「その翼、とても美しくて、僕、好きです。確かに人間には見えないけど――神様にしか見えないけど、でも、あなたから近付いていけば、翼があっても、あなたの故郷の人たちは あなたを同胞として受け入れてくれるんじゃないでしょうか?」
どうすればシュンに愛してもらえるのか。
側にいて、シュンに“氷河”をよく知ってもらえれば、それは実現可能なことなのか。
氷河には それはわからなかった。
だが、氷河は、シュンの側にいて シュンをよく知るようになるほどに、自分がシュンに惹かれていくことだけは感じ取れていた。
すべての人が優しく善良であるという大前提に立つシュンの考え方は、驚くほど優しく、心地良いものだったのだ。
地上に住む すべての人間を滅ぼすことを企んでいる神にとっても。

シュンのそんな考え方に反論し嘲笑したいのに、氷河にはそうすることができなかった。
シュンを傷付けたくなかったから。
氷河にできることは、せいぜい、なるべく皮肉の響きのない声を作って、
「そうはならないだろう。人間というものは、自分たちと違うものを冷酷に排斥する。おまえは知らないのか? 人間の冷酷さを、本当に?」
と尋ねることくらい。
氷河は、シュンを傷付けたくて そんなことを問うたのではなかったのだが、氷河の その問いかけに、シュンは悲しげな微笑を浮かべ、それから こころもち瞼を伏せた。

「僕が両親を失って、食べるものもなく、薄汚れた格好で道端に転がっていた時、アテナイの町には、僕を顧みてくれる人は ほとんどいませんでした。あの時、僕は、僕の姿は空気みたいに透き通っていて、誰の目にも映っていないんだろうかと思った……」
「ならば、なぜ」
ならば、なぜ――人間の冷酷を思い知るには十分な経験をしているのに なぜ、シュンは人間の冷酷を知らないような振りをするのか。
そう振舞うことで、シュンはどんな益を得るというのか。
純粋に不思議に思って シュンに尋ねた氷河に、シュンは、今度は翳りがなく明るいだけの笑みを返してきた。

「なぜって、今 僕がこうして生きていられるのは、そんな僕を顧みてくれた人が一人はいたということです。アテナイの神殿の神官様が、死にかけていた僕を拾って神殿に引き取ってくださったんです。神官様には、どんなに感謝しても感謝し足りないくらい感謝しています」
「たった一人? 他の奴等は皆、おまえを顧みなかったんだろう? 他の奴等は、おまえが飢えて死んでもいいと思っていたんだ。おまえは、そんな奴等を恨まないのか」
「その人たちにも事情があったんですよ。僕は、その時、本当に汚くて 骸骨みたいに痩せこけていたんです。そういう人間を見て、伝染するような病を抱えているんじゃないかとか、飢えから逃れるために暴力を振るわれるんじゃないかとか、不安を覚えるのは自然なことでしょう。人は、自分や自分の家族の身を守らなければならないんです。でも、だから なおさら、そんな僕を顧みてくれた人の強さと優しさが嬉しいの」

「だが……!」
だが、99人の冷酷な人間と、たった1人の親切な人間がいたら、人は、99人の冷酷の方を 人間の本性と思うものではないのか。
それが、正しく賢い判断ではないのか。
氷河が言葉にはしなかった疑念を、シュンは正確に読み取ったらしい。
シュンは、切なげな目をして、氷河に尋ねてきた。
「あなたは恨むの」
「恨む」
迷うようなことでもなかったので、氷河は即答した。
「そんな悲しいこと 言わないでください」
そんな氷河の答えを、シュンが、氷河には理解し難い言葉で受けとめる。

それは、氷河には全く理解できない言葉だった。
シュンは、いったい何が悲しいというのか。
それは悲しいことではなく、むしろ妥当で、自然で、賢明でさえある対応のはず。
氷河は、そう確信していた。
冷酷な人間たちに虐げられた者が、冷酷な人間たちを恨むことが、間違ったことだとも、悲しいことだとも、氷河は思わなかった。

