星矢たちは――瞬さえも――最初はそれを、弟を溺愛する兄の怒声だと思ったのである。 他に二人の恋の成就を快く思わない人間に心当たりがなかったから。 しかし、それは瞬の兄の声ではなかった。 鳳凰座の聖闘士ではなく――それは、アテナの聖闘士たちの敵だった者の憤怒の声だったのである。 彼の漆黒の髪は天を衝いていた。 もともと重力を無視して跳ね上がっている髪なので、それが怒髪なのかどうかは、アテナの聖闘士たちには わからなかったのだが、彼は まさに怒髪天を衝いているという形容が最もふさわしい様子をしていた。 「他人の恋文を横取りするなどとは、さすがは下賎の身。その心根が卑しい。アテナは自分の聖闘士に どういう指導をしているのだ!」 軽蔑しきった目で氷河を見据え、アテナの聖闘士指導方針にまで いちゃもんをつけてきたのは、アテナとアテナの聖闘士たちの最大最強の敵。 かつて全人類の粛清を企て、地上を死の世界に作り変えようとした死者の国の支配者、冥王ハーデスその人だった。 「ハーデス……」 幻影のように ぼんやりした冥府の王の漆黒の姿を認め、最も心身を緊張させたのは瞬だったろう。 なにしろ 彼は、かつて神の力をもって、瞬の肉体を支配しようとした男だったのだから。 断じて懐かしさのためではなく、むしろ恐れと怯えの感情に衝き動かされて、瞬が漆黒の神の名を口にする。 瞬は、その名を口にしただけで、決して彼を呼んだわけではなかったのだが、その声を聞いたハーデスは、それまで氷河を睨めつけていた目を、即座に瞬の上に移動させた。 いつのまにか 5本目の瓶――本来は3番目に渡されるはずの緑色の香水瓶――が、他の4本と並んでテーブルの上に置かれている。 「3番目の瓶は、手に入れられなかったのではない。最後に渡すつもりだったのだ」 3番目の小瓶に記された文字は、 Sans Adieu ――サン アデュー。 『さよならは言わない』 つまり、夜を超え、夜明けを過ぎ、君の許に戻ってきた私は、もうさようならを言うつもりはない――と、ハーデスは言っているのだ。 さよならを言う代わりに、彼は、 「余は、神話の時代より数千年の間、欲しいものを手に入れられなかったことはない。欲しいと思ったものは、必ず 余のものにする」 と、高らかに言い放ってみせたのである。 『めでたしめでたしの大団円』の場に突然 闖入してきた漆黒の神の振舞いにあっけにとられていた星矢が、その傲慢で身勝手な宣言を聞いて、はっと我にかえる。 せっかくの大団円を台無しにされたことへの怒りも小さなものではなかったが、それよりも 今 問題なのは、彼がなぜ、何のために、どうやって この場に出現したのか――である。 事と次第によっては 再び聖戦が始まるかもしれない、この現実こそが、アテナの聖闘士にとっては最大の問題だった。 「てめー、アテナに封印されたんじゃなかったのかよ!」 「された」 気が抜けるほど あっさりしたハーデスの返事。 だが、アテナの聖闘士たちは、その返答に安堵し、気を抜いてなどいられなかったのである。 アテナの封印によって 冥府の王の力はすべて失われたわけではないと、かつての敵たちに対して、ハーデスは知らせてきたのだ。 「余の力はアテナに封印された。天体を動かし、地上を死の世界にし、人類を粛清するほどの力を 余が取り戻すには、あと200年はかかるであろう。だが、今 余が欲しているのは瞬だけだ。瞬を余のものにするだけなら、天体を動かす力などなくても、容易にできる」 「容易にできるだと?」 それは決して容易に成し遂げられることではなかった。 今もまだ本当に成し遂げられたというわけではない氷河が、ハーデスのその言葉に こめかみを ひきつらせる。 