外部からの力によって奪われたものを取り戻した充足感もあって、冥界から地上に戻るまでの帰路は楽しかった。
『風邪をひいている人間が かからない伝染病が蔓延する世界で、風邪など ひきそうにない聖闘士が生き延びるためにはどうしたらいいか』『細かいことにこだわる人間が大嫌いな宇宙人が地球を支配することになった時、どうすれば人は大雑把な人間を装うことができるか』等のテーマについてのディスカッションは興味深かった。

だが、アテナの聖闘士たちの その楽しい気分も、アテナのいる聖域に入ると、よりにもよってアテナの聖闘士たちがアテナのことを綺麗さっぱり忘れていたことへの罪悪感で、さすがに翳ることになってしまったのである。
ゆえに、勝手に聖域を出ていた事情を説明謝罪するために赴いたアテナ神殿で、当の女神アテナに、
「あら、帰ってきたの。記憶探しのお散歩は楽しかった?」
と軽快に言われた時には、アテナの聖闘士たちの表情は複雑怪奇を極めたものになってしまった。
アテナはどうやら、記憶の女神の所業を承知していたらしいと悟るに至り、聖闘士たちが胸中に抱えていた罪悪感は そのままアテナへの憤りにすり換わることになったのである。

「俺たちがアテナの記憶を奪われたことを知ってたのに、放っといたのかよ? アテナが目の前に現われたら、俺たち、一発で忘れたことを思い出してたかもしれないのに!」
「なに言ってるの。白雪姫のお父さんが悪い魔女と再婚する前に白雪姫が王子様と結ばれてしまったら、それこそ話にならないでしょう。様々な試練を乗り越えたあとに迎えるハッピーエンドだから、彼女が手にした幸福には意味があるのよ。可愛い子には旅をさせろって言うじゃない」
「沙織さんのおっしゃることにも一理はあると思いますが、しかし、俺たちがお散歩・・・に出ている間に敵襲があったら、どうするつもりだったんですか」
“可愛い”聖闘士たちに、もしかしたら せずに済んだかもしれない苦労をさせておきながら、その行為を平然と正当化してのけるアテナ。
そんなアテナに、もちろん彼女の聖闘士たちは 思い切り反駁したのだが、彼等の女神は それを柳に風と受け流した。

「だって、彼女が、これは人類が生き残ることができるかどうかを占う試みだと言うんですもの。おかげで、私は素晴らしい成果と確信を得たわ。私を失っても、あなたたちは必ず生き延びて、あなたたちの戦いを続けてくれるって。あなたたちは、いついかなる時も、どんな状況におかれても、問題解決のために希望を捨てずに、希望を見付け出し、前進してくれるんだって。そう確信できて、私は、ヒナ鳥の巣立ちを見守る親鳥のような気持ちになったわよ」
アテナは彼女の聖闘士たちが どんな文句を言い募ろうと、『これは必要なことだった』と結論づけてしまうだろう。
紫龍は、結局 アテナへの反駁を諦めるしかなくなった。
代わりに、溜め息と共に低く ぼやく。

「だが、生き延びるのは氷河だけかもしれない」
「あ、それは大丈夫だろ。そんな事態になっても 氷河は瞬を守ろうとするだろうし、瞬は、氷河に、俺たちも守れって言ってくれるから。いや、人類全部をか。瞬にそう言われたら、どうしたって 氷河は 瞬の望みを叶えるために頑張るしかないわけだし」
「それで、最終的に人類は氷河によって救われることになるのか。実に感動的で 世も末な話だ」
爪の先ほどにも感動していない口調の紫龍に、星矢が両の肩をすくめる。
瞬は困ったような顔になり、氷河は不愉快そうに、だが泰然自若。
アテナだけが、嬉しそうな微笑を浮かべていた。
恐ろしいことに、全く邪気も悪気もない微笑を。

