たとえば期間を現アテナ降臨後と限ってみても、その壁絵の存在に気付いていた者はいくらでもいただろう。 いくらアテナ神殿の奥の奥、 家具らしい家具もない空室同然の部屋の壁に描かれたものだといっても、その絵は特に隠されていたわけではなく、しかも、そのモチーフ一つに 壁の一面すべてを費やした、正しく大作だったのだから。 だが、その壁画に描かれている人物が氷河と瞬に似ていることに最初に気付いたのは、氷河と瞬の仲間であるところの天馬座の聖闘士だった。 普段は足を踏み入れる者とてない その部屋に星矢が赴くことになったのには、聞くも涙 語るも涙の深い訳がある。 昨日、星矢は、以前 12時間の時をかけて駆け登った十二宮を 何の障害もなかったら5分で駆け登ることができるのではないかと思い立ち、実際に試してみた。 その際、彼は、小宇宙と肉体の勢いが少々余って、天秤宮と天蠍宮の間にある曲がり角の石段を ほぼ半壊させてしまったのである。 女神アテナは、星矢の試みがもたらした被害の大きさに大層立腹し、彼への罰として、アテナ神殿のすべての部屋の床掃除を天馬座の聖闘士に命じた。 そういう経緯で初めて足を踏み入れた その部屋で、星矢は、彼の仲間である氷河と瞬の姿がそこにあることに気付いた――のだそうだった。 「彩色が落ちずに残ってる昔のギリシャの壁画に描かれてる人物ってさ、大抵、髪の色が黒か茶色だろ。なのに、この絵のにーちゃんの髪は金髪じゃん。へー珍しーって思って、まじまじと見てみたら、金髪のにーちゃんは氷河そっくりだし、氷河に腕を掴まれてる女の子は瞬そっくりでさ。なんだこりゃあってことになったんだよ」 これは何らかの事件の前兆かもしれないと危惧した星矢は、しぶしぶ(と、彼は言った)名誉ある床掃除の作業を中断し、仲間たちを この壁画の前に連れてきた――のだそうだった。 アテナに『絶対に 星矢の罰掃除に手を貸さないように』と厳命されていたこともあって、紫龍たちは、決して積極的かつ快く この部屋に来たわけではなかったのだが、星矢の注進通りの絵を その場に見い出して、彼等は ひどく驚くことになったのである。 その壁画は、横が10メートルほど、高さは3メートル弱。 舞台は、遠くにアテナ神殿が見える春の野だった。 その中央で金髪の若く たくましい男が、薄衣をまとった華奢な少女の腕を掴みあげている。 男の長い金色の髪は、突風に煽られでもしているかのように 不自然に宙に舞い上がっており、彼に腕を掴まれて 半ば身体を浮かしかけている少女は 明らかに逃げ腰。 二人の人物の面差しは、確かに氷河と瞬に似ていた。 実在の二人と違う点は、金髪の青年の背に大きな一対の白い翼が備わっていることと、少女の胸に 彼女が女性であることを示すふくらみがあること。 他は、なるほど氷河と瞬に瓜二つの二人だった。 「確かに似てはいるが――今も昔も 人間の美形の条件というものは大して変わっていないからな。美男美女を描こうと思ったら、どうしたって似通った形質になってしまうという事実は考慮すべきだろう。紀元前に描かれた壁画のモデルが氷河と瞬であるはずがないんだから」 「そりゃそうだけど、でも、ぱっと見、氷河と瞬だろ。野原で花を愛でてた瞬を、氷河が誘拐しようとしてる図」 「似ていることは認めるが……。そうだな。なにより古代ギリシャの壁画で金髪というのは異例だ。太陽神アポロンやヘリオスでさえ、茶系の髪が普通なのに」 紫龍の意見に、星矢が我が意を得たりとばかりに身を乗り出してくる。 「うんうん。だから、俺はさ、とりあえず床掃除を一時中断して、この絵の謎解きをしようと思ってるわけなんだよ」 「星矢……! 勝手にそんなことして、沙織さ――アテナを これ以上怒らせてしまったらどうするの!」 星矢の魂胆に気付いた瞬が、仲間の身を案じ、 「おまえは要するに、罰掃除を怠けたいだけだろう。そんな卑怯な行為に、俺と瞬を関わらせるな。俺たちまでアテナに睨まれるようなことになったら、どうしてくれる」 氷河が、彼自身と瞬の身を案じる。 自分たちに関わる謎に興味を持たないはずがないと信じていた二人の仲間。 その二人が、悠久の時を経て出現した神秘の壁画の謎より、現在の詰まらない心配事を優先させることを、星矢は大いに不満に思ったようだった。 口をとがらせて、星矢が氷河に突っかかる。 「なんだよ! おまえら、この絵の謎が気にならないのかよ!」 「ならんな」 彼にしては珍しくクールに きっぱりと断言した氷河は、だが、 「ちょっとだけ、気になるけど……」 という瞬の呟きに、クールなままでいられなくなってしまったのである。 「瞬!」 氷河が、明瞭に非難の響きを含んだ声で、瞬の名を呼ぶ。 その怒声に少々 「だって、やっぱり、古代ギリシャで金髪って珍しいでしょう。