時計は夕方といえる時刻を示している。
にもかかわらず、日が暮れる気配は一向に見えてこない。
本当に夜には気温が下がるのかと疑いつつ、ヒョウガは 領事館の居間から続く白い石作りのベランダに出てみたのである。
馬車で この館に向かっている時には 自分が坂を登っていることに気付かなかったが、領事館は小高い丘の上に建っていた。
そのため、ヒョウガは、2階の部屋のベランダからでも十分に 館の周辺の様子を確かめることができた。

先ほどヒョウガが通り抜けてきた町は、さほど大きな町ではなかった。
というより、町の周辺に広がっているものが広大に過ぎた。
町の向こうに緑が広がっている。
百年の時をかけてフランス人が根づかせた落花生の広大な畑。
世界中の人々が消費する落花生を この国一つで まかなえるのではないかと思えるほど、果ての見えない畑。
その広大な畑のところどころに、粗末な木の小屋が互いに支え合うようにしてできている集落がある。
それが、この巨大プランテーションで働く農民たちの住まいらしい。
フランス風の建物、フランスの空気、フランスの雰囲気があるのは、宗主国フランスから この地にやってきた白人たちの住む町の大通り周辺だけで、そこを外れると、やはり ここはアフリカ。
フランスでは考えられない規模の農園を眺めて、ヒョウガは初めて その事実を実感したのだった。

「そんで、通訳のことなんですがね」
ふいに話しかけられたような気がして、ヒョウガは弾かれたように後ろを振り返った。
彼が断りなく館の主の居間に入ってくるはずはないので、広大な農園に意識を奪われたまま、ヒョウガは上の空で彼に入室の許可を与えていたのだろう。
自分のことだというのに自信を持てないまま、ヒョウガは、館の管理責任者であるセネガル人に 軽く顎をしゃくってみせたのである。
彼は、何かを探るような目で――というより、何か隠し事をしていて、それがばれることを恐れているような目で――ヒョウガの表情を窺ってきた。
鼻母音のへたな聞き取りにくいフランス語。
これから毎日このフランス語を聞き続けなければならないのかと思うと、ヒョウガは少々 気が重くなった。
美しい言語は、美しい声と美しい発音で作られないと、逆に醜悪さを際立たせる。

「君が通訳を務めてくれるのか」
そうなのだとしたら、一刻も早く自分で この国の言葉を習得しなければならない。
胸中で そう決意したヒョウガに、彼は、大袈裟な身振りで その決意が不要のものであることを知らせてきた。
「まさか! とんでもない。そんなひでぇことは!」
それは、そんなにも断固とした態度で否定しなければならない重大事なのか。
もちろん、それは強く否定された方が ヒョウガにも喜ばしいことではあったのだが、それにしても大袈裟な否定振り。
ヒョウガは、彼のその態度を訝ったのである。
そんなヒョウガの前で、聞き取りにくいフランス語を話す男は、聞き取りにくいフランス語で、訳のわからないことを話し出した。

「こっちに着任された領事様には、いつもなら、若い別嬪を厳選して届けるんですが、今はちょうどいい人材が――ああ、いや、この土地の者なんで別嬪つうても、生粋の白人というわけじゃないんですがね。ウォルフ語は、この地で生まれ育った者以外の者には、えらく習得の難しい言語らしくて、白人の通訳を育成するのは難しいんですよ。んでも、そりゃ仕方のないことで――」
彼のフランス語の聞き取りにくさのせいもあるのだろうが、彼の発言は全く要領を得ない。
が、要領を得ない彼の発言に、ヒョウガは、要領の得なさだけによるものではない不快を感じることになったのだった。