「“アテナ”は象徴にすぎないのよ。私に関する記憶を取り戻すことができなくても、あなたたちは あなたたちが戦う新しい理由を見付けると、私は確信していたわ。それは、私でなくてもいいの。恋人でも、仲間でも、見知らぬ他人、すべての人類でもいい。あなたたちの戦う理由が何であれ、それはあなたたちの愛を具現した何か、あなたたちが愛を向ける何かであるに違いないと、私は信じているわ」
さすがは、聖域と 聖域のすべての聖闘士を統べる女神アテナ。弁舌が達者である。
彼女の主張が確かな事実なのだろうと思えるせいで、アテナの聖闘士たちは 大人しく彼女の言葉を受け入れることしかできなかった。

「でも、誤解しないでいてあげてね。記憶の女神は、邪心を持つ神ではないのよ。本当は、人の大切な記憶を守る女神だし、決して 人の命は奪わない神。愛って、記憶の積み重ねによって生まれ強まるものでしょう。たとえ失われても、生きている限り、人は新たな記憶を生み、蓄積していく。そうして、結局、人は誰かを愛するようになるのよ」
アテナの聖闘士たちは、そして、どれだけ人が悪くても、うんざりするほど口が巧くても、彼女を嫌いになることもできなかったのである。
彼女が、人間以上に 人間の持つ愛を信奉していることを知っていたから。

「そういえば、氷河は瞬に二度惚れしていたな」
「瞬に関する記憶を丸ごと奪われたくせに、即座に瞬に二度惚れなんて、おまえ、よっぽど 瞬が好みのタイプなんだな。キグナス氷河様は、瞬のどこがそんなに お気に召してるんだ?」
「綺麗で優しい目」
「え……」
照れる様子もなく、問われたことに、氷河が即答する。
氷河のその答えに、瞬は ぽっと頬を上気させ、星矢と紫龍は うんざりしたような顔で毒づくことになった。

「おまえ、ほんとに臆面もなく、よく言えるな!」
「あの記憶の女神が、いっそ俺たちから白鳥座の聖闘士の記憶を奪ってくれていたらと思うぞ」
「紫龍ってば、それはいくら何でも言いすぎだよ。それに、もしそんなことになっても、朴達はきっと――」
たとえ紫龍の言うように、記憶の女神がアテナの聖闘士たちから氷河の記憶を奪ったとしても、アテナの聖闘士たちは その瞬間から氷河に対する新たな記憶を積み重ね始め、最後にはアテナの聖闘士たちは元の仲間同士に戻るだろう。
瞬は、そう思ったのである。
そして、その点に関しては、星矢も、当の紫龍も同じ未来を想像しているようだった。


記憶の女神は、結局、アテナの聖闘士たちを この地上から消し去ることはできなかった。
だが、アテナの聖闘士たちは 自分たちが彼女に勝利したのだと思うことはできなかったし、彼女もまた、自分がアテナの聖闘士たちに敗北したのだとは考えていないだろう。
アテナの聖闘士であったことを忘れた者たちが 再びアテナの聖闘士になることができたのは、彼女が司る記憶の力あればこそだったのだから。
記憶の女神は、その力を駆使するまでもなく、いつ いかなる時も すべての人間を支配する勝利者なのだ。

既に人間を支配し、人間たちの上に勝利者として君臨する記憶の女神や愛の神といった者たちは、決して本気で人間に戦いを挑んでくることはない。
なぜなら、それらの神々は、改めて人間に戦いを挑むまでもなく、既に人間を支配し、人間に勝利している者たちなのだから。
海界を支配する神ポセイドン、冥界を支配する神ハーデス。
彼等がアテナの聖闘士たちに――ひいては人類に――戦いを挑んできたのは、彼等が決して完全な勝利者になることのできない神々だからだったのかもしれない。

ならば、人間には――アテナの聖闘士たちには――敵がどれほど強大な力を持つ存在であっても、いつでも勝利の可能性が――希望が――与えられていることになる。
戦いは絶えないかもしれないが、希望もまた決して失われることのない世界。
それが人間の生きる世界というものなのだろうと、人間らしく その胸に希望の光を置きながら、瞬は思ったのだった。






Fin.






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