『人間の意思や努力、それに伴って生じた様々な感情までをも無意味なものにしてしまう神の存在は、あまり よろしいものではない』 アテナの聖闘士たちが帰着した その結論に心を重くすることになった男が約一名、その場にはいた。 鉛の塊りを飲み込んだように重い心を、もちろん 氷河は瞬の前では 気を張って隠し通した。 が、瞬の目を気にする必要のない場所では、瞬のために感情を押し隠す必要はない。 その日、城戸邸に帰った氷河は、瞬がラウンジから席を外すと、途端に憂鬱を極めた顔になった。 最初からハーミアの心を手にしているライサンダーには、デウス・エクス・マキーナの存在自体が無意味不要である。 だから氷河はデウス・エクス・マキーナに関するディスカッションに乗り気でなかったのだろうと考えていた紫龍は、瞬が退場するや、露骨に不機嫌な顔になった氷河を訝ることになった。 「どうしたんだ。浮かない顔をして」 憂い顔のライサンダーに、憂い顔の理由を問うた紫龍は、そして、 「瞬は、自分の心を殺してるんだろうか」 というライサンダーの答えに、驚くことになったのである。 「なに?」 「俺があまりに強引に迫ったから――俺を傷付けるのが嫌で、瞬は 我慢して俺と付き合っているんじゃないだろうか。だから、瞬は、自分の意思を捻じ曲げられたディミトリアスに あんなに同情的なんじゃないだろうか……」 「へっ?」 「と、思ったんだ」 到底 晴れやかとは言い難い顔の氷河の懸念は、紫龍だけでなく、星矢にとっても、十分に驚くべきものだった。 氷河と瞬は、同性同士という、常識的な人間には容易に乗り越えられない障害を乗り越えて そういう仲になった二人である。 大した障害もなく ぼんやりと恋人関係を成り立たせている者たちとは違うのだ。 そういう二人の間には、固い信頼と揺るぎない絆があるのだろうと、星矢は思っていた――信じていた。 まして、氷河の恋の相手は、何事につけ 堅苦しいほどに律儀な瞬なのである。 氷河の懸念は実に馬鹿げたものだと、星矢は即断した。 「んなことねーだろ。いくら、おまえを傷付けたくないからって、そのために男に足開くなんて、フツーの男には できねーって」 極めてデリケートなことを、極めて あっけらかんと、星矢が言う。 これほど確かな好意の証はないだろうという確信に満ちて告げた星矢の言葉への氷河の返答は、しかし、 「瞬なら やりかねない」 というものだった。 「えーっ !? 」 いくら我が身を犠牲にする戦い方を好む(?)瞬でも、そして、決して失いたくない仲間のためであっても、そこまではすまい――できるはずがない。 と、星矢は根拠もなく、だが確信に満ちて そう思った。 が、氷河は、星矢以上に確信に満ちて、自分の疑念を妥当な疑念だと思っているらしい。 恋する男の心は実に不可解だと、星矢は内心で感心(?)することになった。 「そんなに気になるなら、瞬に訊いてみればいいだろ」 「もし そうだったなら……瞬が正直に答えるとは思えん。それに――」 「それに何だよ」 「もしかしたら、瞬は、自分が自分の本心を捻じ曲げているのだということを意識していないのかもしれん。無意識に、身についた癖で、俺を傷付けまいとして、本当は俺を好きでも何でもないのに、俺を好きだと思い込んでいるという可能性もある」 「おまえねー……」 本気でそんなことを言っているのかと、星矢は――紫龍も――仲間の言葉に呆れ果ててしまったのである。 そこまで疑っていたら、人は誰もが 誰の心も信じることができなくなってしまうではないか。 「おまえを好きなんだって、瞬が思い込んでるなら、それでいいじゃん。錯覚でも」 「だが、その錯覚を取り除いてやれば、瞬は今より もっと幸福になれるのかもしれない」 「そんで、おまえは みじめな失恋男になるのか? やめとけ、やめとけ。おまえが瞬を嫌いになったっていうんでない限り、藪をつついて蛇を出すようなことはしないでおいた方がいい。