永遠の命を持つ神々の住まう天界の神殿。 下界にいる有限の命を持つ者たちのほとんどは、それは 天空にそびえ立つオリュンポス山の頂にあると考えているようだったが、それは正しい認識ではない。 オリュンポス山の頂にある荘厳な神殿は、実は天界に続く ごく小さな狭い門にすぎず、神々が実際に その身を置いているのは、オリュンポス山の門の更に先にある、次元の異なる無限の空間だった。 神々は そこに自分好みの世界――ある者は常春の楽園、ある者は海底を模した水中庭園といったような世界――を作り、その世界に 終わりのない自らの命を置いている。 基本的に、互いに干渉し合うことなく。 とはいえ、同じ種族に属する神々が完全に没交渉でいられるわけはなく、接触があれば それぞれに控え目とは言い難い矜持を有する神々のこと、対立や衝突が生じることもある。 そういった時、彼等が争いや 意見の対立の正邪の判断をする場所は、平和で美しい天界ではなく下界だった。 神々が住まう天界は、いついかなる時も秩序と美しさが保たれていなければならないから。 実際、ギガントマキアと呼ばれた巨人族との戦い以降、天界では 誰にも何にも乱されることのない秩序が保たれていた。 知恵と戦いの女神アテナの天界での神殿は、有限の命を持つ者たちが下界に建てた神殿を模したもので、他の神々のそれのように 奇をてらったところが全くないものだった。 水の中にあるわけでもなく、空中に浮かんでいるわけでもない。 無意味に巨大でもなければ、奇抜な装飾が施されているわけでもない。 足で踏みしめることのできる大地があり、身体の大きさに合った部屋がある。 アテナ神殿のある場所は、神ならぬ身の氷河が 落ち着いて時を過ごすことのできる、天界では数少ない空間だった。 その日 アテナの御前に呼び出された時も、ゆえに氷河は 特にその胸中に暗いものも重いものも抱いてはいなかったのである。 アテナの作る世界が気に入り、彼女の神殿の一室を生活の拠点としている氷河には、神からのお召しといっても、それは親しい友人の許を訪ねる行為と さほどの違いもない。 そんなふうに軽い気持ちでアテナの前に立った氷河は、しかし、その場で彼女から とんでもない“頼まれ事”を命じられてしまったのだった。 とんでもない頼まれ事というのは、実際、呆れるほど とんでもない頼まれ事だった。 女神アテナは、天界以外の世界を知らない氷河に、 「氷河。あなた、ちょっと下界に下りて、地獄の王を説得してきてくれないかしら」 と言ってきたのだ。 地獄というのは、オリュンポス山の下方にある世界。 天界の静謐を守りたい神々が、争いの場所として用いることもある、天界の神々にとっては ごみ溜めのような場所だった。 「地獄? 罪人ばかりがいる、あの醜悪な世界にですか? あなたは、俺に そんなところに行けとおっしゃるんですか」 「ええ、そうよ。あなたが綺麗なものが好きで醜いものが大嫌いなことはよく知っています。でもね、地獄の王は、あんな場所を治めている王とは思えないほどの美形で、それは澄んだ瞳の持ち主なの。あなたのタイプよ、きっと」 「……」 そこに美しい真珠があるからといって、我が身を爛れ腐らせるかもしれない汚物の山に嬉々として分け入っていく者がいるだろうか。 そんな勇者がいるとしたら、それは地獄の住人に決まっていると、氷河は思ったのである。 「王がどれほど美形で、俺のタイプだろうと、あんな場所に行くのは俺は御免だ。空気からして腐臭がするようなところだと聞いている。そんなところに一瞬でも身を置いたら、それだけで この身が汚れるような気がする」 「大丈夫よ。あなたの心がしっかりしてさえいれば、あなたが あの世界の邪悪や腐敗に染まることはないわ。なにしろ、あなたは、この私の加護を受けているんですもの」 「……」 アテナの命令を拒むと、その加護の力に不足があると主張することになる。 それは氷河にはできることではなかった。 天界のすべての神々を見知っているわけではなかったが、彼等は氷河という存在を歯牙にもかけず、滅多に その姿を視界に映そうとすらしない。 氷河は、アテナ以外の神々に、その存在を認められていなかった。 そういう意味で、氷河にとってアテナは唯一無二の神だったのだ。 「……なぜ、急にそんなことを言い出したんです。