『スリーピング・ディクショナリー』と、フランス語ではなく英語で言うのは、それが英米の植民地で始まった慣習だからなのか、あるいはそれが他に誇れるような慣習ではないことをフランス人たち自身がわかっていて、それゆえ あえて英語で呼んでいるのか。 おそらく後者なのだろうと、ヒョウガは思ったのである。 英語で、スリーピング・ディクショナリー ――眠れる辞書。 早い話が『現地妻』である。 この地に派遣された領事と生活を共にして――性生活まで共にして――少しずつ この地の言葉を彼に教える 生きている辞書。 この地には、数年の任期で入れ代わり立ち代わり やってくる領事に 常に生きている辞書を提供できるよう、スリーピング・ディクショナリーを養成する学校まであるのだという。 シュンが言っていた“僕の先生たち”というのは、その学校で語学や欧州でのマナーをシュンに教えた教師たちのことで、多くは過去にスリーピング・ディクショナリーを勤め上げた女性たちなのだと、シュンは言った。 「本当なら、僕より7歳年上の女性が この役目に就くはずでした。でも、彼女は3日前に恋人と逃げてしまったんです。今、養成所で、ちゃんとしたフランス語を話せるのは、僕の他には40歳以上の人ばかりで――養成所には若い女性もいることはいるのですが、彼女たちのフランス語はまだ不完全なんです。あの……旦那様のお国の方々は、未熟なフランス語を極端に嫌うでしょう? 言葉が美しくないと、それだけで侮られ――いえ、尊敬を得られません。それは、僕たちの国が侮られるということで、先生たちは それだけは避けたいと考えた。もちろん、逃げた者への捜索は行なったのですが、彼女を捜し出すことができないでいるうちに、旦那様が着任してしまったのです。先生たちは、この責任ある仕事を僕に任せることを急遽 決定し、そうして 僕が旦那様の許にやってきたのです」 「……」 ヒョウガは、驚きのあまり、声も出なかったのである。 外国語の習得には、その言語を話す恋人を持つのが最も手っ取り早い方法と 俗に言われているし、その理屈もわかる。 しかし、そんな偽りの恋人を養成するためのシステムが存在し、実際に機能しているとは、言語道断な話である。 自由と平等を求めて君主制と戦い、世界に先駆けて人権宣言を採択した国の人間のすることではない。 それとも、共和国フランスの自由と平等は、フランス人だけ白人だけに有効な、ひとりよがりなものなのだろうか。 この慣習に怒りを感じるのは、自分が生粋のフランス人でも生粋の白人でもないからなのだろうか。 生粋のフランス人たち、生粋の白人たちは、これを自分たちの当然の権利として、提供される生身の辞書を受け取ってきたのだろうか――? どうやら そうらしいと、ヒョウガは思わないわけにはいかなかったのである。 至らなかったのは自分たちの方だと言わんばかりに打ちひしがれたシュンの態度を見せられてしまっては。 「あの……お怒りにならないでください、旦那様。旦那様の憤りはわかりますが、僕がここに来ることになったのは、たどたどしいフランス語で 旦那様の ご気分を損ねるよりはと、旦那様の お気持ちを考えた上での決定だったのです」 ヒョウガが憤っているのは、そういうことに対してではなかった。 しかし、シュンには、ヒョウガの憤りの真の意味はわかっていない。 おそらく この地の人間たちは、長い被支配の歴史の中で、自分たちが人権を踏みにじられているという意識を持つことを禁じられてしまったのだ。 「僕が旦那様に お気に召していただけないと、職務怠慢、管理不行き届きで責められ罰を受けるのは僕の先生たちなんです。僕が旦那様の側にいることを許していただければ、誰も罰を受けずに済んで、逃げた彼女も追跡されずに済みます。僕は命を賭して旦那様に お仕えします。ですから、どうか――」 ですから、どうしろというのか。 いくらフランス人、白人でないといっても、シュンは心を持った一人の人間である。 今日 初めて出会った異邦の男を、抱かれたいと思うほどに愛しているはずもないだろう。 「お気に召すも何も、そんな顔をしていても、おまえは男子なんだろう」 「はい。ですが、お国からいらっしゃる方々の中には そういう趣味の方々も多く、女性より男子のスリーピング・ディクショナリーを求める方も少なくないのです」 「……」 どうやらこの地に派遣されたフランス人たちは、体面や社交界の評判に常に気にかけていなければならない本国を離れたことを幸い、恥も外聞もなく 浅ましい本性をさらしまくっているらしい。 美しいフランス語を話せないとフランス人に軽蔑されるというようなことをシュンは言っていたが、軽蔑されるべきは異国で特権階級を気取っている共和国フランスの人間たちだろうと、ヒョウガは思った。 が、いかに悪習とはいえ、おそらくは百年以上続いてきた慣習。 あまつさえ、この地の者たちは、ごく自然に 宗主国の人間に比べれば自分たちは貧賤の身であると思い込んでいる(らしい)。 長い時間をかけて強烈に この地の者たちの意識に刻みつけられた意識や慣習は、一朝一夕で撤廃させられるようなものでもないだろう。 その上、へたなことをすると、災厄が思わぬところまで及ぶことにもなりかねない。 この状況を改善するには、慎重かつ大規模な対応策を講じる必要がありそうだった。 そして、とりあえず今夜を、ヒョウガは穏便に乗り切らなければならなかった。 「俺には その趣味はない。そういう相手はしなくていい。だが、おまえを気に入った振りをする。それでいいか」 それが、生粋のフランス人ではなく、生粋の白人でもなく、だが、被支配者層に属するわけでもないヒョウガが見い出した、当面の妥協策だった。 