今が平和で幸せだって思ってるのなら」 「星矢の意見に賛成だな。今 おまえを受け入れてくれている瞬を信じることができないのなら、もし瞬が 本当はおまえを嫌いだったと告白してきても、おまえはそれを信じることはできないだろう。『瞬は俺のために身を引こうとしているんだ』とか何とか理由をつけて、信じようとしないに決まっている。一つのことを信じることができない者は、何も信じることができない。何でもかでも疑うことは、賢明なことではないぞ。かえって自分を不幸にすることもある」 「……」 氷河は決して賢明ぶろうとしているわけではなかった。 もちろん、自ら不幸になりたいと望んでいるわけでもない。 瞬の本意はともかく、瞬の言葉を疑っているわけでもない。 本音を言えば、氷河の中には、真実を知りたいという気持ちすら存在していなかった。 彼はただ、自分と同じように、瞬にも幸せでいてほしいと願っているだけだったのである。 瞬を好きだと意識した時、氷河は、自分の恋を叶えることしか考えなかった。 それが社会的倫理的に少々問題のある恋だということにも頓着しなかった。 好きになってしまったのだから仕方がない、瞬より好きになれる人間が 誰もいそうにないのだから、他にどうしようもないと思っていた。 そうして、かなり強引なアプローチを繰り返し、同性の仲間と そういう関係になることなど考えてもいなかっただろう瞬を、自分のものにした。 瞬を手に入れるために、争い事や自分のせいで起こるトラブルを嫌う瞬の心を利用もしたし、瞬の優しさや同情心につけ込むこともした。 そうでもしなければ、心身共に強靭な聖闘士で、世俗的な欲心もほとんど持っていない瞬を手に入れることは容易ではないとわかっていたので、氷河は徹底して瞬の心情と感情に揺さぶりをかけることを繰り返したのである。 そんな努力を積み重ね、ついに手に入れた瞬は、一言で言えば、“出来すぎの恋人”だった。 綺麗で優しく素直で、親密な間柄になってからも、氷河は瞬の上に どんな 同性との恋愛関係など 完全に想定外のことだったはずなのに、その件に関しても、瞬はどんな愚痴も後悔も口にしない。 氷河が望めば大抵のことは叶えてくれたし(むしろ、叶えてもらえなかった望みがなかった)、氷河の前に身体を開くことさえ(羞恥心との激しい戦いの末のことのようだったが)瞬はしてくれた。 瞬が優れているのは その心や外見だけではないことも、氷河は今では知っている。 性的な感度も その熱い内側も、瞬は ほんの1、2回の性交で、信じられないほどの極上品になってみせてくれた。 氷河は、瞬にどんな小さな不満もなかった。 瞬は いつも、どんなことでも、こうであればいいと期待していた以上のものを、惜しげもなく氷河に与えてくれた。 従順すぎるほど従順なのに、自分の意思を持たない人形というわけでもなく、瞬は、自分の考えを控え目に、だが毅然と主張することもできた。 申し分のない恋人であると同時に、瞬は、氷河にとって、一人の聖闘士として、仲間として、人間として、心から尊敬することのできる一個人でもあった。 すべてが満ち足りていて(満ち足りすぎていて)、毎日が幸せで(幸せすぎて)、氷河は不安になってしまったのである。 今 自分が瞬によって与えられている満足や幸福。 それと同等のものを、自分が瞬に与えることができているのだろうか。できているはずがない――と。 「俺はただ、俺が瞬のおかげで幸せになれたのと同じだけ、瞬にも幸せでいてほしいだけだ」 氷河の望みは、それだけだった。 「おまえが幸せにしてやればいいだけのことじゃん。なんで、瞬を幸せにできる奴が他にいるかもしれないなんて考えるんだよ」 星矢には、氷河の望みは、人生が順風満帆の男の、実に馬鹿げた、そして実に愚かな望みとしか思えなかった。 苦労して手に入れた瞬の恋人としての立場。 へたをすると その立場を自ら放棄せざるを得なくなるかもしれないようなことを、氷河は望んでいるのだ。 