気になるよ」 「だとしても、それは、日本のアニメーション作品に出てくる青い髪やピンクの髪のキャラの謎を解こうとするようなものだ。無意味極まりない!」 「でも……」 それが地上の平和や人命に関わることでない限り、滅多に人の意見に逆らうことのない瞬が、控え目にとはいえ、仲間に食い下がってくる。 「でも、この絵の氷河、とっても綺麗なんだもの」 「……」 珍奇な壁画に対する瞬の執着の理由がそれと知らされて、氷河は その謎解きを無意味と断じにくくなってしまったのである。 「し……しかしだな」 そこまで言って、先の言葉が続けられなくなったのは、瞬の気持ちを頭から否定することに ためらいを覚えたから。 とはいえ、星矢の企みに乗ってしまうことは、極めて不本意。 この二つの相反する考えをどうしたものかと、氷河は 瞬の前で 自らの対応に大いに迷うことになってしまったのだった。 が、幸い、氷河は、瞬の気持ちを否定することも、自分の意思を曲げることもせずに済んだのである。 その場に、彼等の女神が 実に堂々とした様子で登場してくれたおかげで。 「真面目に床掃除をしているかと監視に来てみれば……。紫龍、瞬、あなたたちまで星矢のさぼりに付き合っているなんて! せめて あなたたちだけでも、私の期待を裏切らないでちょうだい!」 アテナの叱責は、床掃除をさぼっている星矢よりも、むしろ紫龍と瞬の方に向けられていた。 そこで白鳥座の聖闘士の名を外すということは、アテナは白鳥座の聖闘士に期待していないからなのか、あるいは、彼を星矢の同類・星矢と同レベルの人物と見なしているからなのか。 いちばん星矢のさぼりに反対していたのは俺なのにと、氷河は、些少でない不満をかこつことになってしまったのだった。 そんな氷河に苦笑してから、紫龍が、星矢のさぼりの理由をアテナに報告する。 「いえ。星矢が、この絵の二人が氷河と瞬に似ていると言い出したものですから」 「氷河と瞬に似ている絵?」 ここは、彼女の名を冠する神殿の一画なのだが、もしかすると、アテナ自身、この部屋に入るのは今日が初めてだったのかもしれない。 紫龍に そう言われて初めて、アテナは この部屋の壁に描かれている絵の存在を認めたようだった。 「まあ」 驚くほど保存状態のいい壁画に、アテナが小さな感嘆の声を洩らし、それから、ちらりと氷河を一瞥する。 一度 僅かに微笑してから、彼女は彼女の聖闘士たちの方に向き直った。 「これは、ボレアスとオレイテュイアの絵ね」 「ボレアスとオレイテュイア? 聞いたことない名前だけど……この二人、神様なのか?」 ここで あっさり謎が解明されてしまうと、さぼりの大義名分が消えてしまう。 アテナに尋ねる星矢の声は、いかにも 嫌な予感に襲われている人間のそれだった。 対するアテナの声には 全く屈託がなく、それは晴れやかでさえある。 「金髪の男性の方は神の一柱よ。ボレアスは北風の神で アテナイの守護神。オレイテュイアはアテナイの王女。これは、オレイテュイアに一目惚れしたボレアスが花園にいた王女をさらっていく図なの」 「アテナイの守護神? アテナイの守護神はアテナなのでは?」 「ええ。そうなのだけど、ボレアスもそうなの。アテナイの王女に恋した神ということで、アテナイの市民が彼に親しみを感じるようになったんでしょう。ペルシャのクセルクセスがアテナイに攻め込んできた時、アテナイの市民はボレアスに祈り、その祈りを聞き届けたボレアスが暴風を起こしてペルシャの船400隻を沈めたとヘロドトスが『歴史』に記しているわ」 謎が徐々に解明されていく。 星矢は、いよいよ本格的に焦り始めた。 「で……でも、古代ギリシャで金髪って変だろ、すごく」 「ボレアスは、北風の神ですもの。北方から出た神なのよ。その神殿も世界の北の果てにあったし――。この絵を描いた画家は北方の人間に金髪が多いことを知っていたんでしょ。不思議なことでも何でもないわ」 「でも、こんなに氷河と瞬に似てて――」 「『幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある』と、トルストイも言っているわ。それと同じこと。美形っていうのは似るものなのよ」 紫龍が用いたものと同じ理屈で、アテナが、それは偶然だと断じる。 旗色が悪くなってきているのを感じて、星矢は あらぬ方向へ視線を泳がせることになった。 「へ……へぇ……。氷河による瞬の略奪か。北風の神様とお姫様なんて、そのまんまじゃん。瞬は鎖で つながれてないけど」 「しかし、一目惚れして略奪とは。ハーデスのペルセポネー略奪に、カストルとポルックスのヒラエイラとポイベ略奪。