「あ……はい、ですが……」 シュンが、信じられない話を聞いたと言わんばかりの目をヒョウガに向けてくる。 宗主国の人間は、彼等に与えられた権利を当然のごとくに行使し、彼等が人間として認めていない未開の地の人権を当然のごとくに踏みにじるものと、シュンは決めつけていたようだった。 それが自然で当たりまえのことなのだと考えていたようだった。 安堵より困惑の色の方が濃い瞳で、シュンは 奇妙な提案を持ち出した宗主国の人間を見詰めてきた。 「あ……では、今夜、僕がここにいることを許してください。今 僕がこの部屋を出ると、それだけで問題になりかねません」 「それは構わないが」 「ありがとうございます。椅子を一脚 お借りしてもいいですか。あ、いえ、もちろん僕は床でも眠れますが……」 シュンは、自分を犬か猫とでも思っているのだろうか。 シュンが悪いのではないことは わかっていたのだが、ヒョウガはシュンの卑屈に立腹しないわけにはいかなかったのである。 「横幅が縦の3倍もあるようなベッドだ。なにも椅子なんかで寝ることはあるまい。まして、床など――」 「はい。ですが、そんなことはできません。その……旦那様の益になることをするわけでもないのに、同じベッドを使うなんて」 「なら、俺が椅子で寝る」 自分より弱く小さな者を椅子や床に寝かせて、五体満足な大の男が広いベッドを占領することなどできるわけがない。 ヒョウガが宣言通り長椅子の方に移動しかけると、シュンは真っ青になってヒョウガを引きとめようとした。 ヒョウガの腕を取ろうとし、僅かに指先が触れただけで畏れ多いことをしてしまったと言わんばかりに素早く、シュンが その手を自分の方に引き戻す。 シュンのその一連の振舞いを見ただけで、ヒョウガの怒りは激化した。 「こんな慣習、なくしてやる!」 あの堅物で独身主義の叔父も、若い頃には こんな悪習の恩恵(?)を享受していたのかと思うと、植民地を有する すべての帝国主義国家の人間が下劣な生き物であるような気になる――尊敬できる人間がいなくなる。 他の誰でもない自分のために、そして、すべての植民地の民と すべての宗主国の人間の誇りを守るために、こんな悪習はなくすべきだと ヒョウガは思い、吠えた。 まさか、その意見に、支配を受け虐げられている側の人間から反論が出てくるとは、ヒョウガは思ってもいなかったのである。 だが、実際、その反論は、宗主国の人間に人権を踏みにじられているシュンの唇から出てきたのだった。 「はい。ですが、僕は、この慣習のおかげで、教育を受けることができたんです。旦那様の お国からいらっしゃる方々の機嫌を損ねたら どんな事態を招くことになるかもしれませんから、スリーピング・ディクショナリーの候補者は とても慎重に育成されます。語学や欧州のマナーや立居振舞いはもちろん、無教養で ろくな会話も交わせずに旦那様を退屈させてしまったりしたら大変ですから、歴史、地理、哲学、政治経済、基本的な自然科学、芸術、ありとあらゆることを学ばせてもらえます。欧州から白人の教師も多く招いています。スリーピング・ディクショナリーの慣習がなかったら、僕は欧州の文化に触れることさえできませんでした」 「だから おまえは、好きでもない男に身を任せるのも仕方がないというのか !? おまえは、自分の人間としての尊厳を守ることと、教育を受けることの どっちが大事だと思っているんだ!」 「教育を受けないと、人は、自分に一人の人間としての権利があることに気付くこともできません」 「……!」 シュンの主張には、ある種の理があった。 その理を認めないわけにはいかず、ヒョウガは 一瞬言葉を失ってしまったのである。 しかし、ヒョウガは、シュンの言う理を どうしても受け入れることができなかった。 その理――矛盾を含む理――を受け入れてしまうと、植民地の人間は、シュンのように美しい姿を持った者でないと教育を受けられないということになってしまうではないか。 「子供は全員が学校に行くべきだ。そうだ。それで、おまえたちが教師の職に就く。この悪習がなくなっても、おまえは失職せずに済む。それで、四方が丸く収まるだろう。ああ、それから、領事は、赴任する先の言葉を勉強してから任地に赴くべきだ。なにがスリーピング・ディクショナリーだ、人権無視もはなはだしい!」 勢いよく言い切ってから、途轍もなく気まずい気分になる。 ヒョウガは語調を落として、 「いや、俺も偉そうなことは言えないんだが」 と、弁解にならない弁解をすることになった。 シュンが、そんなヒョウガに嬉しそうな微笑を向けてくる。 「素敵ですね。叶わぬ夢でも、嬉しい。ありがとうございます、旦那様」 シュンは、最初の出会いの時から、いつも その口許に やわらかい微笑を浮かべていた。 ヒョウガは、それが作り物の微笑だったことに、シュンの本物の笑顔に会って初めて気付いたのである。 シュンの心からの笑顔は、ヒョウガが思わず目を細めてしまうほど明るく、眩しく、生気に輝いていた。 「ヒョウガと」 「はい?」 「ヒョウガと呼べ。旦那様ではなく」 眩しさに目が眩んで声がかすれるというのも おかしな話である。 だが、現にヒョウガの声はかすれていた。 「あ、はい。ですが、そんなことをしたら、僕と僕の先生たちが叱られてしまいます」 「ベッドを共にした仲ということになるんだ。その方が それらしいだろう」 と、それらしい理屈で答えてから、 「俺はおまえにヒョウガと呼ばれたい」 と、本当の理由を告げる。 シュンは一瞬 驚いたように瞳を見開き、それから少し はにかんだように、『 二人の会話で、もしかしたら初めて、『 |