「この城にいる間は、こちらの部屋を お使いください。この部屋からなら、あなたの お仲間の船の様子も確かめられます。この優遇は、ひとえに あなたが お綺麗だからのことですよ」
瞬はハーデスに絶対の忠誠を誓っていたが、それは 彼の考えをすべて理解した上でのことではなかった。
この国に攻め入ると脅している男を 特に拘束もせず、それどころか城中で最も上等の部屋を彼に あてがうハーデスの意図は、瞬には理解しかねるものだった。
もちろん、この好戦的な客人の心を変えることで、この国に争いを持ち込まずに済むのなら それに越したことはない。
ハーデスがそう考えているのだと思うことはできなくはない。
基本的にハーデスは争い事を嫌っていた。
しかし、瞬は 敵と見なした者を 驚くほどの冷酷さで処断するハーデスの一面も知っていた。
だから――この怪しすぎる異邦人に示すハーデスの甘い処置を、瞬は奇妙に感じずにはいられなかったのである。

ともあれ、ハーデスの命令は絶対。
胸中の疑念をハーデスに告げることはせず、瞬は、アテナイの氷河を 彼のための部屋に案内した。
氷河は、そこで瞬と二人きりになるなり、突然 態度を一変させた。
その閉じられた空間に来るまでは、自身を虜囚の身と認め 全身を緊張させているようだったのに、確実に人目のない場所に来た途端、彼は その緊張をすっかり消し去ってしまったのである。

「まったく、本気の拳を撃ってくるとは……。ハーデスの目をごまかすためにしても、少しは手加減をするものだ」
不満そうな口調で そんなことを言いながら、眼下に港を見下ろすことのできる窓の前に立っていた瞬を、氷河はふいに背中から抱きしめてきた。
敵国人に背を向けてはいても、油断しているつもりは全くなかった瞬は、何よりもまず、自分が敵に こんなにも簡単に抱きしめられてしまったことに、しばし呆然としてしまったのである。
「そんな……なぜ……」

瞬は、あまりにもあっさりと“敵”に後ろを取られてしまった自分自身を、その事実を、『なぜ』と疑ったのだが、氷河は 瞬の困惑の内容を誤解したらしい。
彼は一層強く瞬を抱きしめて、彼がこの国にやってきた訳を、瞬に――敵に――語り始めた。
「おまえを取り戻すために、アテナが船を使う許可をくれたんだ」
「え」
「あれで この国に脅しをかけて、なるべく穏便に おまえを取り戻すようにと」
「あ……の……」
「聖域に帰ったら、1ヶ月前から おまえの行方が知れないと言われて――俺がどんなに心配したか、わかっているのか。アテナが おまえの居場所を見付け出してくれるまで、生きた心地がしなかった。気が狂いそうだった」
「……」

いったい彼は何を言っているのか。
すぐさま我が身に絡みついている腕を振り払って彼を問い質すべきか、それとも何か誤解をしているらしい彼に もっと色々なことを語らせて、彼の真意を探るべきか。
氷河の腕の中で迷っていた瞬の首筋に、氷河の唇が押し当ててくる。
意想外のことに、瞬は、彼から情報を引き出す考えを即座に放棄し、するりと彼の腕からすり抜けた。
自由を取り戻し、素早い動作で、今度は瞬が氷河の背後にまわる。
ハーデスの命令もないのに彼を倒すわけにはいかなかったので、瞬には彼との間に距離を置くこと以外、できることはなかったのだが。

「僕は、2年前からハーデス様にお仕えしています。あなたは、僕を他のどなたかと人違いしています」
せめて口調だけでも決然と厳しく。
そのつもりで 瞬は氷河に訴えたのだが、氷河はそんな瞬に軽い笑みを返してきただけだった。
「俺が おまえを見誤るはずがないだろう。俺でなくても、おまえの その綺麗な顔を見誤る者はいない。おまえは瞬だ。俺の瞬」
「僕は確かに瞬ですけど、僕は あなたのものなんかではありません! あなたは何か誤解しています。僕は、もう2年も前からハーデス様に お仕えして――」
「2年も前から? そんなはずはない。おまえが聖域から姿を消したのは1ヶ月前のことだ。そうではないというのなら、それ以前はどうしていたのか言ってみろ」
「……」

答えることができたら、どんなにいいか。
そう、瞬は思ったのである。
が、すぐに、氷河に尋ねられたことに答えられないことは幸福なことなのだと、瞬は思い直した。
「僕は――ハーデス様にお仕えする以前のことは忘れました」

瞬は、実は、ハーデスに仕える以前の自分の記憶を持っていなかった。
瞬の肉親は、2年前、この無憂の国の侵略を企み上陸してきた他国の者に命を奪われた。
瞬は、そう聞いていた。
ハーデスは 天涯孤独になった瞬を哀れみ、瞬の中から悲しい記憶を消し去って、瞬を彼の城に迎え入れてくれたのである。
この城に来る前に 自分がどういう境遇にあったのか――両親の地位、身分、生業、両親以外の家族や親族の有無、それらのことを瞬は全く憶えていなかったが、ともかく、瞬が常人には持ち得ない運動能力や戦闘能力を その身に備えていたことは事実だった。
もしかしたら、その力もまたハーデスによって与えられたものなのかもしれないと疑ってはいたが、だとしたら なおさら、自分はその力を この国の平和と独立を守るために活用しなければならない。
そう考えて、この2年間、瞬はハーデスとハーデスが治める国のために戦い続けてきたのである。
ハーデスに対する瞬の忠誠心は、他に頼るものとてない孤児を引き取ってくれた彼への恩と、人を傷付け 命さえ奪う無益な争いを憎む気持ちから生まれるものだった。






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