彼が、おそらくは彼の同胞である通訳を、まるで物品のように“届ける”と言ったこと。
そして、彼が、生粋の白人であることに重い価値を置いているらしいこと。
黒人である彼は、好きでそんな言い回しをしたのではないだろうし、彼にそんな価値観を植えつけたのは、宗主国の人間として この地の住人たちに居丈高に振舞っているフランス人たちなのだろうことも容易に察しがつく。
彼に罪はないのかもしれない――おそらく、その罪を負うべきは“生粋の白人”であるフランス人たちの方なのだろう。
そう思わないこともなかったのであるが、それでも、彼の言に ヒョウガは むっとした。
ロシア人とフランス人のハーフである母と、日本人とロシア人のハーフである父の間に生まれたヒョウガは、“生粋の白人”ではなかったのだ。
金髪碧眼の見掛けだけで、ヒョウガを“生粋の白人”と決めつけ、彼は不用意に そんなことを言ってしまったのだろうが、彼の価値観に ヒョウガは少し――否、大いに――気分が悪くなったのである。

「語学が堪能なら、別に若い女でなくてもいいだろう。まして、容姿など」
「そうはいかな――いや、その通り。ああ、いや、心配せんでも、別嬪なことは別嬪なんで。まだ若いんですが、こっちの言葉とフランス語だけじゃなく、英語とスペイン語もできて、通訳の務めは十分に果たせる奴です」
「なら、問題はないだろう」
「へえ、問題ないんで!」
それまでヒョウガの反応を窺うような目をしていた管理人が、突然 素直な子供のように明るく はっきりした声で 元気な返事を返してくる。
どうやら彼は、ヒョウガにつける通訳が若く美しい女でないことでヒョウガが機嫌を損ねるかもしれないと、それを危惧して 怪しげな態度になってしまっていたらしかった。
全く別のことで 自分がヒョウガの機嫌を損ねたことに気付いた様子もなく、彼はヒョウガの居間の扉の方を振り返った。

「旦那様のお許しが出たぞ。入ってこい」
そう言って、また少し ヒョウガの反応を窺うような目付きになる。
が、その時には既に ヒョウガは、管理人の そんな目付きも気にならないほど、彼に促されて部屋に入ってきた人物に意識を奪われてしまっていたのである。

最初、ヒョウガは、彼女を白人だと思った。
次に、その肌の肌理の細かさや、華奢で小振りな体型を見て、アジア系かと考えを改める。
いずれにしてもアフリカ系でないことは――彼女が生粋のセネガル人でないことは確実だった。
彼女の肌の色は、ヒョウガより はるかに白かったのだ。

彼女は不思議な雰囲気をたたえた人間だった。
その姿を作っているのは、これまでヒョウガが出合ったことのない美しさ。
髪の色は薄茶、信じられないほど澄んだ瞳は黒味がかった濃茶。
美しいことは美しいが、『可憐』『可愛らしい』あるいは『無性の妖精じみた』という形容の方が よりふさわしい。
姿だけで判断するなら、彼女は、若く美しい女ではなく、少々 若すぎる美少女。
フランスの上流階級でなら、親の庇護から離れて働くことなど考えられない年齢の、とびきりの美少女だった。
年齢は、10代半ば。
長い布を身体に巻きつける この地の服ではなく、この仕事のために与えられたのだろう白いシャツを身につけている。
彼女は、スカートをつけていないことを除けば、フランスの社交界デビュー前の上流社会の令嬢という佇まいをしていた。

「若い女ではあるようだな。いや、若すぎる女の子か」
『女ではない』というのは『子供だ』という意味だったのか――。
それまで見たことのない種類の美しさ可憐さと、異国的というより異世界的といった方が より適切な不思議な雰囲気に圧倒され、ヒョウガは、かすれた声で そう言うのがやっとだった。
この稀有な――異常といってもいい――美しさを視界に捉えながら、まるで動じていない管理人の前で、自らの威儀を保つので精一杯だった。
だが、それも、
「旦那様、僕は男子です」
という、彼女の(?)言葉と声が不可能にする。
彼女(彼?)は、実に美しいフランス語で そう言ったのだ。
涼やかな少女のような声で、自分は男子だと。






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