「たった一人、優しい人がいたからといって、すべての人間を許し信じたりなどしたら、おまえは この先 幾度も、多くの人間に傷付けられることになるだろう。自分自身を守るために、おまえは もう少し利口になるべきだ」
シュンのために言ってやったのに、シュンは氷河の親切を受け入れず、その首を横に振った。
「人はみんな優しいです。冷酷なだけの人はいません。王宮に引き取られてからは、僕はみんなに優しくしてもらいました。僕がアテナイの町で死にかけていた時 僕を顧みなかった人たちも、家族には優しいのかもしれない。動物には優しいのかもしれない。植物には優しいのかもしれない――」
「そんな優しさに期待して生きるのは、広い浜辺で 砂粒より小さな輝く石を探して生るようなものだ」
「砂粒より小さな輝く石を見付けた時、僕は その輝きに とても幸福な気持ちになれるでしょう」
「……」

見付けられなかったら――永遠に見付けられなかったら どうするのだと、氷河は言いそうになってしまったのである。
だが、言わなかった――言えなかった。
シュンなら、永遠に見付からないかもしれない小さな輝く石に いつか出会えると信じて、その希望の力だけで、一生を生き抜いてしまうのかもしれないと思ったから。

小さな希望と、醜い現実世界。
これは、人が そのどちらに重きを置いて生きるかという問題なのだ。
シュンは前者、自分は後者。
ただ それだけのことなのである。

いずれにしても、シュンは、人間を滅ぼそうとする行為に自分の身体を提供するようなことはしないだろう。
それは改めて考え求めるまでもない答えだった。
となれば、シュンに北風の神の魂を受け入れさせるためには、シュンを騙すしかない。
否、もう騙している。
今の自分が既に、シュンに嘘しかついていない――本当のことは何も言っていないことを思い出し、氷河は そんな自分とシュンを内心で嘲笑ったのである。
人の優しさなどという ありもしないものを信じている者は、こんなふうに他人に騙されるしかない。
人の優しさを信じていない者は、こんなふうに人を騙すしかない。
自分とシュンを嘲笑いながら、同時に 氷河は、シュンへの罪悪感を感じ始めてもいた。
シュンは何も悪いことをしていない。
ただ 人の優しさを信じ、思わぬ災難に見舞われて傷付いている人間に同情心を抱いただけなのに――と。

かわいそうなシュン。
卑怯な自分。
氷河は、そんなふうに思い、そんなふうに思ってから、そんなふうに思っている自分に驚いたのである。
なるほど、優しい人間が一人いれば、その者は自分以外の人間を変えることができるのかもしれない――と。
強く優しい神官に命を救われ、その後 引き取られた王宮で皆に優しくしてもらったとシュンは言ったが、実は その者たちもシュンに出会わなかったら冷酷な人間だったのかもしれない。
シュンに優しい人間だと信じられることで、彼等は優しい人間にならされてしまったのかもしれない。
多分そうだと、氷河は思った。
現に、自分の心は、シュンのせいで揺らぎ始めている――と。

これは良い変化なのか、それとも、自分を危うくする危険な変化なのか。
そのいずれにしても、変化――特に心情の変化というものは、その変化を生じている者の中に不安の思いを生むものである。
氷河は、シュンの澄んだ瞳の前で、不安に囚われ始めていた。

「あの……その大きな翼……。あなたはどんなふうにして眠るの」
ふいにシュンが、氷河の背にある白い翼を見詰めて尋ねてくる。
それが不安を助長するような問いかけではなかったので、氷河は比較的気軽な気持ちで 問われたことに答えたのだった。
「鳥のように翼を閉じて、うずくまって眠る。さすがに木の枝にとまって眠るようなことはしないが」
神である氷河には、眠りは 必ずしも必要なものではなかったのだが、何も考えずに済む時間を手に入れるために、氷河は眠りを利用していた。
氷河の返事に驚いたのか、シュンが その瞳を見開き、2度3度と瞬きをする。

「それだと、疲れがとれないんじゃ」
「そうだな。俺はいつも疲れている」
たまたま そういう立場を与えられただけのことで、栄光に包まれているオリュンポスの神々への憎しみと妬みのせいで。
シュンに知られるわけにはいかない自らの心を隠して、氷河はシュンに浅く頷いた。
本当のことを何も知らないシュンが、氷河の傷心の本当の理由を知っているように痛ましげな目で氷河を見詰めてくる。

「せっかくの綺麗な翼なのにって思っていたけど、いろいろ不便なんですね。やっぱり 元の人間に戻れた方がいいですね」
「……そうだな」
人間になれたら、自分は もっと素直に――こんな不安に囚われることなく素直に――シュンの言葉を聞くことができるようになるのかもしれないと思う。
そうなったら どんなにいいだろうと、心を不安に揺らされながら、氷河は思った。






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