黒鳥






今から出ると開場時刻より早く着いてしまうと言って、沙織さんが、俺たちの溜まり場になっている城戸邸ラウンジに入ってきたのは、梅雨の時季に入って まもない6月のある日の夕刻。
漆黒のワンピースに純白のレースのボレロという出で立ちは、彼女にしては珍しいチョイスだが、まあ、似合っていた。
白は、汚れたら すぐに使えなくなる色という意味で、黒は 他のどんな色にも染め直すことができない色という意味で、金持ち御用達の色。
グラード財団の若き総帥には、ふさわしい色なのかもしれない。

今夜の彼女の外出先は、T国際フォーラム。
演目は『白鳥の湖』。
帰宅は午後10時をまわるだろうと、彼女は言った。
「白鳥の湖? 確か、先週 観にいったのも 白鳥の湖じゃありませんでしたか?」
紫龍に問われた沙織さんが、肩をすくめて頷く。
「ええ。先週のは、日本の東京Cバレエ団の白鳥の湖。今日は、ロシアのマリインスキーバレエ団の白鳥の湖」

彼女が 週に一度はオペラやバレエやクラシックのコンサートに出掛けていくのが、彼女の趣味なのか、彼女の地位に関して生じた何らかのしがらみのある付き合い上でのことなのか、そのあたりのことを俺は知らない。
彼女自身、嫌いなわけではないんだろうから――嫌いなのなら、彼女は多忙を理由にいくらでも断れるはずだ――そんなことを俺が気にしても、何の意味も益もないことだが。
しかし、年末の第九ならともかく、梅雨時に連続して白鳥の湖というのは、滅多にあることではない。
紫龍でなくても、奇妙に感じるのは当然のこと。
俺も、奇異に思った。
が、世間には、それを自然なものにする事情というものが ちゃんと存在したらしい。
その事情を説明するために、沙織さんは、俺の知らない映画のタイトルを口にした。

「ええ。昨年米国で公開された『ブラックスワン』という映画の主演女優が、オスカーの賞をとって話題になっているの。それで、今、日本でも白鳥の湖の公演が流行っているのよ。映画のヒットにあわせて、演目を変更するバレエ団続出。今夜の公演は、半年前から決定していたものだけど、先週の白鳥の湖は、当初はコッペリアをやるつもりだったらしいわ」
「ブラックスワン? どんな映画なんですか?」

三人掛けのソファで俺の隣りに座っていた瞬が、ティーカップをソーサーに戻して、沙織さんに尋ねる。
無関係なのだろうと思いつつ、かつて俺が倒した敵の姿が、瞬の脳裏をかすめたんだろう。
沙織さんに尋ねる瞬の表情や声は 明るいものではなかった。
俺が倒した相手――というより、兄のために死んでいった男を思い出して。
俺は、あまり いい気分ではいられなかった。
幸い、沙織さんの言う『ブラックスワン』は、そんな男には何の関係もないものだったが。

「『白鳥の湖』で、純真無垢な白鳥と官能的で邪悪な黒鳥の二役を一人で踊るプリマのことをスワン・クィーンというのだけどね。そのスワン・クィーンに抜擢された女性の苦悩を描いた映画――ということになるのかしら。生真面目なヒロインは、白鳥には向いているんだけど、邪悪な黒鳥の役柄を なかなか掴めなくて、うまく踊れないのよ。ヒロインは、プリマになるために幼い頃から練習三昧で、ある意味 純粋培養種、自分を含めた人間の邪悪な心なんて意識したこともなかったから。そんな彼女が、黒鳥を踊るために、初めて自分の中のダークサイドに向き合い、そして――という映画」

「へー。瞬、おまえ、聖闘士でよかったな。バレリーナだったりしたら、地上で最も清らかさんのおまえは、どうしたって黒鳥を踊れなくて、大成しないぞ」
星矢が突然 突飛な仮定文を持ち出したのは、『純真無垢』だの『純粋培養』だのの単語に触発されてのことだったろう。
その手の仮定文を白鳥座の聖闘士で考えないあたり、突飛な中にも常識ありというところか。
だが、その仮定文が突飛なことに変わりはない。
地上で最も清らかな人間ということになっているにもかかわらず、その自覚に欠ける瞬には、なぜ自分がバレリーナになぞらえられることになったのか、とんと理解できていないようだった。
まあ、瞬らしいことだ。