ギリシャ神話には枚挙にいとまのない話だが、このボレアスという神も 少々乱暴な神様だ」 「そういうとこも氷河そっくりだよな」 だが、それだけのことでは謎は形成されず、床掃除を中断する理由には なり得ない。 もはや 腹をくるしかないのかと 星矢が諦めかけたところに、瞬が微笑を割り込ませてきた。 「いやだ。氷河がそんな乱暴なことするわけないでしょう」 「そんな乱暴なことなしで、おまえら、そういう仲になったのかよ? そんなことでもしなきゃ、男同士で 簡単にくっつくことなんてできなさそうな気がするけど」 「しません。氷河はとっても礼儀正しく――あ……」 いくら 命をかけた戦いを共にしてきた仲間が相手といっても、それは恋の第三者に対して安易に提供していい情報ではない。 自分が口をすべらせてしまったことに気付いた瞬が、慌てて唇を引き結ぶ。 だからといって、一度 口にしてしまった言葉を なかったことにすることは、瞬の聖闘士の力をもってしてもできることではなかったが。 「礼儀正しく? 礼儀正しく、俺と寝てくれって、氷河がおまえに頼んできたのかよ?」 「え……あの……あの、それは……」 そういう状況になると、突っ込みを入れずにいられなくなるのが星矢である。 極めてプライベートな問題に突っ込みを入れられた瞬は、律儀に頬を真っ赤に染めて、身の置きどころをなくしたように、身体を縮こまらせてしまった。 「乱暴なのよりはましかもしれねーけど、それも情けないよなー」 「うむ。江戸時代の川柳に『へたな口説きよう、頼むから後生』というのがあるぞ」 「どういう意味だよ」 「『後生だから、俺とねんごろになってくれ』とぺこぺこ頭を下げて頼む男は粋ではない――というくらいの意味だ」 「そりゃ、確かに かっこ悪いよな」 こうなったら、少しでも無駄話を長びかせて、床掃除開始の時間を遅らせたい。 星矢がそういう考えでいることが明白だったので、氷河は、命をかけた戦いを共にしてきた仲間の 潔くない態度をこそ、情けなく思ったのである。 「何とでも言え。無理強いするより、土下座する方がましだ」 「土下座したのかよ! おまえが !? 」 「しませんってば!」 星矢の想像力が とんでもない方向に飛翔していくのを、瞬が慌てて引き止める。 その慌て振りに、瞬の仲間たちは――恋の当事者である氷河以外の仲間たちは――氷河が、土下座まではしなかったにしても、直角に腰を折って頼み込むくらいのことはしたのではないかと疑うことになったのだった。 「氷河がどういう口説き方をして瞬を落としたのか、実に興味深い問題だ」 紫龍がそんなことを言ったのは、彼が 星矢のさぼり計画に協力しようとしたからではなく、純粋な好奇心に突き動かされてのことだったろう。 床掃除という不名誉な作業から逃げられるのであれば 理由は何でもいい星矢が、身を乗り出すようにして、紫龍の好奇心に便乗しようとする。 「じゃ、床掃除を中断して、その謎の解明に――」 「星矢!」 瞬が、往生際の悪い仲間の名を呼んで星矢をいさめたのは、おそらく、アテナの怒りから仲間の身を守るため。 もし瞬に その意図がなかったとしても、瞬の叱責のおかげで、星矢がアテナに怒鳴られずに済んだのは 紛れもない事実だった。 「紫龍も馬鹿なこと言い出さないで。星矢は真面目に床掃除をして!」 「瞬〜! おまえは心優しい聖闘士のはずだろ! 俺一人でアテナ神殿の床全部を掃除するなんて無理だよー!」 「自業自得なんだから仕様がないでしょ。星矢は、ちゃんと罰を受けて、ちゃんと反省して、もっと慎重に振舞うことを覚えた方がいいの!」 言おうとしていたことを すべて瞬に言われてしまったせいで、振り上げた拳の振り下ろし先を見失った それでも彼女は、瞬の甘さを咎めるようなことはしなかった。 「仕方がないわね。瞬の優しさに免じて、追加の罰は下さないようにしてあげるけど――」 「追加の罰〜っ !? 」 アテナが何を考えて この場にやってきたのか。 散々 往生際の悪さをさらしてから アテナの意図を知った星矢が、光の速さでモップの柄を強く握りしめる。 やっと真剣に罰掃除に取り組み始めてくれた星矢の姿を見て、瞬は、ほっと安堵の息をつき、両の肩から力を抜いたのだった。 星矢が現在の自分の立場を自覚するに至ったことを確かめると、星矢の仲間たちと彼等の女神は、星矢の罰掃除遂行の邪魔をしないように、その部屋を出ることにした。 一行の最後尾について部屋を出かけた氷河が、ボレアスとオレイテュイアの絵にちらりと視線を投げ、低く独り言を呟く。 「しかし、なぜ 事実が こうまで捻じ曲げられて伝わっているんだ」 「え? 氷河、何か言った?」 「あ、いや。何でもない」 後ろを振り返った瞬のために、氷河は急いで微笑を作り、左右に首を振ったのだった。 |