死んでやるという脅迫が効を奏したのか、瞬は再び俺の前に現われてくれた。
瞬が俺の前から逃げ出して3日が経った日の昼。
幽霊のくせに 怯え二の足を踏んでいるような様子で、瞬はその日は、俺が暮らしている雪原の一軒家のドアの内側に忽然と現われた。
家のドアには鍵なんてものはついてなかったし、俺は先日から気怠さのせいでベッドから起き上がることができずにいたから、瞬がどんなふうに そこに現われたのか、俺は実際には見てもいなかったんだが、幽霊の瞬は幽霊なりの登場の仕方をしたんだろう。多分。
太陽が中天にある時刻だというのにベッドの中でぐずついている俺の姿を認め、真っ青になって慌てる様子は、あまり幽霊らしいものとは思えなかったが。

「氷河、具合いが悪いのっ !? 」
俺はそんなに具合いが悪そうに見えたたんだろうか。
俺がだらしなく横になっているベッドの脇に、瞬は駆け寄ってきた。
俺は本当に子供のやり方ででしか、瞬の気を引くことができないらしい。
『死んでやる』の次が、病気の振りとは。

「俺が死んだら――俺は永遠に おまえと一緒にいられるようになるのか」
「そんな たとえ話はやめて」
「やめたら、おまえはまた俺のところに来てくれるか? これからもずっと。できれば永遠に」
「それは無理だよ」
「じゃあ、おまえは俺を見捨てるのか。……見捨てないでくれ」
「見捨てるなんて、人聞きの悪い」
「俺はおまえと ずっと一緒にいたいんだ」
まるで駄々っ子のようだと、瞬は思ったに違いない。
なにしろ、子供のように駄々をこねている俺自身が、そう思っていたんだから。

だが、駄々っ子は駄々っ子なりに必死なんだ。
特に、俺という駄々っ子は必死だった。
死んだら、俺が行く場所が 瞬のいる場所とは違うんだということはわかっていた。
瞬は罪なき身、俺は罪人。
死ねば、俺たちはもう未来永劫会うことはできない。
だから、多分 これが俺と瞬が一緒にいられる最後の時だ。

俺は その時、本当に具合いが悪かったんだ。
なにしろ、希望のない この世に絶望して、あの世とやらに行くつもりだったんだから。
だから、どうして、いったいどこから、そんな力が俺の中に生まれてきたのか、俺自身にもわからない。
まさか、死んで地獄に墜ちる前に、一度 天国の気分を味わっておきたい――なんて、そんなことを考えたわけでもないだろう。
ただ、これが瞬と同じ場所にいられる最後の時なんだという思いが 強く俺に迫ってきて、その思いは 俺の中で巨大な化け物のように肥大して、やがて それは俺自身にも抑え込めなくなった。
その化け物が 俺の手を動かして、瞬の手を掴ませた。
驚く瞬の腕を引いて、簡素で狭いベッドの中に瞬を引き込み、逃がしてなるかと言わんばかりに乱暴な所作と力で、瞬の身体を押さえつける。

「氷河、放して」
俺の中でリヴァイアサンのように巨大な化け物になった それは、凶暴で、無思慮で、残虐で、理性といえるものを かけらほどにも有していなかった。
瞬の涙混じりの懇願は、化け物に 更なる力を与えるものでしかなかった。
そして、俺には、その化け物を抑え込む力はなかった。
どうすれば その化け物を消し去ることができるのかも わからなかった。

巨大な化け物が瞬の細い身体を押しつぶし、瞬の身体を引き裂こうとしているのを見て、俺は絶望的な気分になった。
せめて瞬の苦しみを少しでもやわらげてやるため、瞬の身体を貪っている化け物に 僅かでも抗するために、俺は懸命に瞬の名を呼び、そして、『おまえが好きだ』という言葉を繰り返した。
醜悪な化け物に押さえ込まれ、舐められ、かじりつかれ、捻じ曲げられ、引き裂かれ、小さな骨の1本も残さぬ勢いで食い尽くされようとしていた瞬の耳に、俺の力ない声が届いていたとは、到底考えられなかったが。

瞬は泣いていた。
尋常の人間には持ち得ない力を持つ聖闘士でありながら瞬を救ってやれない俺を、瞬は、悲鳴と悲鳴の合間に悲しげな瞳で見詰めていた。
そんな瞬の目を見ていられなくなって、かわいそうな瞬を救ってやれない自分がみじめで、俺は俺の目を閉じた。

そうした途端に。
絶望と言う名の俺の中の巨大な化け物が、少しずつ瞬に食われ始めていることに、俺は気付いた。
「あっ……あっ……ああ……っ!」
化け物に身体を引き裂かれ、瞬は、苦しげに悲しげに 嗚咽と喘ぎの混じった小さな悲鳴をあげ続けている。
瞬は、巨大な化け物によって、跡形もなく食い尽くされてしまうしかないだろう。
俺はそう思っていたのに、その巨大で凶暴な化け物は、逆に瞬の力に侵食され始めていた。
まるで 酸をかけられ溶けていく己が身体の焼けつくような痛みに襲われているかのように のたうち苦しみながら、俺の作った化け物は 瞬に食われかけている。
ヤハウェの神ですら 剣を用いずには倒すことのできなかった巨大な化け物が、その激しい苦痛に耐え切れず、暴れまわっている。

こんなことのできる瞬は、いったい何者だ?
死んだ者には、絶望という名の巨大な化け物を 更に大きく育てる力はあっても、その化け物を倒す力などないはずだ。
「氷河、僕、そんなつもりじゃなかったの。僕、氷河を悲しませたり苦しめたりするつもりはなかったの。ごめんなさい……」
あんなに巨大で凶暴になっていた化け物を、今は大人しく小さな飼い犬程度のものに変えてしまった瞬が、涙声で何か言っている。
瞬の小さな飼い犬になってしまった俺は、だが、優しく俺に触れてくる瞬の手の感触が心地良くて、その言葉の意味を尋ねる前に、瞬の体温の中で心地良い眠りの中に落ちていってしまっていた。






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