しかし、氷河は、星矢には馬鹿げた望みに思えることを、真面目に、本気で思い詰めているようだった。 「おまえは、瞬がどれほど素晴らしい恋人なのかということが わかっていないんだ。あれだけのものを瞬に与えることは、俺ごときには不可能なことだ」 「……」 氷河は、冗談を言っているわけではないようだった。 氷河は、至極 真面目な顔で――真面目に苦しんでいる顔で、星矢に そう告白してきた。 氷河の、ある意味 非常に謙虚な言葉に、星矢はあっけにとられてしまったのである。 白鳥座の聖闘士は いつも根拠もなく自信に満ちている男だと、星矢は思い込んでいたから。 尊敬する父の死と愛する母の不実、己れの生き死に苦悩するハムレットよろしく、氷河が仲間たちの前から退場すると、星矢は、自分の認識が間違っていたのかと、紫龍に確認を入れることになってしまったのである。 紫龍の返答は『是』。 龍座の聖闘士は、天馬座の聖闘士の認識が誤りだということを、(星矢にとっては意外なことに)自信を持って是認してきた。 「氷河は、おまえが思っているほど 思い上がった男ではないぞ。あいつは、自分の実力を実に正確に把握している。氷河が高飛車な態度をとったのは、ギャラクシアンウォーズでの市や ブラックスワンとの対決時くらいのものだろう。一輝に対しては、好機に倒しておかないと いつ倒せるかわからないほどの強敵と認めていたし、白銀聖闘士や黄金聖闘士に対して そういう態度をとったことはほとんどない。氷河はいつも、相手の力を正確に見極め、自分の力と比較して、その実力差に ふさわしい態度をとっている。そのあたりが、いつも自信満々の一輝とは違うところだな」 言われてみれば その通りではあるが、星矢には、紫龍の見解を素直に認めることができなかった。 星矢は、氷河を、他のどんなことよりも情動に従って動いている男だと思っていたのだ。 「それって、まるで、氷河がものすごーく冷静で、頭がいい男みたいじゃん」 「その通りだ。気付いていなかったのか? だから、今の奴の卑屈に驚いているんじゃないか」 「んじゃ、つまり、今の氷河は、瞬の強大な力に圧倒されて、すっかり自信喪失してる状態ってことか?」 「そういうことだろう。へたに 相手と自分の実力を正確に見極められる眼力があることが、悪い方向に作用してしまったんだな」 「うーん……」 せっかくの能力をプラスの方向に用いることができないのなら、それは愚かなことである。 つまり氷河は、利口ではあるが馬鹿でもあるということ。 そして星矢は、これまでの経験から、完全に馬鹿な人間や 完全に利口な人間より、馬鹿と利口の間にいる人間こそが最も扱いに困る存在だということを 身をもって知っていた。 氷河の自信喪失状態を解消し、その考えを正すことは なかなか困難な作業になりそうである。 そう察して、星矢は憂鬱な顔になった。 それは紫龍も同様だったのだが、氷河説得の困難に 星矢より早く気付いていた分、彼には余裕があった。 つまり、紫龍は、既に問題解決の手段の模索に取りかかっていたのだ。 決して明るくはない面持ちで、彼は彼の考えを星矢に知らせてきた。 「この問題を真の解決に至らせることができるのは瞬だけだ。だが、瞬は、氷河に対しては従順モードで、氷河に逆らうことなどできそうにないからな。となれば、ここは、我等が女神に登場してもらうしかないと思う」 「マウス・デスク・マッキントッシュのお出ましってわけか」 本来なら物語の最後の最後に登場するのが常道なのだろう真打ちに、物語の序盤から登場してもらうのは、いささか作品構成に問題があるような気もするが、これは観客の感動を呼ぶことが目的の演劇の舞台ではなく、起承転結を考慮する必要もない現実問題。 『承』『転』を飛ばして一刻も早く『結』に到達できるなら、それに越したことはない。 そう考えて、星矢は、紫龍の提案に賛成した。 |