思いがけない敵の出現に神経を昂ぶらせている氷河に比べれば、星矢は比較的 冷静で、客観的な視点を維持できていた。 「それはどうかなぁ。瞬を動かすのは、星を動かすのより難しいと思うぜ。なにしろ、氷河でさえ、今日まで、1、2センチくらいしか動かせずにいたんだ。まして、敵としてしか瞬と対峙したことのなかった あんたじゃ、1ミリ動かすのにも100万年くらいかかるだろ」 「一連のことは、瞬へのラブレター攻勢であると同時に、やはり我々に対する宣戦布告だったんだな。沙織さん!」 ハーデスの目的が何であれ、アテナとアテナの聖闘士の敵である神が、よりにもよってアテナの私邸に堂々と出入り(?)しているのである。 この状況は危険の極み。どうあっても打破しなければなるまい。 そう考えた紫龍が、彼の女神を振り返る。 が、心身を この上なく緊張させて 人類と地上世界の守護者である女神の指示を仰ごうとした龍座の聖闘士の視界に映ったのは、ほとんど緊張感も緊迫感もたたえていない女神アテナの、完全に呆れ果てた顔だけだった。 「ほんと、懲りない神もいたものね。まあ、優雅に氷河と恋の鞘当てをしている分には 地上に実害もないわけだし、好きにしてちょうだい。私は一切 関知しません」 「好きにしてちょうだい……って、沙織さん、それでいいんですか! 相手はハーデスなんですよ! 神話の時代からアテナとの聖戦を繰り返してきた、言ってみれば、アテナと聖域の宿命のライバル――」 「ええ、まあ、それはそうなのだけど、今のハーデスの狙いは、地上世界でも人類の滅亡でもなく、瞬なんでしょう? つまり、今のハーデスは、私のライバルではなく、氷河のライバルなわけ」 「それは……そうですが……」 「瞬絡みのこととなったら、氷河もそう簡単に引き下がることはないでしょうし、私の助力は むしろ氷河のプライドを傷付けるものにもなりかねない」 「そうは言っても、相手は神である冥府の王――」 これが本当に、ただの恋の鞘当てにすぎないのなら、確かにアテナの助力は無意味無意義、そして不粋なものだろう。 アテナの言う通り、瞬絡みのことで、氷河が人後に落ちるようなこともないだろう。 しかし、相手は神―― 一時は、全人類を滅ぼし、地上を死の世界にすることを企てさえした、強大な力を持つ神なのである。 ハーデスの持つ力を思えば、紫龍は、アテナほど のんきに構えてはいられなかった。 そんな龍座の聖闘士とアテナのやりとりに、アテナに勝るとも劣らない大様と楽観の権化である星矢が、口を挟んでくる。 「おまえって、ほんと苦労性だなー。何も心配すること ねーって。今のハーデスには実体がないんだろ。だから、夜中に聖闘士である瞬の部屋に忍び込むこともできたわけだ。実体がないなら、瞬のケツが痛くなることもないんだし、完璧 無問題じゃん」 『そーゆー問題かーっ !! 』と、アテナや星矢に比べれば悲しいほど常識人の紫龍は叫びそうになったのである。 彼がそうせずに済んだのは、ひとえに冥府の王のおかげ。 より詳しく言うなら、冥府の王ハーデスの低レベルのおかげだった。 星矢の『冥府の王、恐るるに足らず』発言を耳にしたハーデスが、一介の人間に過ぎない星矢の侮りに まともに対抗していく様を見せられたからだった。 「実体くらい 作ることはできる。普通の人間レベルのものだが」 星矢の挑発に乗せられたハーデスが、そう言って、その場に“実体”を作ってみせる。 その行為自体は、もしかしたら 神の力あればこその偉大な だが、そうしてハーデスが作ったものは、紛れもなく“普通の人間レベル”のものだった。 ハーテス自慢の美貌は、紫龍には どんな価値も感じられないものだったし、それは、面食いではない瞬も同様だったろう。 