光、光、光。 花、花、花。 初めて地上の光景を見た時、ここはなんて美しい世界なんだろうって、僕は思った。 光があふれている この世界にいると、氷河がすごく綺麗に見えて、それも嬉しかった。 でも、僕は今は、眩しく輝く光より、優しい姿と香りを持つ花たちより、この地上を美しいものにしているのは、人間たちなんだって思ってる。 地上の人間たちが、自分以外の人を好きになったり、自分以外の人を思い遣ったりする、(複雑で難しい)心を持っているからなんだって。 ハーデスがもし僕を連れ戻しにきたら、僕はハーデスに『僕を地上にいさせて』って お願いしようって決めてた。 僕が その決意を告げたら、アテナは、 「ハーデスには、あなたの今の幸せを奪うようなことはできないでしょう」 って言ってくれたから、僕は、そのことは あまり心配していない。 今の僕の心配事は他にある。 心配事っていうより、それは悩み事というべきなのかもしれないけど。 僕は、地上に来た時、『僕が地上にいるためには、誰のものになればいいの?』って、氷河に訊いた。 その時、氷河は、『おまえは おまえ自身のものだ』って言った。 その氷河が――僕に、氷河のものにならなくてもいいと言っていた氷河が――、最近、 「俺のものになってくれ」 って、毎日 僕に言うんだ。 あの時 自分が、事もなげに――それが自然で当然なことのように――『おまえはおまえ自身のものだ』って断言したことを忘れてしまったみたいに。 僕は僕自身のものであるべきだ。 僕は僕自身のものになって、この地上で幸せになった。 冥界にいた頃、僕はハーデスのもので、ハーデスに与えられるものを受け取るだけで、自分では何を選ぶこともできなかった。 幸福になることも不幸になることも。 その代わり、僕は、僕の人生にどんな責任も負わずに生きていることができた。 地上に来て、僕は いろんなことを選ぶことができるようになり、その責任を自分で負わなければならなくなった。 冥界にいる時には 幸福でも不幸でもなかった僕は、地上に来て、その両方を手に入れた。 いろんな失敗をして、氷河や星矢たちを悲しませて、その結果 僕自身まで ちょっと不幸な気持ちになったりもしたけど、ごめんなさいって謝ると、氷河たちはすぐに許してくれたし、僕が地上に来てから手に入れた幸福は、その量でも質でも 圧倒的に不幸を凌駕していた。 それは、僕が自分で考えて、自分の意思で選んだことをして、手に入れた幸せだ。 自分自身の言動に責任を持って選んだ結果として手に入れた幸せ。 それが本当の幸せなんだってことが、今の僕には わかってる。 本当に幸せになりたかったら、人は、誰かのものじゃなく自分のものであるべきだ。 僕は僕だけのものでいるべき。 僕は、二度とハーデスのものにはなりたくない。 失敗しても、不幸になっても、僕は僕の生き方を自分で決めたい。 冥界で――ハーデスに与えられた神殿で暮らしていた頃の僕は、まるで深い洞窟の壁を見詰めて生きているようなものだった。 洞窟の壁に ぼんやりと映し出されるものは、僕が見たいものじゃなく、ハーデスが僕に見せてもいいと判断したものだけ。 僕が見ていたものは、ハーデスが選んだものの ぼんやりした影だけだったんだ。 そんな僕を、氷河は、洞窟の外に連れ出してくれた。 そこには光があった。 その光によって、僕は世界にあるもの すべてを直接 自分の目で見ることができるようになった。 地上の光の中で僕が見るものは、暗い洞窟の壁に映し出される ぼんやりした影じゃなく、すべてが本物で実物だ。 冥界にいた頃、僕は実は何も見ていなかったんだ。 ハーデスが選んだものだけを、ハーデスが用意したフィルター越しに見せられていただけ。 それで、何かを見ているような気になっていただけ。 深い洞窟の奥で、影に過ぎないようなものだけを見て、それで何事かを考えたり判断したりしても、手に入れられる結論は、やっぱり ぼんやりした影だけだよ。 間違った結論だけ。 そんな洞窟の奥から、氷河は僕を 本当のものを見ることができる場所に連れ出してくれたんだ。 僕は、氷河には感謝してるし、氷河が大好きだ。 氷河のおかげで、僕は、たくさんの幸福を、たくさんの喜びを手に入れた。 僕は今、すごく幸せなんだ。 僕は、僕自身のものになって、この幸せを手に入れた。 この幸せを手放すことなんて、考えられない。 僕は、僕自身だけのものであるべきだ。 氷河に言われたからじゃなく、僕自身の考え、僕自身の選択で、僕は、今 そう思ってる。 でも――氷河のものになったら、もっと幸せになれそうな気がするのも事実なんだ。 だから、僕は今、とても悩んでいる――迷っている。 氷河に抱きしめてもらうと、僕はとても温かくなる。 氷河にキスしてもらうと、僕はとても いい気持ちになる。 それは、氷河が僕を特別に好きでいてくれるっていうことだから。 それは 氷河が僕を好きだから してくれることなんだって思うと、氷河が氷河自身で考えて、自分に責任を持って、僕に そうすることを選んでくれたんだって思うと、僕は氷河の選択が嬉しくて、すごくすごく幸せな気持ちになるんだ。 氷河以上に僕を幸せにできる人は この地上にいないんじゃないかって、僕は思っている。 ほとんど確信している。 なのに、氷河は、僕が氷河のものになったら、キスよりもっと気持ちよくなることを僕にしてくれるって言うんだ。 世界中でたった一人、世界でいちばん好きな人にだけしてもいいことを、僕にしてくれるんだって。 氷河に抱きしめられてキスしてもらうことより 気持ちのいいことがあるなんて、ほんとのこと言うと、僕には とても信じられないんだけど、でも、氷河が僕に嘘をつくはずはないし――。 今より もっと気持ちよくなれることをしてもらえるのなら、氷河のものになってしまえばいいのに――って、自分でも思うんだ。 でも、僕は迷ってる。 僕が氷河のものになるってことは、僕の心の一部だけじゃなく、僕の心の全部が氷河の心に重なってしまうことだろう。 完全に全部じゃなくても、そのほとんどが。 それは恐いことじゃないんだろうか。 冥界にいた時、僕は、僕が僕自身のものじゃなくハーデスのものだっていうことに、とても安心していた(あれは、安心というより無憂という状態だったのかもしれないけど)。 なのに、僕が僕自身のものであることの素晴らしさを知ってしまった今は、僕が僕以外の誰かのものになることが、僕は恐くてたまらないんだ。 それは、本当に変な話だけど。 星矢たちに相談したら、それは僕が考えて決めるしかないことだって。 いっぱい いっぱい考えて、それから答えを出せばいいって。 でも、氷河は、なんだか苦しそうな目で『早く早く』って 僕を急かしてくるし(氷河は、そんなこと口に出しては言わないけど、僕にはわかる)、僕が煮え切らないせいで、氷河は毎日 ひどく つらそうなんだ。 氷河を苦しめるなんて、僕はそんなことしたくないのに。 僕は迷ってるんだ。 とっても迷ってる。 迷ってるってことは、つまり、困ってるってことだ。 なのに、なぜだろう。 僕は、僕が、僕の意思で迷っていられることが、楽しくて嬉しくて たまらないんだ。 ぼんやりした影しか映らない洞窟の中じゃなく、光の中で、影ではない本物の氷河自身を見て、僕は心から迷っている。 迷いながら――僕は今、今まで生きてきた すべての瞬間の僕より 幸せな僕でいるんだ。 Fin.
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