「というわけで、協力してくれ、絵梨衣。いや、エリス」 その名を呼ばれた途端に、絵梨衣の眉と目がつり上がる。 顔の造作はそのままだというのに、彼女の印象は激変した。 自分のいる場所が、コーヒー 一杯が200円の 極めて お手軽なコーヒーショップだということに気付くと、それでなくても きつい印象が、更に険しいものになる。 他人の身体の居候に落ちぶれ果てたといっても、元は神。それも、争いの女神。 一般人の中に埋没するためとはいえ、この手の店は彼女の気に障ったかと、とりあえず氷河は、思うだけは思った。 もちろん氷河は、争いの女神のプライドを斟酌して今から店を変えるつもりは さらさらなかったが。 絵梨衣の中にエリスの意識が残っていることに 氷河が気付いたのは、彼女が率いていた亡霊聖闘士たちとの戦いに決着がついてまもなくのことだった。 氷河はすぐに その事実をアテナに報告し 邪神の完全消滅を計るべきなのではないかと提案しようとしたのだが、どういうわけか交通事故に合いやすい体質の絵梨衣の身を、エリスが神の力で救う場面を見て、彼は そうすることを思いとどまった。 女神としての実体はおろか、黄金のリンゴを打ち砕かれた今のエリスにとって、絵梨衣の身体は 彼女がこの世界に存在するための唯一の よすが。 絵梨衣の身の安全は、エリスにとって最重要事項。 悪巧みを実行に移すほどの力も もはや有していないエリスは、アテナの聖闘士たちの敵にも人類の脅威にもなり得ない。 それならば争いの女神に、事故を引き寄せる体質の絵梨衣の身を守らせている方が有益というものである。 氷河は、その旨をアテナに報告し、その結果、定期的に絵梨衣を(というより、エリスを)監視し続けることで、既に戦う力も彼女の聖闘士たちも持たない争いの女神を完全消滅させるための騒動を再び起こさない方向で、事態の収拾を計ることになった。 エリスの実体復活の可能性があった時とは異なり、今 エリスを消滅させることは、絵梨衣という何の罪もない一人の少女の命を犠牲にするということである。 アテナも その事態は避けたかったのだろう。 エリスもそれは承知していて、今のところ絵梨衣の身体を操って悪さをするような了見は起こしていない。 『おまえのように、アテナの腰巾着で、その上 甲斐性のない男に絵梨衣を任せるわけにはいかない』と、実に賢明な判断をするエリスに ある種の好感を抱いて、氷河は彼女との奇妙な友人付き合いを、仲間たちには内緒で続けていたのだった。 そのエリスが、氷河の頼み事を聞くや、不愉快そうに白鳥座の聖闘士の前で鼻を鳴らす。 それは、絵梨衣なら決して 人に見せない振舞いだった。 「なぜ この私が、 「何でも好きなものを奢るから、頼む。もちろん、こことは別の店でだ」 「レフェルヴェソンスのディナーを、極上のワインつきで二人分。成人に見えるようにしなければならないから、そのドレス代もだ。ああ、おまえはディナーには付き合わなくていいぞ。男は私が自分で調達する」 極上ワインつきの高級フレンチのディナーを二人分で10万。 エリスが吊るしのバーゲン品で我慢するとは思えないから、食事代程度のドレス代も出さなければならないだろう。 金満家のくせに(金満家だからこそ?)無駄な支出を嫌うアテナの渋面が目に浮かんだが、氷河はエリスの要求を一も二もなく受け入れた。 どうこう言って、金を出すのは氷河ではないのだから、その点 氷河は(他人の金で)太っ腹だった。 「わかった。それくらいなら、聖闘士のモチベーション維持費か 邪神封印のために組んである予算で落とせるだろう」 そんな予算が本当にあるのかどうかは知らなかったが、事は瞬の幸福に関わる重大事。 氷河は予算の有無などという瑣末なことで、問題解決の時を先延ばしにすることはできなかったのである。 かくして、その日その時、瞬の中に嫉妬心を生むための 氷河とエリスの共同謀議は成り、その計画は すみやかに実行に移された。 とはいえ、それは、かつての敵のために労力を使うことは極力避けたいというエリスとの はかりごとである。 氷河が実行に移した計画というのは、瞬の妬心を煽るための“奥義・朝帰り(の振り)”という、極めて陳腐なもの。 エリスの仕事は、瞬から問い合わせが入った時、氷河の奥義に口裏を合わせるだけという、『労少なくして、功多し』の極致といっていいものだったが。 |