地獄の王に会って、いったい何を説得しろというんだ」 アテナの命令を拒むことができないのなら、アテナがそんなことを言い出した事情だけでも聞いて、その任務にどの程度の熱意をもって当たるべきなのかということくらいは、せめて自分で決めたい。 そう考えて、氷河はアテナに問うたのである。 他の神々なら 神でもない者からの質問など許すことはないだろうが、アテナは 気分を害した様子も見せずに、氷河にそのあたりの事情を説明してくれた。 「天界の神々が、急に、あんな醜悪な世界は滅ぼしてしまった方がいいのではないかと言い出したのよ。地獄の住人たちが、その心と生活態度を改めなければ、あの世界は神々によって滅ぼされてしまうでしょう。だから、まあ、清く正しく美しく生きるように民たちを指導しろと、地獄の王に注進してきてほしいの」 氷河は、アテナの忠告は徒労に終わるような気がした。 地獄がどんな世界なのか実際に見たことはなかったし、その住人たちに直接 接したこともなかったが、氷河は、むしろ綺麗に消え去ってしまった方が 地獄と地獄の住人たちのためにはいいのではないかという考えの持ち主だったのである。 「地獄は独裁制ではなく、個々人の意思の独立が保障されている世界だと聞いている。王が命じたところで、民が言うことを聞くとは思えないが」 「でも、今のまま改善の兆しが見えないようなら、地獄を滅ぼすと神々は言っているのよ。そのことを知らせれば、地獄の王も住人たちも、自分の生きる世界を守るための行動を起こすでしょう。まあ、とにかく直接 地獄の王に会って、地獄の様子を調べて、報告してちょうだい。神々は、とりあえず、あなたから報告があるまで、粛清を待つと言ってくれているから」 アテナは、なぜか昔から地獄と地獄の住人たちの擁護者だった。 地獄を掃除しようと言い出した神々を思いとどまらせるために、彼女は その案を持ち出したに違いない。 言葉にはせず胸中で、氷河は、地獄などのどこがいいのかと思ったのである。 地獄という場所は、神々の間での噂を話半分で聞いていても、汚辱にまみれた世界だった。 もちろん、地獄の醜悪の原因の一つは、自分たちの世界の秩序を守るために、神々が神々の醜さを捨てる場所として地獄を利用しているせいもあったろう。 しかし、自分に益をもたらすと見なした神の名のもとに争いを起こし、卑俗卑劣な振舞いを続けているのは、地獄の住人たち自身である。 混迷と無秩序。腐敗と邪悪。 そんなものだけでできている地獄を、なぜアテナがこれほど愛するのか。 氷河には、アテナの考えが全く理解できなかったのである。 戦いの神であるにもかかわらず極力戦いを避ける知恵を持つ、オリュンポスの神々の中でも特に優れた女神が、もはや救いようもないほど腐りきった地獄に なぜここまで心を傾けるのか。 それは、氷河には どうにも解し難い謎だった。 もともと地獄の住人たちは、神々を崇めるものとして、神々が作ったものだったと言われている。 どの神を崇めるかは彼等の意思で決めさせるために、神々は自分たち同様の自由意思を彼等に与えた。 だが、それが間違いのもと。 彼等は下界に誕生するなり腐敗し始め、今では『あんな者たちに崇められても、神としての格が下がるだけ』と、当の神々までが考えている。 いっそ地獄を一度 綺麗に滅ぼして、今度は自由意思を持たず、盲目的に神々を崇める道具を作りたいというのが、神々の思惑なのだろう。 神々も勝手だとは思うが、自分たちが作った失敗作を自分たちの手で始末しようとする神々の姿勢は、それなりに評価できないこともない。 むしろ それは神々の義務なのではないかとすら、氷河は考えていた。 「説得しても無駄でしょう。地獄は救いようがないほど醜悪で、地獄の住人たちにとっては消滅こそが救いなのかもしれない。神であるあなたと違って、俺の命は有限なんだ。あなたの忠実な 「これが有意義な仕事だと思うから、あなたに頼むのよ」 『ゴミ捨て場の視察が?』と皮肉で切り返しそうになった氷河は、直前でそうすることを思いとどまった。 氷河は神ではなく、神に作られたものだったので、神であるアテナに逆らうことはできない。 いつも言いたいことを言わせてもらってはいるが、氷河は、アテナの加護なしでは天界では生きていられない命の持ち主だった。 |