のパターンだーっ !! 」
と、城戸邸ラウンジ内に、氷河が 壁も震えるほどの大声を響かせたのは。






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