その上、神の力で“普通の人間レベル”の実体を出現させたハーデスの言い草が、 「断っておくが、余は、そこの下賎下劣な者と違って、俗悪な欲望を満たすために瞬を余のものにしようとしているのではない。これは、純粋に余のプライドの問題なのだ」 ――だったのである。 傷付けられたプライド修復のために瞬を手に入れようとする行為と、俗悪な欲望を満たすために瞬を我がものにしようとする行為。 その二つは、どっちもどっちと言っていいようなものだったのだが、瞬の気持ちを全く考慮していない分、ハーデスの願いの方が自分勝手――つまりは、氷河以下――と、紫龍は思わないわけにはいかなかったのである。 その瞬間、紫龍の中にあった、強大な力を持つ神を恐れる気持ち、人類と人類が生きる世界を憂える気持ちは、綺麗さっぱり霧散してしまった。 ここにいるのは、“普通の人間レベル”の一人の男。それどこころか、もしかしたら氷河以下の男。 何を恐れることがあるだろうと、恐れる必要など毛ほどにもないと、紫龍は確信したのである。 「ふむ。まあ、神サマが恋敵なら、氷河も、相手にとって不足はないだろう。見たところ、勝負は五分五分といったところか。氷河、せいぜい頑張ることだな」 開き直った常識人ほど、無責任なものはない。 極めて無責任に氷河を煽ると、紫龍は、即座に、そして平然と、自らを一傍観者の立場に移動させてしまった。 とはいえ、だからといって、紫龍の無責任な行為を非難することは誰にもできないだろう。 実際、ハーデスと氷河のバトルは、極めて低次元――もとい、極めて プライベートな次元のものだったのだ。 「人の苦心の成果を横から 掠め取ろうとするような卑劣な男に、瞬は渡さぬ」 「掠め取ろうとしているのはどっちだ。俺は、ガキの頃からずっと、いつか必ず瞬を俺のものにすると決めていたんだ!」 「余は、瞬が生まれた時から、瞬を見守り続けてきた。そなたが瞬の存在を まだ知りもせぬ頃からな」 「や……やかましい! 先に出会った方が偉いというわけではないだろう。大事なのは、一緒にいた時間の密度だ。俺は、ガキの頃には、瞬と一緒に風呂に入ったことだってあるんだからな!」 「そなたたちが冥界に攻め入ってくるまで、余は、瞬の着替えを見放題だった」 「な……なんだとぉ……!」 当人同士は大真面目なことが、二人の争いの滑稽さに拍車をかけている。 ハーデスと氷河の低次元バトルに呆れ果てている紫龍とは対照的に、星矢は二人の男の争いのレベルの低さに、ある種の感動さえ覚えていた。 「ここに一輝が来て、三つ巴の戦いになったら、もっと面白くて ややこしいことになりそうだな」 どう見ても、星矢は、その ややこしい事態の実現を期待している。 期待に胸膨らませ、瞳を輝かせている星矢の隣りで、瞬の心は、逆に すっかり冷め切っていた。 「あの二人が勝手に いがみ合ってくれてれば、しばらく瞬のケツの心配はしなくてよさそうだし」 「星矢、そこから離れられないの」 つい昨日まで、星矢に その部分(?)に触れられるたび激していた瞬が、今日は星矢を たしなめる声音も至って穏やかだった。 というより、瞬は 今はすっかり落ち着いていた。 呆れた口調で星矢を たしなめながら、瞬は ほっとしているのだ。 さすがの瞬も、今日ばかりは本当に覚悟を決めるしかないと思っていたのだろう。 そして、実際に覚悟を決めたのに、ハーデスの出現によって、瞬には再び時間の猶予が与えられることになったのだ。 そんなふうに落ち着いた様子の瞬を見て、星矢と紫龍は内心でこっそり苦笑していたのである。 覚悟を決めることができずにいただけで、いずれ自分は氷河を受け入れることになるだろうと、瞬は とうの昔に決めてしまっていたのだ――と。 |