「星矢、急に なに言い出したの」
「いや、だから、清らか〜に正義だけ追求してても やってける聖闘士でよかったなーって。バレリーナだったら、邪悪を理解することを求められるんだぜ。おまえには無理だろ」
星矢の感性にも、その見解にも、俺は大いに同感できた。
むしろ、
「踊りなら、氷河の方だろう」
と言って、俺に話を振ってきた紫龍のセンスの方が、俺には理解できない――したくもないことだった。
「氷河は王子様役だろ。瞬のために好きなだけ踊ってればいいんだよ。俺、見ねーから。……あれ?」
星矢がまた、突然 頓狂な声をあげて首をかしげる。
「どうした」
俺や星矢とは少々 波長が異なるらしい紫龍が、星矢に その頓狂な声の訳を尋ね、
「白鳥の湖って、王子サマ出てきたっけ? 俺、白雪姫か何かと一緒にしてるかな」
仲間に問われたことに、星矢が答える。

「……」
その瞬間、俺と紫龍と瞬と沙織さんの波長が一つに重なって、俺たちは揃って絶句した。
『白鳥の湖』がどんな物語なのかも知らずに、星矢は瞬をオデットになぞらえることをしていたらしい。
さすがは、大様で売っている星矢と言うべきか。
俺は星矢のその答えに呆れ果て、真面目に星矢の相手をすることを即座に中止した。
「じゃあ、私は、そろそろ出掛けるわね」
沙織さんは、元はといえば彼女の登場のせいで生じた沈黙の中から さっさと抜け出すことにしたらしい。
相変わらず彼女は賢明だと、俺は思った。

「出てくるよ。王子様はちゃんと」
彼女と対照的に 賢明でないのがアンドロメダ座の聖闘士で、俺同様 星矢の非常識に呆れ果ててはいるんだろうが、俺や沙織さんより はるかに親切にできている瞬が、『白鳥の湖』のストーリーを星矢に説明する作業に取りかかる。
瞬が賢明でないからといって、その事実が、瞬に対する俺の好意に影響を及ぼすことはないぞ。もちろん。
俺は多分、瞬のそういうところが好きなんだ。

で、問題の『白鳥の湖』は、ドイツの童話作家ムゼウスによって書かれた物語に、ロシアが誇る大作曲家チャイコフスキーが曲をつけた三大バレエの一つだ。
昼の間は白鳥の姿になり、夜だけ人間の姿に戻ることができるという呪いを悪魔にかけられたオデット。
彼女にかけられた呪いを解く方法は ただ一つだけ。
真実の愛の誓いを得ること。
オデットに恋した王子は、自分の花嫁選びの舞踏会にオデットを招く。
だが、その舞踏会に現われたのは、オデットに化けた悪魔の娘オディール。
で、馬鹿な王子は黒鳥のオディールを白鳥オデットだと思い込み、彼女を花嫁として選んでしまうわけだ。
悪魔に騙されたことに気付いた王子は、悪魔に戦いを挑み、これを討ち破り――結末は、オデットの魔法が解けず、王子とオデットは湖に身を投げて来世で結ばれるパターンと、呪いが解けてハッピーエンドになるパターンがある。

瞬は、星矢にハッピーエンドのパターンしか話さなかった。
その方が星矢向きだと思ったのか、バッドエンドの方を 瞬も知らなかったのか。
おそらく前者だろう。
瞬のその判断は正鵠を射たものだったらしく、星矢は『白鳥の湖』のストーリーに いちゃもんをつけてこなかった。
かぐや姫を 日本一の卑怯者と ののしり、白雪姫の王子をネクロフィリアの変態と断じ、ロミオとジュリエットを世界一の大馬鹿頓馬カップルと評する星矢にしては 珍しいことだ。
もっとも、『白鳥の湖』に星矢からのクレームがつかなかったのは、そのストーリーに破綻がなかったからではなく、瞬に黒鳥を踊ることができるかどうかという点に 星矢の関心が集中していたせいのようだったが。






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