「でも、よかった。星矢たちの記憶まで奪われずに済んで」 他に進むべき道があるわけでもない。 結局 瞬たちは、彼女の助言に従ってみることにした。 まずは 地上のハーデス城があった場所に行き、そこで冥界への入口を探すことにしたのである。 彼女が言っていた通り、戦う理由の記憶を奪われたところで死ぬわけではないのだし、とりあえずの目的が定まったことで、瞬の――瞬たちの――気持ちは先刻までのそれに比べると、かなり平静を取り戻しつつあった。 どんな場合でも、“目的”“目標”“理想”といったものは 人の心を落ち着かせる力を持っているらしい。 否、それらの欠如は 人の心を不安にさせるものであるらしい。 当座の目的を得たことで、瞬の中には、現状における“よいこと”を考える余裕のようなものが生まれてきていた。 自分が仲間たちと一緒に 同じ一つの“何か”のために戦っていたこと、自分が孤独な戦士でなかったことを、瞬は憶えていた。 仲間たちと一緒なのであれば、失われたものは必ず取り戻すことができるだろう。 落ち着きだけでなく希望が、今の瞬の胸中には存在していた。 「しかし、俺たちが俺たちの戦う理由を取り戻すことに意味はあるんだろうか」 「え……?」 希望を手に入れた瞬の心からは焦慮と不安が消え、その足取りは比較的 軽快なものだった。 紫龍も、それは瞬と同様だったのだろうが――むしろ、胸中の焦慮と不安が消えたからこそ、彼はそんな問題を提起する余裕を持つことができるようになったのだろうが――ハーデス城に向かう道すがら、突然 龍座の聖闘士が口にした その疑念に、瞬は目をみはることになったのである。 「人間が何のために戦うのかということは、人間が何のために生まれてくのかという問題と 大して変わらないと思う。だが、人間がこの世に生まれてくる理由なんてものは、本当は存在しないんだ。それは それぞれの人間が自分で見付けるものであり、自分で決めるものであり、自分が作るものだ。無論、正答といえるものもない。だとしたら、俺たちは 過去の記憶を取り戻すことより、新しい目的を探す方がいいのかもしれないと思わないでもないんだ。俺たちが失ったものは、必ずしも正答といえるものではなく、普遍性や永続性を持つものでもないんだから」 「紫龍……」 「それに、俺たちは今、俺たちが戦う理由だったものの記憶を失っている。もし、その記憶の花園とやらで俺たちの記憶らしきものを見付けることができたとしても、それが本当に俺たちの戦う理由だったのかどうかを確かめる術も、俺たちは持っていないんだ。ならば、むしろ――」 むしろ、新しい“理由”を見付け、決め、作った方がいいのではないか――。 そう考える紫龍の迷いは、瞬にも わからないではなかった。 しかし、瞬は、取り戻すことは無益なのではないかと紫龍が疑うものを、どうしても取り戻したかったのである。 「それは――僕たちが何もかも すべてを忘れてしまっているのなら、そうすべき――ううん、そうするしかないと思う。でも、僕は――僕たちは、他のことは憶えているんだ。みんなで一緒に その“何か”のために命がけで戦ってきたことを。忘れてしまったものを、忘れてしまったからといって放棄するのは、僕たちのこれまでの戦いと戦ってきた時間を無意味なものだったと断じることのような気がして、僕は嫌なの。失ったものを取り戻して、僕は、それの価値を確かめてみたい。確かめて――取り戻した“理由”に納得できなかったら、それを放棄して、新しい理由を探すのもいいと思う。……氷河はどう思う?」 当座の目的が見付かったことを喜び、迷いもなく前進している星矢には、それは改めて訊くまでもないことのような気がしたので、瞬は 自分のもう一人の仲間――氷河――に意見を求めた。 「あ……? ああ、そうだな……」 問われた氷河が、妙に歯切れの悪い 曖昧な返事を、何かぼんやりしたような目をして返してくる。 それが、仲間たちの考えと違うものでも同じものでも 自分の考えは いつもはっきり言ってのける氷河らしくない態度だったので、瞬は その首をかしげることになったのである。 そんな瞬を見詰め、氷河が ひどく戸惑っているような様子を見せる。 まるで たった今 生まれてきたばかり赤ん坊が その目に初めて映る世界に驚き、その広さ 不思議さに戸惑っているような眼差しを氷河に向けられて、瞬は――瞬こそが戸惑うことになってしまったのだった。 「氷河? どうしたの? 何か別の考えがあるの?」 そういえば、戦う理由の記憶を失った時から これまで、氷河は ほとんど口をきいていなかった。 大きな問題が何も起きていない日常の中で、不機嫌から――あるいは、詰まらぬことを語りたくないという考えから――氷河が無口になることは これまでにも しばしばあったが、今は平時ではなく有時である。 こういう状況下で 彼が彼の意見を主張しないという事態は、実に奇妙なことだった。 「あ……いや、俺は……俺も……自分の意思で放棄したというのなら ともかく、外部からの力によって無理矢理 奪われたものは取り戻した方がいいんじゃないかと思う。……取り戻したい」 氷河にしては どこか心許なさの感じられる口調だったが、ともかく彼は 失われた記憶の奪還には賛成であるらしい。 「……そうだな。それを諦めることは、確かに、これまでの俺たちの戦いを無意味なものにしかねない行為だな。神の身勝手に唯々として流されるのも癪だ」 紫龍が瞬と氷河の意見を ともあれ、それで青銅聖闘士たちは改めて、記憶の花園なる場所に彼等を導く道を探す決意を固めたのだった。 |